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軸ブレ人間 の ゐなおり桜心中|ショートショート

桜の木の下で死ぬのが、最も美しい。

大抵、目についた桜といえばソメイヨシノになる。淡桃色の春の便りは、どこでもいつでも空に出航している。しかし、たとえばその幹によじ登り、常日頃持ち歩いている吊り縄をかけたとて、どうにも具合が悪い。ありふれた桜にありふれた死骸が一つぶら下がったとて、面白みのひとつもありやしない。

同じ吊り縄ならば、シダレザクラがよほど美しく私の体躯を照らすだろう。垂れ下がった枝に小さな花弁が追随するよう並走しており、京都の円山公園の祇園枝垂れなんかは東京のモノとは違った風情を醸し出す。ソメイヨシノよりもよっぽど面白い。釣り下がる私の身体さえも、一種の趣として処理されてしまうような慣性力が働いている気がする。だが、可能ならば太い枝と幹が望ましいのだ。柔軟性に優れた枝垂れといえど、細枝が人ひとり分の加重に晒されてはとても耐られぬだろう。望まぬ最悪の結末が脳裏をちらつく。中途半端に生をつかみ取ってしまい体のどこかが不随になってしまう事態など、よっぽど死よりも恐ろしい。

その観点でいえば、カンザンザクラなどはかなり好ましい。やや遅開きが特徴で、4月の中旬ごろまで立派な濃桃色の八重咲が太めの枝にこびりついている。中国原産という点は少々気にはなるが、もはや街路樹としてポピュラーに生育されているこの桜であれば、花見の季節を十分に謳歌した後、ことに及べる。いうなれば十分な余暇を私に与えてくれるタイヘン慈悲深い桜と言える。それに厚い花弁が舞台幕のように身体を包み隠してくれるのも良い。葉桜が散り、4月後半になって初めて露わになる仏となった私の姿を思うと、最高のシチュエーションではないかと興奮が隠せない。

しかし、こうなってくると私のプランは完璧とは程遠いような気がしてくる。もっとよい桜の種があるのではないかと考えに至ったり、はたまた桜以外の選択肢も十分に吟味しなければならない気もしてくる。それに、単純な絞首というのも、趣に欠ける。考えれば考えるほど、そんな気になってくる。

先日、若くしてホスピスで大往生するがん患者の自伝を読み耽っていた。死を覚悟した女性が死の間際にして「人が生きる」その意味を実感する話だ。どうにも涙が止まらなかった。ページをめくるごとに確実に著者の死に近づいていく感覚が指先にあった。残りページ数がすなわち寿命であった。私は、残酷にも彼女の延命措置を施すことなく、軽快にページをめくり終末を速めていた。いや、実際には彼女はとうの昔に亡くなっている。私に操れることなど何一つないのだが、紙の擦れる音がどうにも死神の嘲笑に聞こえてしまったのは私の多大な妄想故だろうか。読んでいる間とめどなく零れた私自身の涙の正体は、恐怖そのものだと思っているが、実際のところは分からない。

医者の理不尽な宣告から始まった彼女の分水嶺。抗がん剤による決死の闘病もむなしく、彼女は正当な死に向かい始めたのだ。正当な死、というのは、私のように桜の木の下で死骸になろうなどという不順で不埒な動機でない死にざまを指す。早い話が大往生なのだ。身内に看取られ柔らかいコットンやら羽毛やらの純白なシーツの上で逝くことが、どうにも神様から背中を押された正しき死のような印象を受けるのだ。

神仏に貴賤はないとは思うが、私は無意識に死神を倦厭しているようなのだ。受け入れるものには仏が舞い降り、抗うモノには死神がその背中にぴたりと張り付く。そして、私自身は死神に魅入られているような気がしてならないのだ。その証拠に、ほら、こんなにも満開の桜たちを見て、私の抱く感想と言えば、「死にたい」一辺倒なのだ。なんたる贅沢か。大往生した彼女から激怒されそうなものだ。彼女の言葉を借りるなら「こんな美しいものがある世界から去るなんてまっぴらごめん」だそうだ。

私が見ているのは虚実なのだろうか。この美しいという普遍的でつまらない感想は、実像のマヤカシだとでもいうのだろうか。私の目がすっかり曇っているから、平凡な言葉で矛を収めることしかできないのであろうか。しかし、こんなにも美しいものが、夢幻とは到底思えない。思えないが、考えられないわけではない。私にはこのソメイヨシノの真の美しさなど到底分からないのだ。東京都豊島区の前身、江戸時代末期のソメイ村で作出されたオリジナルのソメイヨシノなど私は知らない。もしかしたら250年も前のソメイヨシノは遥かにキレイで香りもよく、心を奪われる存在だったかもわからない。この街路樹として乱立している桜並木など、すっかりありふれてしまって、人知れず私はそのことに失望を抱いているのかもしれない。もしくは年月を重ね、世界から色味が失われていることに、なんとなく気づいてしまっただけなのかもしれない。

ああ、ダメだ。このままでは。背筋が急にゾッとした。

死神の体温などは分からない。しかし、きっと冷たいのであろう。臓物が内側から瞬間冷凍されるくらいにゾッとする冷気をまとっているに違いない。嫌に冷やされた汗が額や背中をスススと伝わる。これが死神の涙だって呼ばれても私は信じるぞ。あいつらは嘲笑がすぎて涙腺がすっかり緩まっているのだ。でなければ生きた体温をもつはずの私に、冷えた汗が伝う道理などあるはずもない。ああ、恐ろしい。恐ろしくて仕方ない。だが、立ち向かわねば。あるがままの恐怖に耐えかねて、私は桜の木に下で物言わぬ朴訥ぼくとつにならねばならぬのだ。ゆっくりと奴らが鎌首がもたげるのを待つのではなく、こちらから懐に入ってやらねば我慢できぬのだ。

かような恐怖に直面し続ける私からすれば、がんのステージIVまで進行した彼女に、やはり憧れる。「なるようにしかならない」「なすがままでよい」とうわごとのように繰り返していたらしい。受容の心は人を穏やかにする。痛みや苦しみを受容するためには、心と身体、どちらの平穏も不可欠だという。なんということだ。ではこの耐え難い恐怖心は、死へのあこがれは、生への苦しみは、私が何一つ受容できていないことの現れではないか!

なにぶん手足がやたら自由に動くからタチが悪い。これではもがき苦しむことが出来てしまう。出来てしまうのだ。手足をばたつかせ、頭を働かせ、息を胸いっぱいに吸い込むことができてしまうのだ。なんたる不幸であることか。まだ鎖で寝床に縛られたほうが幾分マシなのではなかろうかと、ホンキで考えては桜の木がイヤに妖艶に目に映る。…なんの変哲もないソメイヨシノ。いっそのこと、これでも…。

「先生、何をしてらっしゃるんですか」

ふいに声をかけられ、振り向くと巻き上がる渦状の花びらの中、一人の女生徒が立っている。

「ああ、いえ。あまりにキレイだったのものですから、触ってみようかと」「あら、先生はセミか何かだったのですか?」
「まぁ、似たようなものかもしれませんね」
「あいかわらず、不思議な事をおっしゃいますね。人がセミなわけがないでしょう」

そういってクスクスと笑う女生徒。その遥か後方に両親と思わしき人影が浮かぶ。なにやら真剣に話しあっている様子で、彼女は気にせず、私が食い入るように見つめていた桜を見上げている。

「ご両親と花見ですか?」
「ええ、そうです。本当は父が先に場所を取るはずだったのですが、寝坊してしまって。それでちょっと小競り合いが起こって、すっかりこんな時間というわけなのです」
「たしかに、そろそろ日も落ち始める時間ですか」
「先生はいつからこちらに?」
「いつからでしょうか。昼過ぎごろから桜を見つめていたのは覚えているのですが…そうですね。物珍しい品種を探していたのですがソメイヨシノばかりで飽き飽きしていたところです」
「ま、そうなのですの。先生は桜の違いが分かるお人なのですね」
「まぁ、好きですからね。人並みにはわかります」
「私なんて全然です。全部同じに見えます」
「華より団子、ですか?」
「そんなに太っていません!」
「ああ、いえ、そういった意味では」
「ふふ、冗談ですよ」
「…君も人が悪いですね」
「ところで、先生はどんな桜をお探しになっていたんですか?」
「そうですね。特に、というわけではありませんが、遅咲きでしっかりとした幹と枝があればよいなぁと、見て回っていましたね。この時期ですと、少しづつ葉桜に変わりつつありますし、イチヨウザクラのような品種でなければ難しいようです」
「イチョウ…ですか?」
「ああ、イチョウではなく、イチヨウザクラです。4月中旬から5上旬にかけて咲く品種で、花柱の部分がイチョウのような形をした葉になっているのが特徴ですね。花弁自体も大きくて見ごたえがあります。こちらの並木道にはありませんが、二駅ほど行った神社の境内に、確か植わっていましたね」
「まぁ!そんな桜があるのですね」
「ええ、そうですね…ああ、そうか、イチヨウザクラなら、あるいは…」
「先生」
「ん、どうしましたか?」
「今度、私をそこに連れて行ってくれませんか?」
「はぁ、構いませんが、今日はご両親との団らんなのでしょう?二度も花見など、若いあなたにはさぞかし退屈な時間なのではありませんか?」
「いいえ、一緒に見る人が変われば、感じ方だって変わってくるものです。それに、イチヨウザクラというのも、ここの桜とは違うのでしょう?」
「まぁ、そうですね。」
「それに、両親は…」
「…?」
「いいえ、なんでもありません。それでは先生、また」

そういって女生徒は踵を返していった。彼女の我両親のもとにたどり着くと、先ほどまでの意気揚々としたなりを潜め、しずしずと両親の後ろをついて並木道の奥へと姿を消した。

どうにも、不幸な人間というのは不幸な人間を引き寄せるものなのだろうか。彼女もまた死神の瘴気に当てられた哀れな存在なのかもしれない。人の苦悩など推しはかるべくもないが、一種の逃避行に身を沈めようとする彼女の無鉄砲な有様には同情の余地があった。さて、そんな同情を求めて近づいた旧知の先生が、桜に首をゆだねようとしていたなどと想像にも及ばないだろう。

しかし、やることが増えたのもまあ事実だった。きっとこの瞬間に私には憑き物が訪れたのだろう。縄を二つ。それと、簡易な手錠が必要かもしれない。大往生した記憶の中の人物へのあこがれは風に吹かれて、どこかへ飛んで行ってしまった。さらに強固で頑丈な桜を見繕わなければならなくなった。しっかりと、二人分支えられる枝を。幹を。見つけられるだろうか。

ああ、そうか。この瞬間、死神を恐れている私などいないのだ。
なぜなら私が死神だからだ。
いまこの瞬間、まだ憶測にはすぎないが彼女にも多少の死ぬ理由ができた。私はもとより死ぬ理由は持っている。正当な死という圧倒的比較対象に劣等感をぬぐい切れず、袋小路に陥ってしまった。そこに訪れた「心中」という名案。

「自殺」と言えば敬遠されるというのに、なぜか「心中」となると言葉巧みな表現が美しげにイメージされる。どこか世間が認めている節がある。大往生と言う言葉と同じくらい、「心中」という言葉には目に見えぬ権威が潜んでいる。肩をいからせ、幅をきかせて、社会の中を孤高に歩いているのだ。なるほど、これは正当な死に他ならないかもしれない。

ならば、今年でなくともよい。来年までにゆっくりと桜を見繕おう。そうして重ねた年月が確かな理由として花開くまで、辛抱するのも悪くない。

そういう幸福も、ありなのではなかろうか?

男は、桜を見上げながらゆったりと笑っていた。
そんな男を遠目から見つめる女生徒は、その妖艶な笑みに目を奪われていた。彼女の瞳には、桜も両親も、とっくに映ってはいない。



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