何故と問うこと~アウシュヴィッツの経験から~
暖かな家で
何ごともなく生きているきみたちよ
夕方、家に帰れば
熱い食事と友人の顔が見られるきみたちよ。
これが人間か、考えてほしい
泥にまみれて働き
平安を知らず
パンのかけらを争い
他人がうなずくだけで死に追いやられて るものが。
これが女か、考えてほしい
髪は刈られ、名はなく
思い出す力も失せ
目は虚ろ、体の芯は
冬の蛙のように冷えきっているものが。
考えてほしい、こうした事実があったことを。
これは命令だ。
心に刻んでいてほしい
家にいても、外に出ていても
目覚めていても、寝ていても。
そして子供たちに話してやってほしい。
さもなくば、家は壊れ
病が体を麻痺され
子供たちは顔をそむけるだろう。
突然で申し訳ない。もしかしたら狼狽させてしまったかもしれない。が、勘の良い読者ならサブタイトルを見て、薄々何について書かれているか気づいておられる方もいるだろう。そう、これはアウシュヴィッツについてである。アウシュヴィッツ強制収容所に抑留された経験があるプリーモ・レーヴィのナチスドイツの経験を知るということはどういうことか、の言及である。
そこでは何があったか皆さんも良くご存知であろうが、念のため少し…少しだけ綴ろう。詳しいことはプリーモ・レーヴィの本を読んで頂きたい。
アウシュヴィッツでは二年間くらいでユダヤを人六百万人を殺していた。ガス室へ連れられて殺されるのである。
簡単に計算すると一日一万人を殺すということになり、一万体の死体が生産されるということである。その死体の処理も全てユダヤ人が担い、こうして死の生産機械が機能していた。また、酷い人体実験も行われていたのだ。
ここでは「虐殺」は「最終的解決」、「流刑」は「移動」、「ガスによる殺戮」は「特殊処置」と言われる有り様であった。
そして、この悲劇の中で〈理性〉は無かった。ここで捕らわれた人が「何故?!何故私たちがこのような目に合うのか?」とアウシュヴィッツの看守に聞けば「ここには何故はない」と返される。
そうなのだ。何故がない。何故がないということは無秩序の空間が形成されるのであり、最終的にはアウシュヴィッツの残虐さが顔を表すことになる、ということが分かるだろう。
だからどうしても、何があっても「何故」と問い、根拠律を立て、そしてそれから生まれる理性を持たなければならないのである。そして始まる因果を迎えるのだ。
何故を絶やしてはならない。それを止めた瞬間から、なにかどこからか朽ち始める。ついには荒涼とした大地が広がるのである。
「何故なら」
この言葉を鬱陶しく感じ嫌う人も少なからずいるであろう。
しかしこの言説は、深淵に橋を渡したり網をかけたりして、足場のない場所を「住みうる」場所にしてくれるのである。
そうなのだ。君たちは何故と問うことで、安泰の地を、しかしそれは陽に照らさせる氷のようにいずれ溶けるが、形成するのである。そして、恐らく何故と問うことを毛嫌う人たちは次の理由である。何故は次々に何故と問うことを招き、車が渋滞するかのごとく鬱陶しく感じるからであろう。しかしそれが正に迎えるべき因果である。
問われることを忌避する者よ、共感ばかり求める者よ、君たちは大鎚を持たねばならない。砕くべき何かがそこにはある。そうだ、移り行く変化に身を投じるのだ。恐れるなかれ。強靭な意思を抱くことが可能なら、希望はある。
話を戻そう。迎えるべき因果の到来、そうすることで世界を「謎」という言葉で存在させることができる、そう把握した暁に人が「理性」を構築できるのだ。
どんな人間にも、現象、例えば暴力にも、生きるためには「理由」を必要とすることを認識しなければならない。換言するなら言葉を植えるのだ。そしてそれから生まれる何故に対する「答え」を作ることにより、本当の意味で世界は生きうるものになるのだ。
そこで想像してみるべきだ、理性を持たない人はどのような人間になるのかを。
何故を持たぬ者、それは言葉が通じぬ者である。なんと狂気であろうか…。
再び高らかに歌おう。
何故を絶やすなかれ!!
終わらせてはならぬ、というより終わりたくても終わらない問いかけを、苦患を抱かせる問いを、しかしそれは生そのものである、深遠なる暗い思惟へ導く問いを、しかしそれは生そのものである、発狂するほどの膨大な量の問いを創ろう、しかしそれは生そのものである、そんな問いを慈しもう。
目を背けることはない。大丈夫だ。言葉は、ある、その限り、まだあなたはある。
耳を傾けよう、さすれば訊こえるだろう、どんなに小さきものでも、可視できないものでも、そこには僅かであろうが、可愛らしい囁き声が!見えるだろう!その言葉が!あなたの暖かな優しい手で包むべき何かが、ある。
最後に、
ブレヒトは「この怪物を生み出した子宮はいまだ健在である」
またアラン・シュピオはナチスの思想は形を変えて存在している、のようなことも言っている。
さて、戦いの轟きに今まさに耳を傾けなければ。でないと、再びあの残虐な出来事が這い出てくるやもしれない。
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