障害者の声はワガママなの?
タイトルどおりの内容の対談のウェビナーを視聴した。ことの発端は車いすユーザーの方が当たり前に電車に乗れなかった話から。
本人も登壇されているので、まず詳細なそのときの状況をうかがうことができた。憶測で叩かれているようなことは何一つなかった。大前提として、憶測で人をたたくのはやめよう。
同時に、そのときの「やりとり」のなかで、無意識のうちに発してしまっているマジョリティ側の言葉が、ひとを傷つけてしまっているのではないか、というのも感じた。
たとえば「今回は特別です」という駅員さんの言葉。今回、こんなに主張したから特別に対応してくれたのか、他の障害者の方には対応してくれないのか、たまたま駅員がたくさん確保できたから特別なのか。
それでは、なにも変わらない。
みんなができていることが当たり前にできなければ、社会の側に障害がある。その障害を変える方法のひとつとして、声を上げていくことは有効に働く。もちろんすべての不自由を感じている人がそうしなければならないわけでもない。声を上げることのしんどさ、大変さ、を避けることもまた自分を守るためにも大切なことだから。
それでも、社会を変えようと思って、勇気をもって声を上げたことに対し、たくさんの批判が飛び交ったのが、とても悲しいことだ。
そして、自分の周りのフォローしてくれる人まで、ひどく誹謗中傷されてしまった、という。それを見て申し訳無くなり、自分の存在が周りにとって迷惑な存在だと思い、発言の場所も機会も奪われる。それもまたとても悲しいし、そんなふうに思わせること自体、ひどく差別的な社会だ。
もっとわきまえた発言の仕方ややり方があったんじゃないか、という人もいる。でも、ほかの誰かのそのやり方がいいか悪いか、自分は正しくジャッジできる人間だと思える人は、なぜそう思えるんだろう。わたしは、それがいいか悪いかなんて、口出しできないし、その場に自分がいたとして、いざというときに正しい行動がとれるかどうかなんて分からない。感情的になることもあるだろうし、間違えることだってある。
どちらにしろ、個人の行動ややり方の話に小さくまとめてしまうことは、この問題の解決からは遠くかけはなれている。
こういう問題は、身体障害の文脈だけでなく、人種、ジェンダー、心理的な目には見えない障害などの文脈でも同様に起こる。自分自身が当たり前に社会のいろんな場所にアクセスできて、楽しむことができることは「特権」なのだと意識していないと、知らないうちに誰かのことを差別して、傷つけてしまうかもしれない。
もちろん、完璧な仏様みたいな人はいないし、誰しもどこかで間違って傷つけてしまうことはあるし、私も絶対に差別なんかしないとは言い切れない。こういう対談を聞くだけの余裕があって、知識を身に着けることができる環境にある、というのもまた、特権的であるはずだから。
もっと気楽に、こういうことを知る機会が増えたらいいな、と思う。ここまで息苦しい文体で書いておいてあれだけど、わたしだって上手にこういう話ができるわけじゃない。いつもとぎれとぎれ、考えながら言葉を探して話をしている。
少し前から参加している野口晃菜さんのオンラインゼミは、いろんな立場の人がわりとゆるくこういう話をできる場を作ってくれている。わたしもマイノリティになることもあれば、マジョリティになることもある。どちらの立場になっても、生きやすい社会だったらいいな、と思う。生きづらさが多い世の中だからこそ、お互いの生きづらさを共有して、ちょっとずつ楽に生きられるように、生きられる社会になるように、考えていたい。