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20年間生きてみました。

初めまして。
私ごとですが、本日2024年7月28日で二十歳になりました。
私を産んでくれたお母さん、そして育ててくれた家族に心から感謝したいと思います。今まで本当にありがとうございました。

二十歳になる今、自分の人生を振り返る機会を設けてみようと思い、今まであったことを書き出してみました。話したいことが溢れてきたので、少し長めの文章を書いてみようと思います。

ダラダラになりそうな予感しますが、お付き合いください。
読んで損はさせません。



1.誕生

 私は2004年7月28日に福島県福島市の山村家の長男として誕生しました。3900gくらいで頭がとにかく大きくて、難産だったらしいです。最後は吸引器で吸われて、頭がレモンみたいな形で生まれてきたそう。あまりにもデカすぎて、分娩の時に母親はどこかの骨を折ったらしい。それが原因で母親は失職することになりました。まぁ、とにかく大きい元気な子だったんですよ笑笑 私には一つ上の姉がいるのですが、山村家初の男の子で、おじいちゃんたちがお祭り騒ぎだったとか。

 ここにも秘話がありまして、生まれてくるまでは産婦人科の先生に、女の子ですよと言われてたらしく、私の名前の候補は「りんかちゃん」or「かりんちゃん」だったらしいです。ところが、生まれた直後、アレがついていて、お母さんは失神したようです笑
 嘘みたいで本当の話で、生まれた直後に名前を焦って決めたみたいです。届出を出したのが父親で、母親は、大杉漣の「漣」という名前で役所に出してきてと言ったが、父親が勘違いして?「蓮」になったんだとか。
 どこまで行ってもネタみたいな話しか出てこないですが、ハスの花のように泥の中でも美しく咲き続ける、世界で一番美しい花になれ。という願いが込められていたようです。自分の中では「蓮」結構気に入ってます。「蓮」は母数が多いから、イケメンの名前ランキングとかだいたい上位なのでwww

ハスの花

2.幼児期

 幼少期の自分を一言でまとめると泣き虫シスコンって感じでした。親がご飯を食べさせようとしても拒否して泣きわめいたみたい。そんな時に1つ上の姉が優しくご飯を食べさせてくれたみたいで、おねーちゃん大好き!みたいな感じの坊やでした。なので、未だに姉には、「あの時私が食べさせてあげたんだからね?そうじゃないとあんた死んでたんだからね?」と図々しいことをたまに言われます笑
 3、4歳になるとお姉ちゃんと喧嘩をするようになりました。とにかく頭が回る姉だったので口では勝てず、手を出しても、それでも負けるみたいな感じで、とても強い姉でした。なんか、以上に姉の手が大きくて、叩かれるとガチで痛いんですよ。正直大っ嫌いでした。クッソ野郎といつも憎んで泣いてました。
泣くしかできなかったのでwww
 姉はいつも私に強い姿を見せていました。しっかりしないといけない
と思ったんですかね、、、姉の泣く顔はほとんど見たことがなかった。まぁめちゃくちゃ強く当たってくるので、嫌いでした。弟なので立場が弱くてね、、「弟俺も欲しいなぁ〜」とずっと周りに言ってたらしいです。

姉にご飯をもらう俺
カメラ目線よりおねーちゃん

3.幼稚園

 幼稚園はキリスト教系の幼稚園でした。マリア様とイエス様っていうよくわからない存在に毎日何回もお祈りしてました。その頃から変わっていたようで、NHKのニュースを見るのが大好きでした。この頃に教育テレビを見た記憶はなく、朝のニュースを毎日見てた記憶しかありません。この当時から政治家になりたいという夢はあったようで、園長先生もびっくりしていたそうです。そんな私の幼稚園でのエピソードを4つほど。

①入園式での悪夢
 これは今でも思い出す出来事です。入園式の前日に、父親が何を思ったのか、私の頭を丸坊主にしたんですよね。バリカンだったのかな?ハサミでやったんかな?とりあえず痛すぎて、ずっと泣いてた記憶があります。みんな髪あるのに俺ない!!!という違和感は幼いながらに感じてたようで、父親を嫌いになったようです。まぁ、普通に考えて私の親ヤバいですよねw
 ちなみに髪が伸びた後にも父親は嫌がらせ(しつけ?)のようなものをしてきまして、、、、私寝相が悪かったので、幼稚園に行く前に寝癖直せって言われてたんですけど、治し方わかんなくて、そうしたら、タオルに熱湯を染み込ませて、冷まさないでそのまま私の髪に乗せてきたんですよwwwww当たり前だけど暑すぎて死にますよね。泣きわめいて毎朝幼稚園に行きたくなくなってました。父親は、母親が見てる前だと、熱湯に冷水も加えて冷ましてから頭に乗せてくれるんですけど、母親が見ていないとそのまま乗っけてきてwwwカオスでした。
 
②便器掃除事件
 幼稚園では、まぁ問題児でした。(デフォルト)これは記憶がないので母の証言から。幼稚園の帰りの時間でみんなが帰る準備をしている時に、友達とトイレで水遊びをしていました。これはあんまり記憶にないんだけれど、友達と便器を磨いてたらしい?それで、幼稚園の先生が人数二人いないことに気づいてトイレに探しにきたようです。幼稚園のトイレの個室は先生が上から見れるようになってたみたいで、上から、ゆき先生っていうめちゃくちゃ怖い先生が、「蓮くーん?」って声かけたみたいで、「きゃぁーーーー」と叫んで逃げたそう。結局母に先生が直接話す羽目になって、母に謝らせたみたいです。

卒園アルバムの#俺


③脱走事件
 キリスト教系の幼稚園だったので、お御堂と呼ばれる立派な礼拝堂?教会?みたいな施設があったり、修道院が繋がってたりしました。そこには入っちゃダメだよ?と言われてましたが、ダメと言われたらやりたくなるのが人間の性。(特に俺はそう)誕生日や七五三の時にはそこでお祈りすることがあり、建物の構造がわかっていたので、友達と潜入することにしました。シスターと呼ばれる修道女のおばあちゃんたちがたくさんいて、普段はそこに幼稚園生がいないので、すぐにシスターに見つかり、修道院の院長先生の部屋に連れてかれました。そこでは、オレンジジュースとチョコを出してもらって、優雅な時間を過ごしていました。そしたら、殺気だったゆき先生が急に入ってきてしっかり怒られました。母親呼び出しで怒られたんかな?その時も母親は謝ってました。
 まぁ、それで懲りたら山村蓮じゃないんですよ。とりあえず修道院に潜入できたので、次は幼稚園を抜け出そうという計画を立てました。目指すは友達の家。幼稚園から300mないくらいのところに彼の家があったので、そこに向けて脱走しようということになり、修道院の中を通って幼稚園から抜け出すという計画を立てました。そして決行当日、誰にもみられないように修道院を通って脱走する予定だったのですが、ヒソヒソ話?こしょこしょ話?小さい声で話すことができなくて、シスターに見つかってしまいました。わぁぁぁ!!!!!って叫んで逃げたけど、おばあちゃんシスターのキレる声って、やっぱり響くものがあったようです。院長先生の部屋にまた連れてかれ、お菓子ジュース付きで、また色々諭されました。その後は前の時と同じで、母親が呼び出されて、先生に謝ってました。その時、母親が泣いていて、「俺っていつからお母さんのことを泣かせるようになったんだろう?」と思い、反省をしてもう繰り返すことはありませんでした。

#姉と俺

④母親退職事件
 私の母親は出産を機に失職したのですが、年中組の時に、福島県の高校の家庭科の教員が足りなくなって、臨時の採用試験でとある県立高校の家庭科の教師として働き始めました。それまではずっとつきっきりで面倒を見てくれていたので、寂しく寂しくて毎日泣いていました。父親もその当時は忙しく働いていたので、「お預かりさん」と呼ばれる幼稚園の学童保育みたいなところに入れられて、暗くなるまで母親と会えない状況があまりにも耐えられなくて精神的におかしくなってしまいました。幼稚園が休みで母親が仕事の日は「俺も学校行く!」と言って、裸足で母親が乗る車を追いかけて行ったそう。(追いつけないのにね。)そんなこんなで私の精神はやられていって、次第に体調を崩して幼稚園を休むように…..。母親が務める県立高校の教頭先生は、母親がそのことを相談したら、「我が子を満足に育てられないのに、他人の子供育てられないよ。人員が足りない状況はなんとかするから、息子さんたちの頼れるお母さんで居てください。」と言ってくれたみたいで、母親は1ヶ月くらいで家庭科の教師を辞めることになりました。はっきり言って私のせいです。悪かったね本当に……..

4.小学校

 私はそのままエスカレーターでキリスト教系の小学校に進学しました。
 小学校に入学する直前の3月11日、東日本大震災が起きました。幼稚園の卒園式がなくなり、仲の良かった幼稚園の友達とも3月11日でいきなりお別れ。それ以外にもたくさん悲しいことが起きました。そのようなこともあり、小学校1年生の時は精神が不安定でした。当時は、原発事故の放射線の影響でマスク生活。グラウンドに出て遊ぶことも許されなかった。外で遊ぶとなったら、山形か、関東の方まで出ないと外で遊べませんでした。そんな中で、福島ナンバーの車が東京に行くと差別されるという話は理解しており、ものすごい違和感と東京の人に対して敵意を持ってました。なんで関東の人、東京の人のために、福島の人がで電気を作っていたのに、そこが爆発したら、今度は毛嫌うのかよ。お前らのために福島の人が電気を作ってあげてたのに、、、クソ野郎。小学生ながらめちゃくちゃ怒りを感じていました。異常なほどに福島が好きな理由はここにあったのかもしれませんね。
 小学校でのエピソードは主に次の二つでしょうか。

①弟の誕生
 私が小学1年生の時私の弟が生まれました。私は弟がずっと欲しかったので死ぬほど嬉しかったです。小学校の校長先生がずっと母親の体調を心配してくれていました。そして弟が生まれた朝の放送朝礼で、校長先生が弟の誕生を祝福してくれて、「彼の成長を祈って朝のお祈りをしましょう」と言ってくれて、全校生でお祈りしました。あの朝は間違いなく過去一番嬉しかった朝です。今でも鮮明に覚えています。嬉しすぎて生まれた次の夜眠れなかった。寝ようとしても脳がそれを聞き入れなかった。初めてみる赤ちゃんでびっくりすることいっぱいあったけど、弟が生まれたのだから、母親から自立して、ちゃんとしないといけないんだ!もう末っ子じゃないんだ。と言う意識が出てきて、習い事とかに真面目に取り組むようになりました(それでも続かなかった….w)

#弟を可愛がる俺
餅つきも一緒にした


②東北六魂祭
 私が小学3年生の時に福島で東北六魂祭がありました。東北六魂祭知らない人向けに話すと、六魂祭は、亡くなったすべての犠牲者の魂を沈め、震災からの復興を願うお祭りで、毎年東北6県のどこかで開催されているお祭りです。(現在でも東北絆祭りとして開催されている。)2013年の福島での開催の時には、航空自衛隊のブルーインパルスが展示飛行を行いました。
 私の小学校は六魂祭のメイン会場の隣にあったため、平日の昼過ぎにブルーインパルスがリハーサルをしていると、先生が授業を中断して、みんなでグラウンドに出て空を見上げました。青い空に青い機体がスモークを出しながら形を描く光景にすごく心を打たれました。当時の記憶はあまりないからよくわからないけど、ブルーインパルスが飛ぶ姿を見て、「俺ならなんでもできるかも!」って思えたんです。ブルーインパルスはそんな勇気と感動を私に与えてくれました。みんな立ち止まって空を見上げる中、私は複数の友達と両手を大きく広げて羽を作りグラウンドを走り回って見ていた。その時の自分は確かにブルーインパルスになっていました。
 それから努力というのをするようになりました。「俺ならなんでもできるんじゃね?」という自信が私を突き動かしてくれました。私のコンプレックスはとにかく足が遅いことでした。姉は運動万能だったので、よく比べられて出来が悪いというレッテルを周りから貼られていました。姉も体育の先生に「お前の弟出来が悪いんだから、(運動できる)お前がなんとかして教えてやれ」とずっと言われ続けたようで、今考えたら姉に対しても申し訳ないなと思うのですが、その当時の私は、運動できる立場から色々言ってくる姉も大嫌いでした。しかし、プルーインパルスが与えてくれた自信を元に、姉の言うことを聞いて、早く走れるように練習をしました。階段は基本1段飛ばしで全力ダッシュ。そんなことをずっと続けていたら、小学5年生か6年生の運動会。徒競争はビリにしかなかったことのなかった私が1着でゴールすることができました。
 この体験を通して、異常な自信が生まれたんでしょうね笑笑
でも、自分の人生を変えてくれたのは、確かに東北六魂祭でのブルーインパルスでした。あの出来事がなかったら自分はどうなっていたんでしょうねと思うほどです。

タイミング的に3D写真

5.中学校

 私の小学校は、中学校高校までエスカレーターで進学が可能だったのですが、中高は女子校だったので、別の中学校に行くことになりました。なんか、自分の学区の中学校が荒れていると言う話があったので、行きたくないなって感じで、私立の中学校を受験しました。行きたかった中学校の受験は落ちて結局、地元の中高一貫校に行くことになりました。厳しいとは聞いていたものの、生半可な気持ちで中学校生活をスタート。入学式の次の日からオリエンテーション合宿というものがあり、洗礼を受けることになりました。そんな中学校でのエピソードは2つ。

①泣きながら勉強した日々。
 入学した直後から1年生の秋頃までに、勉強する習慣を身につけるということが徹底して行われました。毎日何をどのくらい勉強したのかを記録してコメントを書いて先生に提出。それが私の学校でのルールでした。みんな楽しみな夏休み。私も楽しみにしていたのですが、私の学校に夏休みは1週間しか存在しませんでした。夏休み期間というものはあったのですが、普通に全員登校して、夏季課外という名目で授業が進むという感じで、本当の夏休みはお盆だけでしたね。その頃は数学と英語を全力で取り組んでいました。
 O先生という、数学の天才が私たちのクラスの数学を担当してくださり、中1の時から大学入学入試問題での実践演習をたくさんやらせてくれました。もともと計算は得意だったので、私の学力をめいいっぱい伸ばしてくれました。それでも課題の量は半端じゃない量が毎週末に出されて泣きながら取り組んでいました。結果それが数学の基礎力につながったことは言うまでもないので、めちゃくちゃO先生には感謝しています。
 英語はA先生という先生が6年間担当してくれました。私の小学校では英語教育が行われていたものの、書ける単語はHappyとAppleしかなかった。そこから英語力を上げないといけない。私は毎日英語で日記を書いていました。もちろん知らない単語がいっぱいあるので、その都度調べて、それを身につけていく。この作業を繰り返していたら、いつの間にか英語が得意になっていました。それでもわからない問題があるときは悔しくて朝6時40分に学校に行って先生に質問していました。なんとなく自分の中で軌道に乗ってきたなと思っても、週末に出される課題はたくさんあり、日曜日にも中学校に行って泣きながら自習していたこともたくさんありました。そんな時でも、A先生は自分を信じて頑張れ。と全力で応援してくれました。A先生の指導のおかげで今の英語力があると思っています。感謝しかないですね。

②鬼畜な学習合宿(学びはめちゃくちゃ多い)
 私の中学校にはたくさんの行事がありました。3年間で50泊くらいの宿泊行事がある中で、一番印象に残っているのは学習合宿です。中高一貫コースの生徒100人くらいで、岩手県の少年自然の家で1週間勉強だけをする合宿。朝は毎日6時半からテスト。夜は11時過ぎ?まで自習。それが1週間続きます。睡眠時間はちゃんとあるけど、テストでいい点数取らないと叱られるから、睡眠時間を削って次の日のテスト勉強をしている感じでした。少年自然の家なのでご飯があんまり美味しくなくて個人的にはそこが一番地獄でした。
 毎日のテストで最高点or満点を取った生徒は夜の集会で全校生の前で呼名されてみんなに祝福されるというのが私の母校の文化でした。名前を呼ばれることが栄誉なことというのは理解していたのですが、いい点数を取れないことが多く、先生に
深夜に呼び出されたこともありました。そこで言われたのは、「合宿に臨むにあたってしっかり準備をしたのか?自信を持ってYESと言えないなら帰ってもいいぞ。」私は怖くて震えました。でも実際、点数が取れなかったテストは、そこまで準備していないものばかりでした。当たり前のことではありますが、物事に取り組む前には覚悟を持ってきっちり準備しなければならない。これが私が得た学びでした。
 この軍隊みたいな中学校生活を通して得た精神力は今の生活に大いに役立っていると思います。ありがたいですね。

中3?の頃。たまにやるレゴが癒やしだった

6.高校

 私は中高一貫校だったので、高校はそのままエスカレーターで高校の中高一貫コースに進学しました。(中学校から高校に進学するにあたり多少のテストはあったものの、無事クリアしました。頭よかったんでwwww)高校生活の始まりはコロナウイルスとの戦いの始まりでした。
 コロナウイルスが日本で急激に広まり始めた頃、私はカナダのブリティッシュコロンビア州・ビクトリアでホームステイをしていました。日々刻々と状況が変化する中で、ダイヤモンドプリンセス号のニュースや安倍元首相が休校要請を全国の学校にしたことがカナダでもニュースとなっていました。今考えると、ホームステイをしていた時期は本当にギリギリでした。
 そんなこんなで始まった高校生活。とにかく偏差値を少しでも上げろ!という圧力に押しつぶされそうになりながらの3年間でした。正直苦い思い出しかありません。特段エピソード的なのはないんだけれども、得意だった数学がそうではなくなった話でもします。
 順調だった高校生活が崩壊したのは高校2年生の時でした。新しい数学の先生が入ってきて、数Ⅲの学習が始まったのですが、概念があまりにも理解できなくて、授業についていけなくなりました。参考書を読んでも何書いてあるのかわからなくて、次第に勉強から足が遠のきました。その新しい先生の実力は本物で素晴らしい先生だったのですが、すぐキレる怖い先生で、毎日罵詈雑言を浴びせられて(自分が悪かったです、はい。)精神が疲弊してしまいました。その頃から有給休暇とか言って、平気で学校をズル休みするようになって、授業がわからなくなって、またキレられるという悪循環が始まりました。忘れもしない、高校2年生の1学期期末考査の数学の点数は11点。全部数Ⅲの内容だったとはいえ、俺もう終わったと思いました。中間テストでも40点くらいしか取れていなくて、どう考えても評定2にならない,,,,,,,,そんな時、めちゃくちゃ怯えていた数学の先生に呼び出されました。恐る恐るその先生の元に行くと、「評定は俺がどうにかお前の評定を2にするから、お前は、まずお前のペースで勉強してみろ」と言われました。彼は意外に情に熱い人だったのです。本当にありがたかった。結果評定2で進級することができました。あれで評定が1で単位取れていなかったら多分高校辞めていたと思います。
 その後は、授業には参加するけど、授業中に一人参考書で学習をしていました。わからなかったら全部聞け。俺が教えてやる。って言ってくれて、わからないままにしていたところをしらみ潰しに潰していきました。その成果もあったのか、高2の最後の模試(数Ⅲは入らない)では、福島県で5教科総合8位の成績を取ることができました。しかし、その後は紆余曲折があり、(この言葉で誤魔化させてください笑)勉強しなくなりました。結局、高校3年生になっても数Ⅲはよくわからないままでした。

 まぁ、そんなこんなで、志望校は下がり続け、第一志望にも落ちてフラっと受けた秋田県立大学に来たのでした。本当に上がったり下がったりの人生ですよね。
親には本当に迷惑をかけました。高校時代も何回も謝らせました。生徒指導もされましたもんね、、、父親がPTA会長していたのに、最悪な息子でした。ほんと、ごめんなさいって感じです。

7.20年間生きてみて感じたこと


 20年間を生きてみて感じるのは主に二つです。
一つは、自分がどれほど家族に愛されているか、ということです。
正直、親の期待を何回裏切ったら気が済むんだ?というくらい親の期待は裏切っています。ここに書けないくらいの悪いこともたくさんしてきました。その度に父親にも母親にも頭を下げてもらった。普通だったら見捨てられてもいいくらいのことを私はやってきました。それでも、そんなことはしないし、実家に帰ったらいつも暖かく迎え入れてくれる。色々親に対して抱くマイナスな感情は今でもたまにあるけれども、この親の元に生まれてよかったって心から思えます。この人たちじゃなかったら、虐待されて殺されてもいいレベルの悪い子でしたので、、、、。
 母親に対しては、もう頭が上がらないです。私が生まれたことで失職したり、その後も私のせいで母親は専業主婦を余儀なくされました。そんな中でも、ずっと家で課題を教えてくれたり、テスト勉強を手伝ってくれたり、私の勉強に対していつも真摯に向き合ってくれました。また、私は、給食とやらを食べたことがありません。幼稚園から高校卒業までの15年間、毎日母親がお弁当を作り続けてくれました。全部手作りでです。できてるものとか、冷凍食品とかそういうお弁当があった記憶はありません。
 加えて私は自転車や歩いて学校に行ったことがありません。幼稚園〜高校まで毎日行きも帰りも送り迎え。父と母のどちらかが必ず車で送迎してくれて、勉強に専念できる環境を整えてくれました。過保護とも言われるかもしれませんが、ここまで子どものために動いてくれる親がどこにいるでしょうか?本当に愛されてるんだろうなと今でも実感しています。

 もう一つは、20年という時間はとても短いということです。時間にすると6億3000万秒とちょっと。この文章を書いていて、この出来事は、こないだだったのに…..と感じることが多くありました。20年間色々あったけど今振り返ってみるととても短く、もう一度やり直せないと考えると寂しささえ覚えます。だからこそ、次の10年、20年は、もっと時間を意識した生活をしていかなければならないと感じました。特に20代。2004年生まれの男の中でいちばんの幸せ掴んでやる!という決意です。

家族写真(車の納車の日?)


8.私の思い描く夢


 ご存知の方も多いと思いますが、私には夢がたくさんあります。夢がたくさんあった方が叶う夢も増えます。夢を叶えるための1つ目のプロセスは自分の夢を人に語ることということをいろいろな方がおっしゃっているので、ここで夢を語りたいと思います。

 まず、NEXT  REVOLUTIONを東証プライムに上場させます。そして時価総額
4,000億円の会社にします
。そして、その本社を福島県福島市におきたいと思っています。たくさんの税金を福島市に納めて、地元に恩返ししたい!という強い思いがあります。
 皆さんは企業城下町という言葉をご存知でしょうか?愛知県豊田市や千葉県浦安市には、トヨタ自動車やオリエンタルランドの本社があり、自治体はとてつもない税収があります。そのお金を使って子育て支援の政策が取れたり、福祉を充実させれたりすることができ、子供が増えたり、幸福度が上がったりと幸せのムーブメントを広めることができる自治体のことを企業城下町と言います。もちろんデメリットもありますが圧倒的にメリットの方が大きい。私は、自分の会社の本社を福島市に置くことによって、福島市を企業城下町にしたいと考えています。福島市から人口が流出していくのには、面白い会社がないからだと思うことが少なくありません。雇用を作り、売上を作り、社員の幸せを作り、ゆくゆくは市民の幸せを作れるような会社にしていけたらと思っております。
 また、私は政治家の道もあきらめていません。40代までに、東証プライムで時価総額4,000億円を成し遂げて、首長選挙に出ようと思っています。ビジネスの力ではどうにもならないことを、政治・行政の力を使って変えていく。その2方向から社会課題に対してアプローチができれば、社会は少しいい方向に変わるのではないか?と考えています。ゆくゆくは国会議員にもなりたい。なんなら総理大臣になりたいと考えています。今の日本に対する私が持っている危機感に共感してくれる人が少しでもいれば連絡ください笑

また、20代のうちやりたいことは以下の通りです。
・東京証券取引所に上場させる!
・素敵な方と結婚する!
・フェラーリを買う!
・日本全国のハンバーガー店を1万店舗巡る!

20代は3億秒とちょっとしかありません。
今日から動かないと間に合わない。1分1秒を無駄にする余裕は私にはありません。だからこそ、しっかりマネジメントを行い、目標を叶えられるようにして行きたいと思います。皆さんには応援していただけると幸いです。

9.最後に

 10,000字を超える稚拙な文章を最後まで読んでいただきありがとうございました。二十歳になったこの日にに自分の人生を振り返る機会を持てたことはとてもいいことだったと思います、今現在周りにいる人や環境に感謝の気持ちを持ち、自分の夢を追いかけて行きたいと思っています。
 今後とも山村蓮をよろしくお願いいたします。ありがとうございました!

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