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相待妙、絶待妙(「如説修行抄」に学ぶ)

日蓮は、「如説修行抄」において、絶待妙の間違った解釈を以下の問答を通して示しています。

 問うて云わく、如説修行の行者と申さんは、いかように信ずるを申し候べきや。
 答えて云わく、当世日本国中の諸人一同に、「如説修行の人と申し候は、諸乗一仏乗と開会しぬればいずれの法も皆法華経にして勝劣・浅深あることなし。念仏を申すも、真言を持つも、禅を修行するも、総じて一切の諸経ならびに仏菩薩の御名を持って唱うるも皆法華経なりと信ずるが、如説修行の人とは云われ候なり」等云々。

『日蓮大聖人御書全集』新版 601頁 (如説修行抄)

絶待妙の観点から、諸乗一仏乗と開会したならば、爾前教も法華経と同じと考えてしまっています。

これでは、相待妙において、法華経を最高とし、爾前教との違いを明確にした意義が台無しです。

諸乗一仏乗と開会したとしても、それは、法華経を中心とした上で、爾前教を活かすということであり、爾前教が法華経と一体になるわけではありません。

あくまでも法華経を中心として、その周辺に爾前教が位置付けられ、法華経のために活かされるという構造なのですね。

法華経と爾前教とは一体化しないわけです。ここに相待妙が効いているのですね。

相待妙は、法華経を至高のものとして、その他の経典、爾前教を用いないということをあらわしていますが、一旦、捨てたはずの爾前教も絶待妙の観点から、再度、用いられます。

つまり、相待妙の時にも絶待妙が効いており、絶待妙の時にも相待妙が効いているという構造です。相待妙と絶待妙とが一体不二ということなのですね。
 
相待妙だけで事足れりとしてはいけないわけです。また、絶待妙だけで事足れりとするのも間違っているのですね。

よって、日蓮は、上記の御文にあるような状況に対し、以下のように答えます。

予が云わく、しからず。詮ずるところ、仏法を修行せんには人の言を用いるべからず。ただ仰いで仏の金言をまぼるべきなり。

『日蓮大聖人御書全集』新版 601頁 (如説修行抄)

諸乗一仏乗だから爾前教と法華経とは同じであり、よって、爾前教を修しても法華経を修したことになるという間違った考え方を糾しています。

仏法ですから、仏の金言を守るべきであり、理解力が不足している人間の言うことなど用いるなと言っているのですね。

絶待妙の考え方を間違って理解すると、根本的な間違いに至り、意味不明に陥ってしまいます。仏教の概念は正しく理解し、その上で修行に励むのがよいですね。御書、法華経を軸に信仰すべきでしょうね。

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lawful
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