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測れないものを、測ろうとすることの怖さ

計る、測る、量る。なんでもいい。とにかく数値化すること。共通のものさしを使うこと。

それが求められるのは、それによって比較可能になり、説明に説得力が増すからだ。
説明責任、透明性、当たり前のようにそれが良いことだとされている。個人の感覚や経験によるものでなく、一般的な指標、基準で判断し評価するそのほうが正しいことが多いし、みんなも納得しやすい。

けど、確かに正しいのだけれど、というところで私は立ち止まってしまう。
絶対的な正しさなんて本当にあるはずもなく、正しさが絶対な世界はとても窮屈だ。共通のものさしなんて一部の世界にしか通用しなくて、それで測れないものはいっぱいある。
無理に測ろうとすると、目盛りがいくら正しくても、測ろうとしているモノそれ自体が歪んでしまう。

病院の待ち時間。これまで3時間待ちだったのを1時間に短縮しました。すごい成果だけど、その裏でなにが犠牲になったのだろうか。

学力テストの平均が全国のそれよりも上回るようになりました。実は、テストの直前に他の科目を一切教えずに、集中的な対策をしていた。それは教育的な成果だろうか。

主婦の労働時間と効果から家事労働の賃金を算出しました。それに何の意味があるだろう。
主婦が家の中で忙しく働いてる家庭のほうが、温かくて居心地のいい家庭なんだろうか。主婦の仕事は、賃金労働と同列に測れるのだろうか?

測れないものを、測ることはできない。

同じものさしが使えないこともある。使っていけないことさえある。

なんでも計りたがる、計量的なものを信じすぎることは、少し怖い。それを公表していることが透明性だということも、本当に信じていいんだろうか。公表する数字を作るために、何かを隠していないだろうか。

正しそうに見える数字を疑ってみて、その裏にある複雑な測りきれない世界のことを想像する。じっくりと考えて、悩んで、向き合ってみる。

世界を疑わなければならないのは、つらい。けれど、そんな世界のままなのは、もっとつらいので、疑って変えていきたい。


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