突破者の宮崎学さんとの思い出
突破者の宮崎学さんが亡くなられた。
二度だけ短い御縁があった。
一度目は1990年代なかごろ。私は、首相官邸のすぐそばにある法律事務所の若手弁護士だった。
日曜、二階の執務室で起案をしていたところ、来客があり、宮崎と申しますがと名乗った。
顔は週刊誌で知っていたから、突破者の宮崎さんとすぐにわかった。当時の事務所は老舗で土地柄もあり、著名人の依頼者は珍しくなく、「へえ」とは思ったが、格別、驚きもしなかった。
先輩のA弁護士と約束したというが、まだ先輩は来ていない。
九階の会議室に案内し、煎茶を出したら、ほどなくA弁護士は現れた。
それだけのことだった。
作られた「アウトロー」のイメージはまったくなく、口調も物腰も、ごく穏やかな常識人に見受けられ、意外だった。
二度目は2000年代はじめ。
当時は、独立して、生まれた地元に自分の法律事務所を開いていた。
これも休日、1人で執務していると、電話がなり、やはり「宮﨑学という者ですが」と名乗った。
おや、あの宮﨑さんかと、すぐわかった。
話は、西日本を舞台にした違法商法事件についてだった。私は経営者側の代理人として、被害者側に対応する窓口となっていた。
宮崎さんは、何故、このような連中の代理人となっているのだと、最初から詰問するきつい口ぶりで、取材というよりも、抗議、恫喝のようだった。先のソフトな氏とは全く違って、「アウトロー」の片鱗が見え隠れした。
ただ、この事件での私のスタンスは氏の認識と違っていた。私は経営者側の債務整理の代理人として依頼を引き受けており、違法団体であることを隠しもしなかったし、既に何度も自首することを勧め、被害者側にも、そのとおり説明していたからである。
興奮気味の宮﨑さんにも、その旨を説明し、だいぶトーンダウンしたものの、まだ疑わしい口ぶりだった。
私は話を変えた。
「失礼ですが、突破者の宮﨑学さんでしょう?私、お会いしたことありますよ。」
「え?」
そこで、自分はA弁護士の後輩であること、宮﨑さんを1度だけ接客させていただいたことを話した。
人間というのは不思議なもの。とたんに口調が和らいだ。「ああ、そうだったんですか」。宮﨑さんは、穏やかな常識人にもどった。
もちろん、私のことなど記憶されているはずはないが、A弁護士や当時の事務所のことは覚えておられたようだった。
この話をしただけで、うさんくさい弁護士という先入観が霧消したのであろう、最後は、互いにありがとうございました、で受話器を置くことができた。
たったこれだけ、ほんのすれ違い程度だが、御縁のあった方。合掌。
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