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【自画像】〜顔は私の一部でありうるか?

以前 古本屋さんで見つけた本がこちら。

『500の自画像』(2004年)
発行:ファイドン株式会社
著者:ジュリアン・ベル(翻訳:渡辺玲子)

「本」と書きましたが、画家たちの描いた500枚の【自画像】が 解説なしに掲載されている画集です。B6サイズとやや小振りなのですが、1ページに一つの【自画像】が年代順に紹介されており、全548ページで厚さは4cmあります。

これは…。画家の “人となり” を想像し、作品鑑賞のイメージを広げるのに役に立ちそう!
定価は1,980円ですが、その3分の1ほどのお値段はお買い得!と購入しました。
(ネット上では定価を超える価格もありました)

帰宅して全ページをパラパラ眺めました。
うんうん。ラファエロ、デューラーにレンブラント、ヴィジェ=ル・ブラン…ゴッホ。知っている作品、知っている顔もチラホラ。横を向いたり視線を外している作品も少しありますが、多くはモデルが…画家自身がこちらを向いているようです。

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これだけの数の【自画像】を一気に見ることができるなんて…面白い!

いつか資料を読んで【自画像】というジャンルについて考察したいなぁ…と考えていました。

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先日 久しぶりにこの画集を開いたとき、ジュリアン・ベル氏の序文があることに気がつきました(気がつくのが遅いっ💦)。全ての自画像ページには何の解説もないため、この画集で唯一の文章がこの序文の6ページです。

① 私には顔があるが、顔は私そのものではない。 
② 顔の背後には心があり、それはあなたには見えないが、あなたのほうを向いている。③ 私の顔、あなたには見えるが私には見えないその顔は、自己の一部を表現するために私が有している手段である。④ 少なくとも、鏡を見るまではそう思われる。⑤ しかし、鏡を覗いた途端、顔が支配者であり、私を縛るものとして対峙しているかの如く感じられるかもしれない。
(訳:渡辺玲子氏)

最初の一段落を読み始めたところで、その哲学的で深い「思考の沼」に足を取られて動けなくなってしまいました!!
今回はこの部分だけについて触れたいと思います(①〜⑤の番号は私がつけました)。

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①「私には顔があるが、顔は私そのものではない」


思春期、私の顔は “私そのもの” に近い存在でした。自分の顔が他人からどんなふうに見られているのかが最大の関心事。鏡はもちろん、街角のショーウインドウに映る自分の顔を常にチェックして、その都度 自分史上一番の笑顔を作ってみせます。誰かと話をする時も、自分がどんな顔をしているのか、相手に私の顔がどう映っているのかに意識を集中させていました。
視線は相手にあっても、頭のどこかで自分の顔も客観的に見ていたような気がします。

しかし最近は、自分の顔に意識を向けるのは…外出前に化粧をするときくらいでしょうか。自分がどんな表情をしているのかあまり考えもしません。
そういえば、私ってどんな顔をしていたのかしら?
特にマスクをつけるようになってから、他人の視線に晒されているという意識がなくなりました。
誰かと話をしているとき、相手がじっと私のおでこを見ていたとしたら
「前髪が短くて子供っぽいと思われているかしら」…ではなく、
「あらっ?今朝できていた小さな吹き出物が、少し大きくなっているのね。後で薬を塗っておこう」といった具合。

私には顔があるが、顔は私そのものではない」という表現も今なら納得です。

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②「顔の背後には心があり、それはあなたには見えないが、あなたのほうを向いている」

そうなのです。おでこに少し大きくなった吹き出物を作って話している私は、私の心からできていて、あなたと向き合っているのは、視界に入っている私の顔ではなく私の心なのです。
人間は見てくれではなく、その背後にある “心” が大切なのです!
うんうん。納得です。

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③「私の顔、あなたには見えるが私には見えないその顔は、自己の一部を表現するために私が有している手段である」


私が日常生活でその存在すら忘れかけている私の顔は「自己の一部を表現するために私が有している手段」… 確かにそうですね。
楽しい、嬉しい、苦しい、好き、嫌い…そんな私の心の一部を表現する最大にして最適な手段…。それが私の顔なのですね。だって、あなたに見えているのは私の顔なんですから。
ハッ! と気付かされました。
そうだとしたら、自分には見えないのをいいことに、顔の存在を忘れてしまうなんて言語道断!。私の重要な表現手段であり 相手に見える直接的な表現方法なのですから、もっと意識を向けなければならないのですね。

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④「少なくとも、鏡を見るまではそう思われる」


でも、でも。
私の顔は私の心とつながっていて、顔の表情は私の気持ちや言葉の一部のような存在だから、私の顔は “きっと”、私自身を映し出している “はず”。
実際に自分がどんな表情をしているかなんて、鏡を見ないとわからないけれども、“きっと” 私自身をちゃんと表現できている “はず” です。

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⑤「しかし、鏡を覗いた途端、顔が支配者であり、私を縛るものとして対峙しているかの如く感じられるかもしれない」


朝、顔を洗って自分の顔を見たとき、日中マスクを外して鏡を覗いた途端、そこにいる人に驚くことがあります。あなたは誰?
自分の一部であるはずの私の顔。自分の心とつながっていて私自身を表す手段であるはずの顔。
それなのに私が知らない顔、全く予想もしなかった表情をした人が鏡の向こうから私を見ているのです。今朝は 体調も気分もいいはずなのに、なんでそんなに不機嫌そうな顔をしているの?これが私?
いつの間にか、私自身とは乖離した存在として一人歩きしていた私の顔。
いつの間にか…。

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①〜⑤、たった5つの文章に、3日間くらい引きずられていました。
序文は、次の段落からジュリアン・ベル氏が【自画像】について語っているのですが、私はそれ以前の段階で立ち止まっていました。

3日間いろいろ考えていたら、無性に【自画像】を描いてみたくなりました。中学校の授業以来、絵なんて描いたことないのに…不思議です。
たぶん、
自分自身の顔を、そして “私そのもの” を探求したい!
自分で自分の顔を描くことで、現在の自分が私をどう見ているのか、どんな私でありたいと思っているのかが見えてくるかもしれない。
そして “これが私なんだ” という顔を描いて自分を安心させたい!
そう思ったのでしょうか。
こんな衝動が【自画像】を描く動機の一つになっているのかもしれません。

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うわーっ!『500の自画像』序文の続きを読むのが楽しみになってきました。
もっともっと【自画像】というジャンルに近づけるのではないかとワクワクしています。
ただ、のんびりマイペースで進めていくので少々時間がかかりそうです。
またその時に。

<終わり>

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