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ケアするのは誰か、ケアの責任と配分

今年の東大の総長の祝辞で、ジョアン・C・トロントの『ケアするのは誰か』が言及されていた。

「ケア」に関して、政治学者のジョアン・トロントは、Who cares ?という秀逸なタイトルの本を著しています。Who cares ?は、直訳すれば「ケアするのは誰か」という問いかけですが、英語圏の日常会話では多くの場合「知ったことか」という切り捨ての意味で用いられます。この「そんなことは知らない、ケアなどするものか」という姿勢が、尊大なマジョリティやエリートのなかに蔓延しがちであること、「自分たちが社会から自立して存在しているのだ」と考えるような危険なものであることを、トロントは批判的に指摘しています。

https://www.u-tokyo.ac.jp/ja/about/president/b_message2022_01.html

『ケアするのは誰か?』はとてもおもしろい本で、ケアを民主主義の中心に持ってくることで、自己責任的な競争社会から一歩進んだ社会を目指そう、というような趣旨のことを書いている。

ちょうど、オンラインゼミの有志が集まって、この本を題材に読書会をしていたので、なんだかタイムリーだなと思った。
一昨年から立て続けに「ケア」に関する本が出版されている。同時に私の本棚もどんどんケアに関する本で埋まっていった。ここでいう「ケア」は介護とか看護とか、あるいは家庭内の育児などとはまた違った、広く「他者」に対して関心を持ち、配慮し、あるいは応答して、対話をしていくことにつながるものだ。

もちろん、コロナ禍の影響で、ケアワーカーに注目が集まったことも、こうした「ケア」への関心の高まりの要因でもあるけれど、誰が「ケア」をしているのか、が今までずっと見過ごされてきた、そして主に私も含めたマジョリティな男性がケアを行うことから逃れてきた、ことが、社会のなかで明らかになってきたのかもしれない。

ケアの実践は、自分で育児や介護をしていると、その大変さがよくわかる。とても時間もかかるし、自分のペースでできないし、物理的にもその場にいないといけない。だから、ケアが誰かに偏ると、その誰かはしんどい思いをするし、今までの場合はその誰かは、女性だったり、(海外だと)外国人労働者だったり、していた。

社会全体でケアの配分を見直そう、というのがトロントの主張でもある。これまで「ケア」から遠かったひとも、広く捉え直して「ケア」に関わっていく。

久しぶりに子どもが生まれて、新しく同月齢のパパママをフォローしてみると、まだTwitter界隈では「何もしない夫」の愚痴をよく見かける。ケアをしなければいけない責任をどう配分するか、はもっと温まっていくべき議論だと感じている。誰か一人だけがしんどい思いをする、仕事と育児の両立はやめて、みんなで分け合って助け合えるケアの仕組みに生まれ変わるといいなと思う。

時流に沿った、東大総長の言葉は、とても心強い。


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