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旅から日常に戻っちゃった
突発的な福岡旅行の帰り道。
滅多に使わないバッグのフロントポケットを開けて、自宅の鍵を取り出す。
たった一日ぶりに会う愛猫が心配で仕方なくて、最寄駅からまっすぐ家へ帰り、ノータイムで開け放った玄関先で20分くらいず~~~っと撫でてました。靴も脱がずになでりなでりと。
久しぶりに再会した愛猫は、心なしか痩せているような気がしたし(気のせいだけど)毛並みもどことなくボサボサとしてた(完全に気のせいだけど)。
ようやく旅用のハイカットを脱いで、荷ほどきする。一通り整理し終えた後も、旅行の疲れを癒すように猫と戯れていました。ゴロゴロと普段より3割増しで甘え尽くしてくる。でも30分もすれば満足したのか、お気に入りのスペースにスタスタと帰っていく。クールなやつめ。そこが猫のいいところ。
久しぶりにPCの電源をつけて、いつもの状態に戻してやる。ゲーミングチェアに掛けると同時に、脱力感や倦怠感が全身を襲う。体の疲れももっともらしいけど、それ以上に「日常」に戻ってきちゃった、って失望感もずっしりあった。
旅先には、私のPCのモニターもなければ、お気に入りのデスクも、ゲーミングチェアも、ベッドもない。私のモノは何もない。
思い出だって現在進行形で作るものだし、道行く人たちは全員私のことを微塵も知らない。どんなコミュニティにも属していないし、旅行客はバラエティに富み国籍さえも千差万別。自分が日本人だってことさえ、どこか所在なさげに感じちゃうくらい。
すごく自由って感覚があった。何も所有していないし、誰にも包括されていない。もちろん、普段から自由をモットーにしてる。地元だろうが旅先だろうが、そのスタンスだけは変えないつもりだった。
だけど、馴染みの場所には、どうしても記憶がこびりついちゃうものなんだ、と痛感しちゃう。
地元付近の空港に降り立ち、聞き馴染んだ路線に乗り、お馴染みの駅を通過していき、やがては風景も見知ったものばかりになって、到着した自宅。
パッと見た時、なんか全部枯れてるみたいだった。唯一の例外は猫ちゃんくらいなもの。他の景色は、なんだか色褪せている。
私のモノ、と考えたら、途端に貧しくなった気になる。
誰のものでもない街や空間や景色には、すごく対等に接せていたのに、他でもない私の所有物に囲まれると、まるで収監されてるみたいな気持ちになる。私の自宅は、どうにも閉じられている。
出不精な一面もある自分にとって、旅は大の苦手とするコトだと思っていた。だけど旅行中はずっとご機嫌だったし、退屈な時間もなかった。自宅大好きっ子だという自認は、どうも無意識下ではほとんど間違いらしかった。
私のモノには私が強くこびりつく。
所有すると、心も見識も狭くなる。
すると人に優しくも出来なくなる。
もちろん、旅行先で見てきたコトやモノだって厳密には誰かの所有物に過ぎない。けれどほとんどは私が侵入可能な領域にある。
所有されているけれど、誰にでも開かれている。シェアされている。
街中にはたくさんのシェアされた空間がある。
そういう空間はたまらなく心地いい。
そういえば最近、友達がルームシェアを始めた。
約8畳のワンルームで、夜職の同性二人組。
布団とベッドで、足の踏み場はほぼなくなる。
「そんな狭い空間でストレスじゃないのか?」
と聞いたら
「まったく。むしろ毎日楽しいよ」
と答えた。
あっけらかんと答えるもんだからびっくりしちゃったけれど、どちらも「所有」してない空間だからこそ、案外心地よいのかもしれない。
そんな彼女らに影響されてか、昔ルームシェアでこっぴどく失敗したことを思い出して小説を書き始めてる。原因はたくさんあるけれど、何よりも「私が家を所有している」って気持ちがあまりにも強すぎたのが、一番良くなかったんだと思う。
「この空間は私のモノであって、あなたのモノじゃない」
そういう気持ちが強くなりすぎて、当時の相手を酷い目に遭わせてしまってた。贖罪じゃないけれど、その後悔が今の私を突き動かしているのかもしれない。
今の私に改心できることはなんだろうか。
そう、考えた時「空間をシェアする」ことに尽きると思った。
旅先で快くシェアしてもらったたくさんのモノやコトから、また一つ大切なことを教わった気がする。