失われてしまったものを抱えて。
※以前書いた文章の再録です
※2019年12月のもぐら会の課題「文字のデッサン」で書いた文章です
水色の小鳥が何羽もやってきて、小さな足あとをいくつもいくつもつけていく。その柔らかい乾いた土の下に埋もれているのはわたしの悲しみだ。喜怒哀楽?さびしさ?恋しさ?さまざまに名づけられた感情の中でも、悲しみだけは誰とも分かち合うことができない。誰からも隠しておきたいと思う。だから地べたにそっと置いて素手で周りの土をかき集めて覆い隠しておく。その上にさらに背中を丸めてうずくまってじっとしている。
何年前だったかもう忘れてしまったけど、わたしのからだに新たな生命が宿り、そして5ヶ月おなかの中で過ごしたのちにひっそりとどこかへ行ってしまった。小さな豆つぶのような心臓が動きを止めたのは、そのことをわたしが知る一か月も前のことだったのだという。わたしは一か月ものあいだ、その子がもういないんだってことも知らずに吐き気と眠気に耐えながら、わが子がすくすく育っている夢を見ていたのだ。
感情も思いも生まれない。ただ、大切なものはもう失われてしまって二度と戻ってこないってことを知ったことによって、涙が止まらなくなった。三週間にわたって毎晩二時間ずつ泣き続けた。泣くのは誰にも見られないようにひとりで泣いた。とくに夫には泣いてるところを見られたくなかった。なぜだかわからないけれど、わたしの悲しみはわたしだけのもので、ぜったいに夫にはやるもんかと思っていたのだ。夫との関係が破綻したのは夫の悪行に因るものと表向きにはなっているけれど、ほんとうはあの時にいっしょに悲しみを分けあえなかったわたしに原因があるのではないかと思う。
やがてわたしは夜になっても泣かなくなった。悲しみに少しずつ土をかけて見えないように覆い隠したからだ。でも深く土の中に埋もれ、長い時間が経っても、朽ち果てやがて土に還っていったりは決してしない。つやつやとした表面を保ちながら、ただじっとそこにある。水色の小鳥みたいなものがやってきて小さな足あとをいくつもいくつもつけていくと、そこから柔らかい土が崩れてつやつやした悲しみが現れる。その瞬間は前ぶれもなくやってきて、わたしは、ああ、まだここにいたんだねとたくさんの涙を流すのだ。
小鳥の小さな足あとが一体なんなのか、その名前は知らないけれど、わたしを傷つけるものではないことは知っている。それは一片のことばであることもあれば、短い音楽であることも、誰かのこちらを気遣う視線であることもある。世界にそういうものがあって、わたしはよかったと思う。
おなかの子がいなくなってしまったことを知った日に読んでいた本の作者に、手紙を書いたことがある。その日あなたの本を読んでいたことでずいぶん救われましたと伝えたら、返事をくれた。その言葉でまたわたしはたくさん泣いて、それから、わたしだけの悲しみをぴかぴかのまま抱えて生きていくことを自分に許したのだった。
どうかその悲しみを抱えて生きていってください 。それも生きる大事な意味のひとつだと僕は思います 。 「悲しいことは早く忘れた方がいいよ 」と言う人もいるでしょうが 、悲しみを忘れないこともやはり大事です 。