ずっと何かを言葉にしていて煩い=思考
一人で例えば片づけをしていたり、歩いているとか、買い物など様々な場面で、ふと改めて自分の脳内に目を向けると、ずっとおしゃべりしていることに気付く。
頭の中は、もうほんとうにずっと何かを言葉にしていて煩い。
今日は、なんだったか忘れたけれど、何か黄色いものを手にとった時に
「黄色が特別好きってわけじゃないんだけどね」って頭の中で言葉にされていた。
それに気づいて思った、好きってわけじゃないって、誰に何に言い訳してるんだろうって。
どうもわたしは頭の中で誰に問われるわけでもないのに、言い訳のような言葉をちょいちょい並べている。
正当化したい願望が根付いている証拠。
誰も見てない、誰にも聞かれていない。なのに、そんなことが頭に言語としてあらわれる自分に呆れる。怒られまい、否定されまいと必死なのだとわかる。
見えない仲間意識、集団に存在するための協調性。
外れることが私にはとても恐ろしいと。この現代においてもまだその遺伝子を強く強く引き継いでしまっている。
個というものをそれぞれ互いに認めて、何もかも同じでないといけないなんて今は無い。
本来なら、あなたと私は違うのね、それを尊重して自分ができる相手が苦手なことを互いにフォローして人類としてここに存在していればいいのだろうな。
私が違いを認めないからこうなるのかと考えるけど、さほど違いを認められないわけじゃない。
たぶん、おそらく、自分は遺伝子を強く引き継いでいるだけなのじゃないかと思う。
この現代においても、私が生きているのは、村の外には猛獣が歩き回り、村の女は集まって子供や互いを守らなければならず、男が捕まえてくる肉を待っている...太古の世界なのかもしれない。
yuriyumiko