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「21世紀文明と大乗仏教」に学ぶ(生も歓喜、死も歓喜)

池田大作氏は、1993年9月24日(現地時間)、ハーバード大学にて、「21世紀文明と大乗仏教」と題して講演をしています。

大乗仏典の精髄である法華経では、生死の流転しゆく人生の目的を「衆生所遊楽」とし、信仰の透徹したところ、生も喜びであり、死も喜び、生も遊楽であり、死も遊楽であると説き明かしております。

池田大作『21世紀文明と大乗仏教』レグルス文庫 16頁

この講演のキャッチフレーズは、「生も歓喜、死も歓喜」といえます。
 
生きている間に充実した日々を送るために信仰しているわけですが、生きている時だけでなく、死んだ後も充実すべきという点は、慧眼といえましょう。極めて宗教的な視点ですね。
 
ここで出てくる「衆生所遊楽」は、法華経の精髄である如来寿量品第十六にあり、また、如来寿量品第十六の精髄である自我偈の一節ですね。まさに、精髄中の精髄の経文を引用して、「生も歓喜、死も歓喜」を慫慂しています。
 
「生も歓喜、死も歓喜」となるためには、信仰が透徹していなければならず、中途半端な信仰では、話にならないわけです。やはり、ここは、法華経、御書を拝しながら自らの信仰心を研ぎ澄ます必要があります。
 
この点において、法華経、御書のエッセンスをふんだんに取り入れた「21世紀文明と大乗仏教」は、信仰する上で重要な講演といえるでしょう。
 
「生も歓喜」のところは、生きている時のことですから、実感できますが、「死も歓喜」のところは、まだ、死んでいないわけで実感できないのですね。「生も歓喜、死も歓喜」といっても、「死も歓喜」がポイントとなります。
 
生きている間に「死も歓喜」を感じることは困難であることから、「死者」の力を借りるのがよいのではと考えます。
 
つまり、「死者」に対する追善供養、回向を行うことにより、「死者」が歓喜の状態となり、その反作用により、我々に「死も歓喜」の感覚がほんの少しであっても得られるのではないかと思うのです。
 
池田大作氏は、「法華経 方便品・寿量品講義」において、

阪神・淡路大震災(一九九五年)から、一年を越えました。あまりにも多くの尊い命が失われました。あまりにも多くの方々が苦しまれた。二度と、こんなことがあってはならない。
被災されたすべての皆さまに、復興に向けて懸命に戦っておられる皆さまのご苦労に、胸奥より、深く深くお見舞い申し上げます。亡くなられた方々のことは毎日、真剣に追善させていただいております。これからも、回向してまいる決心です。"関西魂"は不滅です。兵庫、頑張れ!関西、頑張れ!
私は声を限りに叫びます。題目を送ります。送り続けます。

『池田大作全集』第35巻 聖教新聞社 345~346頁

と述べています。
 
このような「死者」に対する追善供養、回向をする心持ち、祈りが大切であり、「死者」と共にあるとの信仰が透徹したところに「死も歓喜」が生じると思えるのですね。
 
我々としては、特別なことをする必要はありません。ただただ、追善供養、回向を行えばよいのです。
 
まさに、信仰実践である勤行の際、「死者」に対し、追善供養、回向を行って、自分自身の「生も歓喜」を「死者」に送り、「死者」が「死も歓喜」となって、また、その「死も歓喜」が自分自身に戻ってくるという循環が生じるところ、「生も歓喜、死も歓喜」となります。
 
「生者」、「死者」ともに思い合わせて「歓喜」であるところ、「生も歓喜、死も歓喜」となるのですね。

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lawful
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