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<TORIO展>・・・からの『二枚の絵』
<TORIO展>の会場。共通のテーマで描かれた三作品をセットで鑑賞しているとき、ふと思い出したのが、我が家の本棚に眠る本、『二枚の絵』。
各界の著名人が古今東西の名画の中から二枚の絵を選び、比較しながら絵に隠された物語を読み解いてゆく。見慣れた名画に新鮮な驚きを与える、知的な美術鑑賞法。『毎日新聞日曜版』連載(1995年4月〜1998年3月)を元に編集・再構成したもの。
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二枚の絵を紹介してくれる「各界の著名人」には、
建築家の安藤忠雄氏、哲学者の梅原猛氏、詩人の大岡信氏、作家の高樹のぶ子氏、詩人の俵万智氏、作家の陳舜臣氏、美術家の横尾忠則氏、などなど総勢50名。
4年ほど前、古本屋さんの隅っこで見つけた、ちょっと古めかしいこの本。発売当時の定価は2,800円とありますが、確か800円で売っていました。めっけもの!買うしかないでしょ!
しかし購入した当時の私は絵画鑑賞 初心者。知らない画家がほとんどで、見たことがある作品を数点見つけて喜んでいる程度。
「いつかゆっくり鑑賞しよう!」と本棚の奥に積み上げていました。
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久し振りに開いてみると、これが面白い!
前回も少しだけ触れましたが、もし私が “横たわる裸婦” というテーマで作品を選ぶとしたら候補はこちら。
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中)ティツィアーノ『ウルビーノのヴィーナス』
下)エドゥアール・マネ『オランピア』
美術史に残る傑作なので 並べてみるだけで惚れ惚れするのですが、教科書に載るような作品しか思い浮かばない自分に、ちょっと落ち込みます。
絵画鑑賞素人、発想力欠如、人間の深みが足りない!と痛感するのです。
一方で、本誌『二枚の絵』の中で、美術史家・勝國興(かつ・くにおき)氏(北方ルネサンス美術史専攻)が選んだ二枚がこちら。
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右)小出楢重『横たわる裸女』1928年
“横たわる裸婦” というモチーフからこの二枚を選ぶなんて、素敵です。
二人の女性はいずれもスーパーモデル体型ではなく、ポーズもどこかリラックスし過ぎのようです。
「ベッドに横になってテレビを見ていたら、なんだか眠たくなってきたわ」
という声が聞こえてきました。
選者の勝氏が注目したのは、“裸体美の変容”。
なるほど、描かれる対象となる“裸体美” という観点から来ましたか。面白い!
右)『横たわる裸女』を描いた小出楢重(1887-1931年)の随筆集『楢重雑筆』の冒頭にこんな文章があるそうです。
「日本の女はとても形が悪い、何といっても裸体は西洋人でないと駄目だとは一般の人のよく言う事だ、そして日本の油絵に現れた女の形を見て不体裁だといって笑いたがるのだ。それでは笑う本人は西洋人の女に恋をしたのかというとそうでもない、やはり顔の大きな日本夫人と共に散歩しているのである」
その上で勝氏は右)小出楢重の描いた作品についてこんな風に述べています。
美は、特定の歴史や社会の文化的な環境の中から生まれるのである。楢重の描く、胴長で脚の短い「不体裁」な裸婦像は、画家の優れた力量はもとより、日本近代洋画界が、自前の感覚で創出した借り物でない初めての日本の裸婦像であったと言えよう。
そして左)ルーカス・クラーナハ(1472-1553年)の描いた作品についてはこう語ります。
時代も場所もたいそう異なるが、ドイツ人ルーカス・クラナッハの描く裸女も、いわば自前の美女の絵である。(中略)
アルプスの北国には再興すべき古代の伝統はなかったから(中略)クラナッハの『横たわる泉のニンフ』(中略)(の)小さな胸やくびれたウエスト、軟体動物のような肢体にはイタリアのヴィーナスを組み立てていた解剖学的な構成美は微塵もない。代わってなまめかしいほどの卑近な官能性がある。
んーーーっ。借り物でない “裸体美” に注目するなんて味がありますね。
どちらの女性も、美しいのです。
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では、本書の中で気になった「二枚の絵」に注目してみます。
まずは、似ている二枚の絵から。
時刻は日没直後と日の出前でしょうか。川にかかる高い橋の上には人々の日常が行き交っています。橋脚近くには手漕ぎの船が見えます。
色合いは異なっていますが、構図も流れる空気感も似ていますね。
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右)小林清親『開化之東京両国橋之図』1800年代末頃
浮世絵研究科の永田生慈(ながた・せいじ)氏が選んだ二枚の絵です。
設定したテーマは “二つのノクターン”♫。
左)の作品を描いたホイッスラー(1834-1903年)は、浮世絵の色調や画面構成などを取り入れ、同時代の印象派とは一線を画したイギリスで活躍した画家。
芸術は、単純に美しい存在であるべきだとする【耽美主義】を代表するホイッスラーは、色彩と形態の組み合わせによって調和のとれた画面を構成することを重視していたのですね。
左)『青と金のノクターン』に描かれた、青色の階調の中に散りばめられた金色は花火。橋、橋の上の人々、橋脚、小舟、船頭、そして遠くの家並み・・・全てが花火の明かりにほのかに浮かび上がるシルエットのように描かれています。
ロンドンのテムズ川に架かる橋を下から見上げるような構図、橋の一部だけを切り取ったような縦長のカンヴァスは、右)明治時代の浮世絵師・小林清親(1847-1915年)の『開化之東京両国橋之図』と本当に似ていますね。
ショパン作曲の『ノクターン(第2番)』を聴きながら二枚の絵を見ていると本当にしっぽりと・・・朝靄が静かに落ちてくるように胸に染み入ります。
浮世絵にノクターンですか。。。いいですね。
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理学博士の中村桂子(なかむら・けいこ)氏が選んだテーマは “姉と妹”。
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右)上村松園『長夜』1907年
日常の中で最も多くの茶飯事と秘密、そして時間を共有する姉妹。
二人を取り巻く何気ない空気は、やはり特別なのかも知れません。
右)上村松園(1875-1949年)が描く『長夜』。
薄暗くなったことも気づかずに読書に夢中になっている妹を気遣って、そっと行灯に火を入れる姉。
顔立ち、髪型、着物、着こなし、物腰・・・うんうん、姉妹ですね。
そして背景に何もない構図(「静」)の中に、二人の身体が一つの曲線を描くような伸びやかなライン(「動」)で描かれているため、観る者が思わず息を呑んで引き込まれてしまうのです。
納得の上村松園!
一方、左)フランスの上級家庭の娘さん二人はピアノの前で、新しい楽曲に取り組んでいるのでしょうか、真剣です。触れそうでくっ付かない二人の距離感がいいですね。
カンヴァスの全てを暖色の「物」で埋め尽くしているのに、落ち着きと品があるところがあっぱれ!のルノワール(1841-1919年)なのです。
対象的な二枚のようで、流れる空気感に共通点があるのは、姉妹という特別な関係性に寄るところが大きいのかもしれません。
ちなみに、私も。。。
大学生になった姉が家をでるまでの15年間、プライベートの時間をほとんど一緒に過ごしていました。
ただ二人とも自分勝手で、お互いを尊重することなどなかったので、
「えーーっつ!そんなのずるい!」「私の方が少ないよぉ〜」「私が先にやる!」と自分が自分が!、と主張ばかりしていました。いつも喧嘩をしていたので、こんな優雅な時間を過ごしたことはなかったです。
わたし達を描いてもらうとしたら、そうですねぇ・・・バスキア氏にお願いしましょう。
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うわーっ、いいですねぇ。とてもハードでずっしり来る感じが好きです。
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右)高橋由一『山形市街図』1881-82年
美術史家の北澤憲昭(きたざわ・のりあき)氏は、“交差するまなざし” というテーマで、岸田劉生(1891-1929年)と高橋由一(1828-1894年)の作品を選びました。
右)高橋由一の描いた山形市街は、高い視点から見下ろすように描かれており、地面を踏み締めるような感覚があります。「ずっしり」。
一方、左)岸田劉生の描いた道路は、下から見上げるアングルで、足元が宙に浮き上がっていくような不安感を覚えます。「クラクラ」。
この絵と対面するといつも、京極夏彦氏の『姑獲鳥の夏』に出てくる坂を思い出します。平衡感覚を失って立っていられなくなり・・・汗が滲んでくるのです。
二枚を鑑賞するときの、そんな逆方向の視点が交わり合うような不思議な感覚をテーマにした“交差するまなざし”。北澤氏、さすがです。
高橋由一&岸田劉生の作品から、“重鎮”というテーマで勝手に選んでみました。
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右)高橋由一『花魁』1872年
いかがでしょうか。
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本当に楽しいですね。
本書にはまだ注目したい二枚の絵がたくさんあります。
次回、もう少しだけ紹介させてください。
<終わり>