闖入者

のどの弱い人はよく知っていると思うが、咳は夜中によく出てわれわれを苦しませる。友人にもらったはちみつをスプーン一杯なめたら少しおさまったので、このままわたし、眠くなれと思って羊文学をスリープタイマーでかけ、布団に丸まって目をつぶっていると、部屋の外でなにやら男女の会話が聞こえる。娘はよくスピーカーでLINE通話をしているのでそれかと思って放っておいたのだが、そういえば息子があたたかい布団がほしいと言っていたことを急に思い出し、億劫だがさすがにこんな肌寒い夜にタオルケットでは気の毒なので起き上がって収納してあった布団を引っ張りだしはじめた。するとLINE通話していたはずの娘がおかあさん、おかあさんとわたしを呼ぶ。なに、と返事をしたが声がかすれて出ない。声が出なくて返事が届かないことをめんどうに思いながらそのまま布団を持って部屋を出たら、実は娘が会話をしていたのは息子であることが判明した。めずらしく階下の廊下でなにやら会話を交わしており、それをねこが階段を数段上がった先で箱座りして眺めている。

またおかあさん、おかあさんと呼ばれたので「どうしたの」とかすれて消えかかった点線レベルの声で訊くと、なんかでかい虫がいてどうしよう、と言う。ええーもう、そういうの超めんどくさい。自分たちでどうにかしてほしい。寝たい。そういう気持ちを「えええ…」と曖昧な反応にこめていたら娘はねこに向かって「もう!おまえが食べてよ!」と無体なことを言い、ねこは「なーーーおう…」とすんごい気弱な声で応えたのでみんなで笑った。

でかい虫とはなんだ、とさらに訊くとたぶん蛾だというので、だったらほとんど動かないしハエ叩きで殴打すればよい、洗面所にハエ叩きあるよ、など、超めんどうなので階上からおりずにあれこれ助言をするが、子どもたちは叩いたらどうなるだろう、潰れるだろうか、潰れるのいやだ、いや飛んできたらもっといやだ、殺虫剤をかけたら確実にやれるだろうか、いや飛んできたらほんとうにいやだ、ちょっとねこに見せてみようか、とか言ってねこを抱き上げて近づけてやっぱりやめよう、と延々やっている。超めんどくさいがちょっとおもしろくなってきて階下に降りていくと、娘は室内なのにキャップを目深にかぶって冬のコートを着込み、ふだんはかけないメガネをかけて完全防備していた。わたしが風邪をひいて寝込んでいる中、子どもたちがじぶんたちでなんとかしようと悪戦苦闘していてそれをねこが眺めているわが家が愛おしくて、声も出ないのに腹が痛くなるほど笑った。

裸眼ではあまりよく見えないのだがよく見えると気持ち悪いのでメガネなしで虫を見にいく。止まっている虫はサイドから見るとわけのわからない黒い物体で、なんだこいつキモ、とわたしも思った。子どもたちが、正面から見ると蛾だよというので、じゃあもうやっちゃおうとハエ叩きを振り上げて叩きにいったら子どもたちは、いきなりいくんだおかあさん、とおののいている。しかしよく見えてないのもあって見事に外して蛾は飛び立ち、うわわわわわわと人間たちは逃げ惑った。振り返ると子ども2人は廊下からリビングに逃げ込みまさにドアを閉めようとしており、わたしは宇宙船の事故やエイリアンの来襲などでコックピットから閉めだされる乗組員の気持ちを味わった。しかし蛾はしばらく飛び回ったあと、またぴたりとマグネットのように壁に張りついたのでわたしはすかさず2発目を繰り出し、こんどは見事ヒットして蛾はぽとりと落ちた。落ちた先を慎重に検分すると蛾は紙袋の中に落ちていて、こときれたかと思いきやちょっと動いたのでまたうわわわわわ、となって急いで紙袋ごとごみ袋で包んで硬く口を縛って玄関に放った。

子どもたちは、いきなりやるんだ、おかあさんつよいね、と口々に言ってて、なんなの君たちじぶんたちでやんなよ、と子どもらに文句をつけたら、息子は、しかたない現代っ子だから、と開き直り、娘は来春から一人暮らしを控え、どうしよう、ぜったいに虫が出ないところに住む!と力強く言っていて、わたしは内心そんなところねえよと思ったが黙っていた。闖入者の始末はついたがまた眠れるまでに時間がかかりそうだ。

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