AIに仕事を奪われても失業はしない
ここ数年、AIという言葉が多く用いられるようになった。
AIに関連する仕事を複数経験した身からすると、AIじゃないこともAIと呼ばれていたり、何でもかんでもAIな風潮に違和感を覚えることもあるが、AIは流行語みたいなものと思うことにして、気にするのを止めた。
ただ、時折言及される「AIが人間の仕事を奪う」に対しては、その言葉だけだと誤解を生むと感じている。
AIと人間の脳
現在、AI(人口知能)と呼ばれているもののほとんどは機械学習である。ただ、AI=機械学習ではなく、AIを形作る技術の一つが機械学習という関係になる。
その機械学習とは何かというと、膨大なデータからデータの法則性を抽出するプログラムということになる。
例えば、知能指数テストとかで出てきそうな、以下のような問題があったとする。
この数列をみれば「前二つの数字を足した数が並んでいる」という法則性がわかるから、( )には13が入る。
このような短い数列であれば人間でもすぐに法則はわかるけれど、これが膨大な数列だとそうはいかない。そこで、機械学習の出番となる。
人間は、インプットされた情報に対して「経験」と「知識」をもとに、予測して判断する。機械学習は「データの法則性」をもとに、インプットされた情報に対して予測と判断を行うということになる。
例えば気象予報士の場合、天気図というインプットに対して、自らの知識と経験をもとに、明日の天気を予測する。機械学習は、過去の天気、気温、雲の動き等の膨大なデータをもとに、明日の天気を予測する。
これが、人間とAIもしくは機械学習の違いということになる。
チャップリンの『モダン・タイムス』
チャップリンの映画『モダン・タイムス』(1936年)は、工場内で機械の一部になって働く男が描かれ、ユーモアとともに当時の社会風刺を感じる作品である。
チャップリンが風刺した「機械化する人間」は、それまで人間が行ってきた「動力」を機械に置き換えることということができる。古代エジプトのピラミッドは、巨大な石を運ぶ動力は人間だったわけで、今ピラミッドを作ろうとすれば、人間ではなく当然ながら機械を動力にする。
AIというのは、これまで人間が行ってきた「知力」を機械に置き換えることということになる。
これまで機械には不可能とされてきた仕事は、人間の「知力」によって行われてきたといえる。その「知力」とは、人間が、知識と経験によって予測/判断することであり、すなわち、それらはAIによって代替可能になる。
ただし可能なだけで、すぐに実現できるかというと、そうはならない。
「AIが仕事を奪う」の誤解
誤解(1)AI化は時間がかかる
何かの仕事をAIで代替させようとした場合、データ化という障壁がある。
上述したように、AIもしくは機械学習において肝になるのは技術というよりデータである。どれだけ技術があっても、データがなければ予測も判断もできない。
現在、様々なことをデータ化することが進められており、大会社と呼ばれる企業は、データの収集やデータ化に莫大な投資を行っている。Google、Amazon、Microsoft、Meta、Twitterといった企業は、技術やサービスが優れているということも勿論あるが、彼らの強みは、膨大な価値あるデータを持っていることにある。
しかし、まだ多くのことはデータ化されておらず、そして、データ化しづらいことは多くある。だから現在は、AIに対して人間が勝っている分野は多くあり、そのため「AIが仕事を奪う」は、すぐに起こるような話ではなく、ゆっくりと徐々に進んでいく代物といえる。
誤解(2)高度な仕事こそAI化しやすい
ゆっくり進んでいくAI化であるが、AIによって代替しやすい仕事とそうでない仕事がある。
これについては、AI専門家のような人たちでも意見が分かれているが、個人的に思っているのは、高度な仕事ほどAIが代替しやすいということである。
高度というのは、人間の「知識」が重要視される仕事で、例えば難関試験を通った裁判官や弁護士、公認会計士などがある。
これらは、法律や判例、会計知識などのデータがすでにある。それらは人間だと覚えることが大変なデータ量であるが、機械学習からすると「たったこれだけ?」になりそうな微量なデータとなる。だから、AIで代替するのは難しいことではなく、またAIの方がより正確で客観的な予測/判断ができると考えられる。
逆に、知識より「経験」が重要な仕事は、AIで代替するのは難しい。例えば壺を作る職人とか、相手を心地よくさせる接客のプロのような人で、それら「職人の技」はデータ化されておらず、データ化しづらいからである。
誤解(3)AIに仕事を奪われても失業はしない
このようにAI化しづらい仕事というのはあるが、しかしそれらも、技術革新によってデータ化コストを飛躍的に下げることが可能になれば、AI化が一気に進む可能性はある。
そうなると、人間の労働のほとんどは、AIによって代替可能といってよい。
それにはどこかの天才が生み出してくれる技術革新が必要で、その技術革新が実現するのは100年後かもしれないし、10年後かもしれないし、もしかしたら一年後かもしれない。
例えば一年後に技術革新が起きて、AIが人間の仕事をほとんど奪ったら?と考えると「失業しちゃうじゃないか!」「食べていけないじゃないか!」と、恐怖になると思われる。
しかし、AI化が広く進んでいった場合、AIに仕事を奪われたとしても、失業ということにはならないと思っている。
それは、AIによって人間の労働がなくなっていけば、ルール変更が行われるだろうからで、何のルール変更かというと、労働に対するルール変更である。
労働のルール変更
20世紀以降、先進国においては、一般市民の暇な時間がどんどん増えていった。
そのため、暇じゃなければすることのないレジャー産業、エンタメ産業などが隆盛していった。これは、「動力」を機械に置き換えることで成し得たこととといえるが、今後「知力」がAIに置き換わることで、暇な時間はより一層増していくと考えられる。
そうなると、労働より暇な時間が勝るようになり、すると従来の仕事優先の資本主義のルールや価値観では対応できなくなる。そのため、ルール変更ということが考えられる。つまり、労働ということに対しての価値観が変わる。
そのため、AIに仕事を奪われても「失業した」とはならず、そもそも失業という概念自体がなくなっている可能性もある。
古代ギリシアにおいては、家庭内作業も含めて労働は全て奴隷が行い、市民は広場でおしゃべりする生活をしていた。そういうおしゃべりの中でソクラテスやプラトンのような哲学者が生まれた。
AIによって労働がなくなり、ほとんどの人間が暇になったら、広場や公園、もしくはSNSやメタバースでひたすらおしゃべりを楽しむ生活になるのかもしれない。
実際、そこまで極端なルール変更は考えづらいけれども、どのようなルール変更が訪れるのか、それはわからない。
しかし少なくとも、「AIが仕事を奪う」を字面のまま受け取って恐怖を抱くのは誤解であり、ただ同時に、変わりゆく過程の中にいることもまた事実である。
そういう変化に適応するために、技を磨くのか、経験を重ねるのか、それとも失業という概念がなくなるのをひたすら待つのか、それらを考えることがまずは、重要なことだろうと思っている。