2000字ホラー「横顔」

 大学が夏休みに入ったのはまだ日差しの強い9月からだった。期末テストから解放された俺は居酒屋チェーンのアルバイトに精を出し、ひたすら稼ぐ2週間を終えるころには9月も半ばで、夜はもう涼しかった。9月末の初海外旅行に向けて頑張れど、さすがに昼夜逆転のような生活はストレスが大きく、同じバイト先の達也と幹人とともに急遽気晴らしの宅飲みとなった。安酒を腕一杯に買い込み、ピザのLサイズなんてみんな初めてで訳も分からず勢いで5枚注文した。稼いだ金をその日中に使い切るようなバカなノリが愉快でたまらなかった。さすがにLサイズの生地だけを頼んだ達也には肩パンしたが。
 酔いが回って話すことなんていつも一緒で、学部の可愛い女子が誰と付き合ったとか、飲み屋街のガールズバーのどこそこがおすすめかとか、合コンのセッティングだとか。あとは単位落とした奴の間抜けな失敗談は何度擦っても笑えた。今回は初の海外旅行でどこに行くかを話したり、あとは格安のマッサージ屋があると情報を仕入れた幹人が熱心に行こうと提案してきた。満場一致で行く。笑えるほど女に夢中な連中だ、俺を含めて。ややもすると達也が怖い話を聞かせてやると言う。夜寝ていると、2階の窓際で男にも女にも聞こえる声で老人が呼んでくる話だ。ネットでよくあるようなワンパターンな話でバカにした俺と幹人だったが、達也が「この部屋のことだけど」と半笑いでいうので小さな静けさに襲われた。だがアルコールに酔う俺たちは、徘徊老人なら警察に電話しろよと達也に文句を言いながらゲラゲラ笑った。むしろ面白いじゃないかと。幹人なんて窓の外に呼びかけるように適当な名前をいくつか呼んでいた。

 気づくと部屋は暗く、喉の渇きと気怠さから酔いつぶれのだと分かった。部屋の寝息は二つで達也と幹人も酔いつぶれて寝ているのだろう。ごくわずかに窓から入る街灯の光を頼りに、炭酸の抜け始めたぬるい炭酸水を探してあおる。ずるずると涼しい窓際に移動したが、大きな蛾の羽音に気持ち悪さを覚え、他人様のベッドに寝転ぶことにした。下手に動いたせいで眠気から半端に目覚めたおれは、無意識にスマホの画面をつけた。束の間の眩しさとともに顔の横に、皴だらけの白い顔があった。脱力した表情でおれを見ていた。あまりのことに呼吸できず、そいつの寝息のような小さな音が耳に染みる。視界の端でこちらを凝視するそいつの横顔に視線が振れるのを必死で抑え込む。いっそ叫んでしまえていれば楽だろうに、声が出ない。喉が閉まるような苦しさを紛らわすように、そいつと目を合わせた。濁った黄色の眼球は焦点が合っていない。それなのに見つめてくる。瞼からはナメクジの這ったような光る線が伸びていた。それと同時に窓の方から誰かを呼ぶしゃがれた高い声がする。青白い爺が笑った気がした。
 狂ったようにおれは叫んだ。腕を振り回して、追い払うように立ち上がる。そいつはするりと窓から飛び降りていった。落下するように。

 どれだけ時間が経ったか、落ち着いたとき俺は見慣れない車の中にいた。隣には警官がいて、外を見ると少し人だかりがある。その中に達也と幹人の姿があった。ぽつぽつと警官の質問に答える。喉がガラガラと痛かった。結局、話を整理すればこうだ。急に叫んで暴れだした俺に驚いた達也は一人では制止できず、騒ぎに気付いたアパートの隣人が警察を呼んだ。幹人はその時買い物に出てたらしい。ちょうど徘徊老人が達也のアパート前にいたので、老人が去るのを隠れて待っていたと。おれの話を聞いた全員が半信半疑だったが、警察は付近で老人の目撃情報がなかったか調べてくれるとのこと。酒の飲み方に気を付けるようにと注意も受けたため、きっと信じてもらえてない。
 酷い気分だったが、達也の部屋で3人の夜を明かした。「徘徊老人はお婆さんで、一人でぶつぶつ言ってた」というのが幹人からの話で、窓から出てきた人は気づかなかったらしい。恐る恐る幹人があの爺の顔を聞いてきたので、鮮明に脳裏に焼き付いた容貌を教えてやった。口に出しながらおれは気づいた。瞼の細かい傷から漿液が滲んで、ナメクジが這ったように見えたんだ。あれは執拗に目の周りを搔きむしってたんだ。2人は生々しいおれの言葉と、ひどく静かな様子に何かを感じ取ったのか、その夜はそれきり会話がなかった。あの日以来、達也は徘徊老人を見ていないらしい。警察が上手に対処したのだろうか。後日達也の部屋の前に白杖と懐中電灯が置いてあったらしいが、それも警察に届けて音沙汰はないと聞いた。

 今日もバイトを終え、酷く重い頭を枕にぶつけるようにベッドに倒れこむ。最近は旅費を貯めるためじゃなく、早く眠れるように疲れ果てるまでバイトに明け暮れていた。あれ以来暗い部屋でスマホを見ることができなくなった。日常生活でも暗い場所ではスマホを見れないし、他人のそれにも少し神経質に注意するようになった。幹人には健康オタクだなんだとからかわれるが、実際目の調子は健康そのものだ。悪いのは耳の方なんだ。
 白目をむく刹那、今日も寝息が二つ聞こえた。

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