悼む気持ちはそれぞれに
祖父の葬儀をひと通り終えて、家路につく。
まだまだこれからも生きる私たちは忙しい。それぞれに生活があり、時間は待ってくれない。
ひと通りの慌ただしい儀式が終わって、ふと一人になるとようやく悲しみが込み上げてくる。なのに、あんまり実感がない。静かに病室で看取ったその瞬間さえ、生きているように思えた。いまだにやっぱり生きているのでは、と思ってしまう。喪失に慣れるのには、時間が必要だ。だから、何度もまた集まって祈る。
悼む気持ちはそれぞれだ。それぞれの生活のなかで、誰もが折り合いをつけていて、場所も時間も都合の良いところで、それぞれのやり方で悲しみ、また思いを馳せればいい。
ゆっくりと喪失を受け入れて、慣れていく。日々の生活は変わらない。変わらない日々のなかで、ときどき思い出したときに喪失を実感するのかもしれない。思い出のなかでしか、出会えないことを。
明日も、明後日も、いつもどおりに生き抜くために働いていく。
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