見出し画像

「21世紀文明と大乗仏教」に学ぶ(覚者の広大な境涯)

なぜ、釈尊が対話にあって自在でありえたのか――それは、この覚者の広大な境涯が、あらゆるドグマや偏見、執着から自由であったからであります。釈尊の言葉に「私は人の心に見がたき一本の矢が刺さっているのを見た」とあります。「一本の矢」とは、一言にしていえば "差異へのこだわり"といってよいでしょう。

池田大作『21世紀文明と大乗仏教』レグルス文庫 18~19頁

十界論において、仏界の説明が困難ですが、上記の講演からヒントが得られるように思います。

悉達太子は人界より仏身を成ず。これらの現証をもってこれを信ずべきなり。

『日蓮大聖人御書全集』新版 129頁 (如来滅後五五百歳始観心本尊抄(観心本尊抄))

とあるように、釈尊は、仏界の境涯を得ています。その釈尊は、「あらゆるドグマや偏見、執着から自由であった」というのですから、これが仏界の特質のひとつといえます。
 
ドグマという独断や教条に陥ることなく、偏見もなく、執着からも離れている状態が仏界といえそうです。これであれば、信仰を深めることによって、どうにか達成できそうですね。
 
もちろん、人は、独断的に教条的になりやすく、偏見だらけであり、執着にまみれる傾向性があります。よって、仏界を得るのは簡単ではないのですが、ドグマ、偏見、執着という越えるべき課題が明確化したことは仏界への道が開けたといえるのではないでしょうか。
 
ただ、道が開けただけであり、後はその道を進まなくてはなりません。これが修行といわれるものですが、我々としては、進むしかないですね。地獄界、餓鬼界、畜生界などの三悪道のままでよいという人は、進む必要はないでしょうが、仏界を目指したいと思う人は、進まなくてはなりません。
 
ドグマや偏見については、知性の側面の事柄ですから、まずは、常に研鑚を続けることが重要でしょうね。あらゆる知識、智慧を学ぶ必要があります。そうすることによって、バランスの取れた知性が得られます。
 
信仰の面からいうと、御書、法華経を中心としながらも、他の宗教を排斥するのではなく、良きところは十二分に取り込み、ドグマや偏見に陥らないように注意することですね。
 
執着については、感情も絡んでくるため、そう簡単に克服することはできないですね。十界互具ですから、執着がなくなることはありません。執着のすべてを消し去るというのではなく、執着を飼い慣らすという方法が適切でしょう。
 
執着に囚われ、自由が効かない状態に陥るのではなく、執着を自由にコントロールする状態に至ることですね。執着が主体になるのではなく、我々が主体となって執着を管理するという境涯が求められます。
 
また、釈尊は、「差異へのこだわり」がなかったようであり、ここにも仏界に至るヒントがあります。
 
「差異へのこだわり」ですから、差別意識のことですね。人は何かにつけて比較したがります。ただ、それが行き過ぎると差別になってしまうのですね。比較は、比較で結構なのですが、差別に至らないよう注意しなければなりません。
 
何事においても、よくよく考えますと、差別する必要などないのですね。しかし、人は差別をしてしまう。ここに大きな闇があります。闇ですから、光を当てることによって、差別は間違っていますよと明らかにすることですね。
 
ある意味、この世の中は闇だらけですから、我々としては、知性の光、智慧の光をもって、あちこち照らしながら、地道に改善を図っていくほかないようです。
 
仏界への道は、地道な道ということなのでしょうね。

いいなと思ったら応援しよう!

lawful
最後までお読みいただき、ありがとうございます。