部屋で音楽を。
夢中で走り出さなくなったのは危険予測できるようになったからだけど、使ったものをケースにしまわなくなったのはどうしてだろうかと今朝の短い読書中に考えた。
今読んでいるのは村上春樹の短編集。そのなかの『踊る小人』という話がはじまったところだ。音楽プレイヤーの周りにレコードを放り投げている小人に既視感を覚える。ちなみにこれはから書くことはわたしが瞬間的に思い出しただけのことで、小説の内容とはなにも関係ないはずです。まだ2,3ページ読んだだけだからわからないけど。
それでは話を戻す。小人に既視感を覚えたという話。わたしの場合はCDをMDに録音していたときのことを思い出す。
とくに今みたいな夏休みの最初の方に今のベストソング集をつくる。あれこれ引っ張り出してどのアルバムの何曲目と何曲目は外せないとか、誰々のあの曲が久しぶりに聴きたいからアイツが持ってたな、貸してもらおうとか。そして出来上がったらラベルに曲順を書くのだ。学校のノートにもそれくらい丁寧な字で書けよというくらい丁寧に書く。
サブスクでお気に入りリストを編集するのとは全然感覚が違う。気分でスキップすれば良いからとりあえずブチ込んでおく的なことはしないのだ。しっかり厳選するのがいい。
それから、他人のお気に入りCDをそうやすやす貸してもらえる訳では無い。親しいからこそ気をつかう。余程レンタルのほうが雑に扱える。
借りるというのは特別な感覚なのだ。自分に置き換えてみればわかるはずだ。あの頃のわたしたちには、ただ音楽が記録された量産品では無かった。それがたとえ中古店で買ったものでも何かしら考えて、なにかと引き換えに、それか偶然見つけて手に入れた。予算を考えて何かを諦めて買う。さらにそこにキズが付く。何度も聞いたからか、手が滑って落としたか癇癪をおこして投げたかもしれない。すると、そのキズのお陰でさらに愛着が出たりする。歌詞カードのこのページが開きやすくてプラスティックケースの蓋がパカパカ外れそうなのは自分の物だとわかるようになる。それを貸し借りするから面白い。そこまでわかっていてもまだ幼いから喧嘩も起こる。懐かしい記憶だ。
そんなわたしも最近はCDを買うことがなくなった。サブスクは贅沢で便利だけど手に入れた気持ちにはならない。でもそれ以上に便利で贅沢だ。
こんなふうに思い出に浸ってやっとCDが欲しくなるのだから、いまはCDが売れないのもしかたない。
自分の部屋で新しいCDのセロファンをとってケースを開けて、丁寧に歌詞カードを取り出して、それから傷がつかないようにプレイヤーに入れる。するといつだって音楽と自分しかいなくなる。それは不思議で面白いこと。皆、踊る小人になっていた。