ロメロと富野は似ているかもしれない。ーゾンビを見て考えたことー
明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。
皆さんは年末年始をいかがお過ごしだろうか。
帰省したり、ゆっくりお休みしていると思う。
私は映画のBDを買って鑑賞していた。
その映画のタイトルは「ゾンビ」である。
鑑賞した映画のレビューをこれから記したいと思う。
1.映画ゾンビについて
まず、この映画にはいくつものバージョンがあるのをご存じだろうか。
ソフト化しているものは、北米公開版・ダリオ・アルジェント版・ディレクターズカット版であろう。これらはソフト化しているため、amazonや中古のビデオショップへ行けば、買って見られる。
しかし、見られないものもある。それは日本劇場公開版やサスペリア版などだろう。
以上のようにこの映画にはいろいろなバージョンがあって、あるバージョンを見た人によっては、感想が異なってくるのだろう。
私自身は北米公開版とダリオ・アルジェント版を鑑賞したのだが、それらを鑑賞して総合的に感じたことを書いていきたい。
差異も気づいたことを書いていこうと思う。
2.ロメロゾンビの特徴
※まず、ゾンビの語源はアフリカはコンゴの神、ンザンビに由来するという。
それが奴隷制度によって、他部族やキリスト教と混合することによって、ハイチにブードゥー教が生まれた。
そのブードゥー教では罪人を操り使役する。操られているものをゾンビと呼ぶのだ。
※注1https://app.famitsu.com/20180531_1299407/ を参考にした。
ここまでのゾンビが辿った経歴を見てみると、人肉を食す・噛まれるとゾンビになるといった要素はない。
それではその要素はいつ生まれたのか。
それはナイト・オブ・ザ・リビングデッドが発表された年、そしてそれよりも前に発表されたアイ・アム・レジェンド(邦題は当初「地球最後の男」だった)が生まれたときである。
ロメロゾンビの特徴は
人肉を喰らう
噛まれた者は死亡してゾンビになる
以上のものが挙げられるが、これらは吸血鬼に類似しているだろう。
私自身マシスンの原作を読んでおらず人づてに聞いた話なのだが、原作は吸血鬼たちにも意識や知性があってそれを虐殺した主人公こそ伝説の怪物だという結末である。吸血鬼がウイルスによって生まれたという科学的な価値観による吸血鬼像の革新、善悪の逆転(まるで海のトリトンやザンボット3)などがあるため、いつか読んでみたい。
閑話休題。
アイ・アム・レジェンドの原作が発表されたのが1954年。ナイト・オブ・ザ・リビングデッドが公開されたのが1968年だからその間に今のゾンビ像が生まれたのだろう。
3.アルジェント版とロメロ版(北米公開)の差異
第一印象は音楽が異なる。
勿論、ロメロ版もアルジェント版もゴブリンというバンドの音楽を使っているが使っているシーンの長さや同じ場面でも使っていなかったりする。
アルジェント版はゾンビを撃ったり、暴走族との攻防戦で高揚感を煽るような曲が流れたため、サバイバルアクション要素が強い。
ロメロ版(北米公開)は自殺しようとした人間が生き延びようとするシーンにファンファーレを流したり、人間がいなくなった後のモールでゾンビたちが跋扈する様をモールの曲のようなものを流したりするので、風刺やドキュメンタリーを思わせる。
個人的にはロメロ版を先に見たのもあって、ロメロ版の方が好みである。
4.ゾンビとは何か
ゾンビとはショッピングモールに来る我々人間である、とは多くの批評で書かれていたし、生前の記憶を無意味に模倣するからモールに来ると作中でも見解がなされていた。
私はショッピングモールに意味もなく来る大衆のことだという言説を改正していきたい。
まず、ゾンビとは大衆のことだと思った。
そう考えた理由を述べていきたい。
単体では弱く、集団で脅威を発揮する
噛まれたものは全てゾンビとなる
モールなどの施設で己を支配する者、扇動するものに牙をむく
生前の行動を模倣する
1の理由を述べていく
ゾンビは単体では弱く動きも緩慢で知性もないため、訓練していない者であっても一体だけであれば撃退可能である。
だが、集団で襲い掛かれば相手の四肢を引きちぎり、腹を裂いて腸まで貪り尽くすのだ。
一体だけであれば撃退できるから油断が生まれて、集団に襲われるようになるまで脅威に気付かない。ロメロゾンビのホラーとは人間の慢心や油断から生まれるものである。
閑話休題。
一体だけでは弱いが集団になると脅威になるのは大衆も同じだろう。
人口の3.5パーセントが動けば非暴力的に社会は変わるというルールがある。
ゾンビでは生ける者が死亡すると全てゾンビになるのだから、死んだ者の全てがモールで贅沢を貪る者、自身を扇動する者に襲い掛かるのだ。
扇動者と富を独占するもの達を物量で押しつぶす。まさに大衆と言えるのではないか。
2の理由を述べる。
我々は普段生活する中で周囲の視線や雰囲気を気にして生きている。
同町圧力である。
ゾンビに噛まれたものがゾンビになる。
例えば、テレビで流行していた服が映ったら欲しくなってその服を買うことであったり、老いやニキビなどを悪しきものと喧伝することで美容品を買わせたりするなどである。
買う、消費する気などないのに流行や喧伝で危機感や恐怖感を煽ることで買うように仕向けられる。そして私たちは踊らされて買い、流行に乗り遅れた者を流行遅れと馬鹿にしたり消費するよう圧力をかける。
これも大衆的である。
3の理由を述べる。
ショッピングモールに留まる人間たちは要不要に関わらず、物資を独占する。その情報を嗅ぎつけた略奪者たちも独占するために襲撃する。
その攻防戦に利用されるのがゾンビだ。
ゾンビたちは略奪者・支配者への牽制のために解き放たれて、いずれにも牙をむく。
ゾンビは独占する者にも略奪する者にも操られやすく、どちらにも牙をむく。これは大衆が為政者や経済界などの権威に弱い一方で公共を破壊して私物化する民営化を支持するということではないだろうか。だが、大衆はどちらにもうま味が無いと知るとそれらに牙を向けるということではないだろうか。
4の理由を述べる。
人は成功体験ができるとバイアスに引っかかる。
次もこの行動で行けるはずといったり、自分がこれで出来たから上手くいかないのは努力不足だといった具合に先入観にとらわれる。
だが、事象は個々の事情によるし自分が上手く行ったからって他人が同じようにできるとは限らない。
これに権威に弱いことと同調圧力が加わるとする。
あの人が上手くできたから自分もそのようにすれば上手くできる。
あの服が流行っているから自分も買おう。
といったように大衆は流されるのだ。
ゾンビののろまさを笑えるのか。
5.新たなゾンビ
「死霊のえじき」や「ランド・オブ・ザ・デッド」では理性を持ったゾンビが現れる。
特に私は「ランド」のビッグダディをおすすめしたい。
彼は人間たちに無残に殺される仲間を見て憤り、実行者と指示をした者に復讐を計画するゾンビである。
実行者は貧しさ故に富を欲しがり、街の支配者(ゾンビ殺害を指示した)に謀反を起こす。その二人をどちらも殺すゾンビである。
しかし、このビッグダディは作中一度も人肉を食べていない。
このように大衆の中から現れた賢いものは、流行に踊らされず権威に立ち向かい富や物に溺れない者なのかもしれない。
6.まとめ
突然だがロメロと富野由悠季とは似ている作家だと思う。
二人とも大衆を愚かな者として見ている。
逆襲のシャアでアムロが世直しのことについて語っているが、どれだけ優れた理想であっても大衆と官僚主義によって世俗化されてしまい、それをインテリが嫌うということである。
だからこそ、ハサウェイを支持している庶民は目先のマンハンターへの不満を言うばかりで末代や自分の子供の世代のことは考えられないのだ。
例えば、ガンダム世界の地球は動物の死骸が分解しきらないといった問題があるのに自分たちの住む町で認識が止まっていることだ。
このように富野はとても大衆に厳しい。
ロメロの視線も冷ややかで風刺的なところがある。
悪意こそ持たないが生き残っている人間の住処に群がって、血肉を喰らう怪物として描いている。
悪意を持たずのろまであっても、覚醒した者が現れない限り凶暴で流されやすい、そんな大衆の怖さを描いているのが※ロメロと富野なのだ。
※富野は1941年、ロメロは1940年生まれである。二人の作風が大衆に対してシニカルで風刺的なのは偶然で片付けて良いのだろうか。