子どもに学ぶとは
「子どもに学ばされるなぁ〜。」
初任時代、そして今も私はこの言葉をふと一人で呟いてしまう。
感心させられるというか、唸ってしまうのだ。
しかし、「学ぶ」という一言をもう少し深く考えてみよう。
今日はこの「学ぶ」という語彙から私たち教師が子どもたちから何を学んでいるかを以下の3点から探っていく。
1.学ぶの意味
学ぶには3つの意味があるのはご存知だろうか。
1つは「まねぶ」。つまり、真似をするという意味だ。
もう1つは、教えを受ける。
子どもの立場を考えると理解しやすい。
そして最後は、究める。
研究という言葉が似合うだろう。
このように学ぶ1語をとっても様々な意味があるのだ。
2.教師が子どもから学を得る
上記の学ぶの意味から教師(大人と考えても良いだろう)が修するのはなんであろうか。
子どもの真似をする?→違う。
子どもから教えてもらう?→教師失格である。
空欄に言葉を入れてみてほしい。
「子どもに、〇〇を学ぶ。」
ここには何が入るだろう。
知識?心?
様々あるだろうが、教師であれば「授業」が入ると確信する。
つまり、究めるだ。
自己の授業を、である。
しかし、「色々と学ばされたなぁ。」
そう思ったり、声に出したりしても結局何を学んだかは自分でもよくわかっていない事実がある。
授業に置き換えてみるといい。
あそこであんな反応があったのは、発問がよくなかったからだ。
(自分の)あの対応は良くなかった。
より具体的に授業場面を思い起こすことで、自らの授業行為を客観視できる。
私は録音をして、それを文字起こししている。
文字に起こす。朱墨でいらない言葉を削り、代案を追記する。
すると、
子どもが全てを語ってくれるのだ。
「お前の授業は下手だ。価値がない。」と。
これは、かけがいのない貴重な学びである。
3.学びの継続
今はコロナの影響でできていないが、それまでは毎日ノートに授業を書き起こしていた。
初めは辛かった。
聞くに耐えない声だった。耳を塞ぎたくなる。
iphoneのスピーカーから教室が荒れているのが鮮明に思い出される。
イヤフォンをつける時は、毎度手が震えた。
そんな文字起こしも100回を超えた。
記録として残っている。
ノート7冊目を突破した。
私は努力しかできない教師だ。
センスはない。進達な行動のみである。
そんな私でも変化できた。
笑顔が増えた。声に張りが出てきた。
下手な授業が少しはマシな授業へと変わっていった。
それは2年前の音声と今の音声が物語ってくれている。
独創的な方法であるが、これが私の学び方である。
子どもからの学び。
教師にしか得られない修養。
更新させられるのは「教師としての生き方」だ。
授業、統率力、覚悟…。
子どもたちは人を教え育てる者とはなんたるかを教えてくれる。
人間対人間の格技から。
こんな風潮だからこそ、学びを止めてはいけない。
子どもがいなくとも、見えなくとも、今までの、そしてこれからの子どもの姿を想像し、学ぶ機会の選択はあらゆる場でできる。
選ぶか否かは自分次第。
コロナが明けた時、我々教師はどんな姿で子どもたちの前に立つか。
学び続けるか。そうしないか。
私はもちろん、前者を選ぶ。
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