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大事なこと


今年、コロナ禍と言われるような最中で、自分の法人の運営を考えるときに、前職のことをよく思い出す。なんでなんだろう。

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先日も、発達障害についてスタッフが進めてくれた内部研修を受けている最中から、以前、それも自分がいちばん前職でモヤモヤしている当時の気持ちが蘇ってきた。それは、講師の方が特にそうだったのだと思うけど、いよいよこんなにも科学的に脳機能の障害として知的障害や広汎性発達障害のことを研修してもらえる時代になったんだ!と、思ったことがきっかけだった。当時、ぼくも経験や勉強不足だったということもあるかもしれないけれど、どうやっても自分の考えている支援と目の前のチームで行う現場の支援が噛み合わず悩んでいた時期があった。もっと「取り扱いできること」を根拠に、メンバーの支援やプログラムが組み立てられないかと思っていた。「優しさを大事に」「愛をもって」「先輩や上司の経験に基づき」「これまでこうしてきた」と言われることが支援を立てる中多かった。だが、実際にそれらは有効なのか?それとも個々の関係性で成り立っているのか・そういう分析はできないかと思った。メンバーに合った環境づくりをしたかった。科学的に支援者側の方法を「取り扱い」可能な分析をしたかった。当時のぼくは、(今もだけど、)メンバーの視点に立つというのは「その人」になれる訳ではないのだから、自分の支援について冷静に評価する視点を持つことだと思っていた。「優しさ」とか「愛」とか、勝手に一方的な評価すべきではないものを分析の対象にしたくなかった。なぜなら、もしそれが評価していいものだとしたら、うまく行かない支援は「優しさ」や「愛」「熱意」が、「ないこと」になってしまう。そしてそれは、家族をいちばん絶望させる。

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その場合、現場の経験の多い人の方が圧倒的に経験則でうまくいくのだろうと思った。必然的に「経験や年数」ばかりが上手くいくための条件になり、そういう傾向のある現場には「いじめ」のような構造がチームにできやすい。できやすいし、「メンバーが望んでいないのにやるのは嫌なんですよね」と反論しずらい正論(技術や知識がないから出る、ただの皮肉とか言い訳なんだけど・・・)を言っていたスタッフにいちばん葛藤していた。具体的な手立てとしての支援が苦手だったそのスタッフは毎年、新任の年下のスタッフを影で先輩風を吹かせ、いびっていた。また同じような傾向にあった専門的な資格のある立場のスタッフは、やや強引に他事業所との連携が必要な支援を進める傾向にあったけど、その専門的な位置づけや噂話が好きで、一言言いづらい人だったけれど、やっぱりというか、その人にはぼくもかなり(当の本人はイライラを当ててきただけだろうけど)いびられた。前職をやめようとおもったことは何回かあるけれど、唯一、現場が嫌でやめようとおもったのは、その二人から「そんなに事務時間必要なら(物置になっていた)部屋でやれば(笑)」と言われ続けたときだ。振り返れば、どちらもキャリアにはとてもプライドがある人だった。

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正論っぽい皮肉や言い訳は、人をモヤモヤさせる。大人気ないだけなのだけど、チームで動く現場で、ある一定の年数や専門的な役割にある人が後輩や同僚に対してそういう態度が反論できな状況で続くと、それは「弱い」方へ連鎖していく。しかも見えない、見えづらい形で。どこの現場もどのスタッフも一方的な評価で測れない「思い」や「プライド」を持って働いている。だからこそ、障害や支援というものは「取り扱い」できる科学的な分析「も」必要だ。それに、支援者は、就業時間を過ぎれば、自分の生活がある。支援者であることを脱ぎ捨てることができる(それは悪いことでは決してない)。「メンバーが望んでいないのにやるのは嫌なんですよね」というのであれば、少なくとも支援者でいる間は、では何をどうメンバーが望んでいて、どういうことが必要なのか」その支援について、話て欲しかったし、実践して欲しかったし、伝え続けたけど、理解してもらえなかった。

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ここまでは愚痴のような話なのかもしれない。さて、その支援者が担当していたメンバーのお母さんに病院で偶然会ったことがある。事情もあり入所していた利用者だったが月1回ほど、自宅に帰っていた。その帰省時にパニックになり母の手の指を骨折させてしまったのだという。家族も、そして本人も実はみんないっしょに暮らしたいのだ。だけど、そうできない事情がある。前職は重度の知的障害と言われる人が多い現場だった。だから、例え、強度行動障害と言われてしまう人も、本人が障害を感じているのではなく、むしろ周囲の人間が「障害」を感じている。いや実際に障害は、そこにあるのだ。だから。だから、「メンバーが望んでいないのにやるのは嫌なんですよね」と言うことが仕事になってしまっている状況はどうにか変えたかったし、皮肉や噂が飛び交うチームにはしたくなかった。変えたかった。そして、もし本当に「現場」にいる支援者であれば、メンバーと家族がすごす時間が少しでも障害があっても増やしていける「手立て」を考えることが仕事だし支援だ。それをチームで目指さなければ。ぼくだって、支援が上手ではない。間違いも多い。だからだ。だから「取り扱い」ができるというのは、支援者「が」ではなく、当事者「も」家族「も」できるものをつくることはとても大事なはずなんだ。

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現場というのは、施設の中や、目の前に怒る出来事に対して支援者の都合で規定する場のことではなく、地域に生きるメンバーの生活について関係性や環境に視野を拡げ、関わる支援者の視座を分析し「その人が生きる」に立ち会うときの「場」のことだとぼくは思う。よく上司とリーダーと夜遅くまでどうしたら良いチームになるんだろうかと話し合っていた。その上司はぼくの話を聴いてくれたいたんだと思う。ぼくが一人、孤立してしまうようなことを避けてくれていた。そして支援の話よりも、働くひとがどう働きやすいだろうかとか。それ以上にメンバーへの支援を考える環境に職場がなっているだろうかと、そんな時間に費やしていたと思う。あるとき上司が「科学的にって、大事なことだよな」と言ってくれた。そうだ、10数年前に、そのたった一言で、大事なことを見失わずに済んだことを思い出した。

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