上野千鶴子先生の祝辞
上野千鶴子は、尊敬している学者の一人だ。
その言葉は鋭く、端的に本質を突く。縦横に事象を調べ尽くして、見えない、無きものとされてきたものたちを、明らかにしてきた。自分の強さを、抵抗するのも諦めようとしていた人たちのために使ってきた。
それでも変わらない今を、晩年はただただ嘆き、そのたびに炎上していたように思う。
なので、今回話題になった祝辞は、いつもどおりの上野先生の言葉だ。
批判や皮肉と受け取る人も多いだろうけれど、祝辞として、とても穏やかなとげの抜いた文章になっている(彼女的には)。
なぜ人間の生命を産み育て、その死を看取るという労働が、その他のすべての労働の下位に置かれるのか。
これは、彼女の代表作である『家父長制と資本制』(1990年)の締めくくりに投げかけられた問いだ。
この問いは、一つの正解を導き出すための問いではない。一つしか正解のない世界から、多様な答えを見つけられる世界に、変えていくための問いだ。
1人の主夫として、労働者として、わたしもこの問いを繰り返し考えている。彼女の問いかけに多くの人が反応し、再びその問いを考える。そうして彼女の学問は、生まれている。彼女の仕事はこの問いから始まり、広がっている。「問い」は繰り返され、新しい「知」が生み出される。
大学で学ぶ価値とは、すでにある知を身につけることではなく、これまで誰も見たことのない知を生み出すための知を身に付けることだと、わたしは確信しています。知を生み出す知を、メタ知識といいます。そのメタ知識を学生に身につけてもらうことこそが、大学の使命です。
その「知」は、誰かを守るために使うものだ。知は武器になる。武器は誰かを傷つけるためのものではなく、誰かを守るためのものだ。
あなたたちのがんばりを、どうぞ自分が勝ち抜くためだけに使わないでください。恵まれた環境と恵まれた能力とを、恵まれないひとびとを貶めるためにではなく、そういうひとびとを助けるために使ってください。そして強がらず、自分の弱さを認め、支え合って生きてください。
「祝辞」なんてだいたい覚えていない。楽しい大学生活のなかで、きっと忘れられる。でも、いまこの祝辞に助けられた、救われた思いを抱く人も多いはずだ。熾烈な競争を勝ち抜いてきた新入生だけに向けられた言葉ではなく、努力が報われなかった人たちにも寄り添った言葉だから。
新入生がこの祝辞を忘れてしまっても、私はちゃんと彼女の言葉を覚えていたい。忘れないように、ここに書き留めておく。
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