小説:河川敷と、タバコと、瑠璃色と。第7話
前回
7.神崎宗助と和泉真菜
綱島駅から一時間ほど乗り継いで降り立った上野駅。
じりじりと焼けつくような暑さの中、黄緑色の葉を通した日差しがアスファルトを照りつける。はるかにごったがえす人口密度と鶴見川の川幅ほどに広がった通りが四方に伸びている。公園改札を出てまっすぐと進むと、緑地じみた敷地に、自然と同化したような風貌の屋敷が現れる。口コミで話題のカフェテリア、その優待券が2枚ぼくの手元に握られていた。頭上を覆う葉の形が引き延ばされ、まばらな影が頼りなさげな紙切れに投影されていた。スマホに映し出された時刻を眺める。背中にじんわりと染みてきた汗は、果たして単なる暑さのせいなのか、それともこれから起こる出来事への緊張からなのか。
ほどなくして、待ち合わせをした人物が駅の方面からやってくる。白のブラウスに薄手の紺のカラージャケット、黒のスラックスを合わせたカジュアルな恰好。わずかに赤みがかった髪を後ろで結んでポニーテールを作っている。黒縁の大きな眼鏡に光が差し、瞳を覆っていた。
「久しぶりだね、宗助先生」
懐かしい声が耳に入ると、体中の汗から一気に温度の消失を感じる。かつてぼくの編集担当だった和泉真菜の姿があった。
・・・
案内された店内は清涼な空気に包まれていて、夏の暑さを微塵も感じさせない。建物全体を覆った人口の森が日光から身を呈するように茂り、ひんやりとした夜の空気がそのまま真昼まで保管されているようだった。靴を脱いで靴箱に収めると、肩幅の狭い木造の階段を上り、2階のテラス付きの部屋に案内される。扉があるべき場所にはぽっかりと空間が開いていて、廊下を通る人の姿や気配を筒抜けにしているが、それがかえって開放的で清々しい。和泉が奥、手前にぼくといった席順でテーブルに向い合わせで座った。受け皿まで陶器製のコップが2つ置かれると、ごゆっくりの一言とともに割烹着を着た店員がそっと退室する。
部屋の奥には上野の町並みを一望できるテラスがつきだしている。少し表に出ると、横や向かいには別室からテラスに繰り出し街並を眺める客の姿が確認できる。無作法に生えた木々のこすれあう音が人々のざわめきを遮断して、開放的な空間にも関わらず個室の風体は守られていた。和泉が、感心したように口を開く。
「にしても、すごいところだね。大丈夫?無理してない?」
「ああ、今回は招待券をもらったから、心配しないで」
頼りなかった紙切れを二枚ひらひらと控えめに振って見せてから、そのまま胸ポケットにしまう。店員に確認をとり、しっかりと有効であると言質が取った。ポケットの中で、チケットの感触が急に主張をし始める。いまさら山吹先生から受け取ったという実感がこみあげた。
「どう、うまくやってる? 仕事は順調かな。困ったことはないかな」
「大丈夫さ。飲み会の逃げ方も上手になった。日課やルーティンも作れて、安定しているよ。」
「そっか。ずっと心配してたから、馴染めたようでよかった。あ、タバコ吸うようになったんだよね。わたしは気にしないから、構わず吸って」そういってテラスの隅に目をやると、柵の一部を間借りするように縦長の灰皿ポールが立っていた。
「うん、とりあえず、今は大丈夫。そっちは、禁煙中だっけ」
「そうそう、もう一年になるよ。大したもんでしょう」
そういって明瞭にしゃべる彼女は、遠い記憶にあるままだった。対してぼくは、ぎこちなく詰まっていた。
「それで、わたしに連絡をくれたってことは書く気になってくれたってことだよね」
両肘をテーブルにおいて手の指を嚙み合わせ、レンズの奥からこちらの顔をうかがってくる。
「そうだね、遅くなったけれど」
ぼくは何とか平静を装って答える。久方ぶりに手に取った長方形の黒鞄からA4サイズがすっぽりと入る縮尺の茶封筒を取り出し、開口部のボタンにひっかかった紐を結わく。そうして、中身を取り出す。挟み込んだ大柄クリップでまとめられたコピー紙たちが厚みをもっていた。茶封筒を受け皿にして、陶器のコップの間を通すようにそっとテーブルの上を滑らす。その時、ぼく自身の手の震えを悟られないよう慎重を期したが、彼女のジッとした視線から逃れられる気がしなかった。「驚いた。もう書き下ろしたんだね」とこぼしながら、彼女は目を見開いていた。
滑らされた原稿用紙が彼女の眼下に届き、まじまじと見つめられる。すぐには手を取らない。表面の一枚に大きく書かれたタイトルだけを視線でなぞるように何度も何度も確認する。タイトルが撫でられるたび、ぼくの背中を伝う汗は列をなした。
彼女は組んだ両手を解いて、肘を視点にそのまま腕を原稿用紙の上にかぶせる。
「まずね、ちゃんと伝えたいことがある」
そして視線をあげてぼくの視線と交錯させる。真剣な話をするとき彼女特有の仰々しい前触れを、懐かしく思った。こうして演技臭く改まるのは彼女の癖であり、それだけに決意の固さが容易に見て取れた。
「何度も伝えたことではあるけれど、何度だって言わせてもらいたい。もう、わたしは君の原稿を破いたりしないし、しっかりと折り合いをつけて覚悟を決めてる。だから君から連絡を受けた時から、君と合うのは”編集としてのわたし”だって決めてる。だから、安心してほしい」
何度も聞いたそのセリフが頭の中で反芻する。以前と比べて、声の震えはもうなくなっているし、毅然とした眼差しがどこかへ泳いでいく様子もない。手や腕にこわばりもない。
上手になったな、と内心で思い、それからすぐに反省する。どうにも、ぼく自身の気持ちの浮つきが罪深いものに思えた。待ち合わせをしていた時の厳かな感覚を、たとえわずかでも緩めてはいけない気がした。
「ありがとう。ぼくも、それに関しては大丈夫。もう逃げだしたりもしない。ここにいる」
「わかった。それじゃあ、早速、読ませてもらうね」
積もる話にフタをして、彼女はゆっくりと原稿に目を通しはじめる。ぼくは二三回、湯呑の水を口につけてから席を立ち、黙読する彼女の横を抜けて、テラスに向かった。胸ポケットからタバコを取り出し、かつて、和泉の手から受け取ったジッポで火をつけた。
・・・
和泉真菜は、ぼくが大学生の頃に持ち込んだ原稿をはじめて読んだ編集部の人間だ。父の次に、ぼくの第二の読者であったことは間違いなかった。
出版社からの折り返し電話で父が勝手にアポイントが取っていたことに気付いたぼくは、電話先の口上から放たれたスケジュール通りに動くしかなく、彼女の勤める出版社に足を運んだ。
衝立でぶっきらぼうに区切られた待合室ではじめて対面した彼女は、どうにも垢ぬけない感じで、やる気のない教育実習生みたいな印象を受けた。当時、彼女にあてがわれていた仕事が、自信満々な学生や実績のない作家の自慢げな鼻っ面をへし折る単調な作業だったから、いつも彼女は気だるげな表情を浮かべていた。人の足りない弱小出版社の小間使い、が彼女の愚痴レパートリーの1つだったが、実働的に言えば、小間使いどころか屋敷の外で選別作業に勤しむ門番だったかもしれない。
手は足りないが、同様に持ち込み件数も足りなかった出版社は、炉端の石ころに対しても念入りな検品をやめることができなかった。そこで白羽の矢が立ったのが彼女だった。
石ころがちゃんと石ころであることを確認する賽の河原のような業務に日がな従事していた彼女は、きっと「また石ころがやってきた」といわんばかりの目線をぼくに向けていた。もともと文学を愛していた彼女は、現実と理想のギャップに苛まれつつ、上司から押し付けられた雑務を放棄できずにいた。その結果が、永遠とした学生たちの道楽斬り。学生だった当時のぼくには、緊張のあまり、気だるさなその視線を熟達した専門家の見方、などと都合の方へと解釈していた。彼女は、ぼくから預かった原稿をパラパラとめくって日々の業務を済まそうとした。
彼女の段取りは「ありがとう。後日、感想をメールでお送りしますので、このアドレスにメールを送ってください。それでは」と名刺を渡してお開きにする。修正箇所の集計だけでも心が折れそうな原稿たちの感想をその場で認めるのは現実的でないから、軽く流し読みをした後で一度、時間を設ける。大抵は持ち込めた事実に満足して空メールも送らないか、ぶっきらぼうに送られてきたメールに「当社では扱うには不向きかも」といった要項を添えた、いわゆるお祈りメールを送信して終わり。
もちろん、何か感じた原稿があれば上司に通してチーム会議に出すこともあったが、もともとお払い箱のような業務ということもあり、まともに取りざたされることもなかった。彼女自身も、強いてひっかかるものを無理やりひねり出している節もあったから、この選択に不服はなかった。とにかく、日々石ころを読まされる作業は、苦痛でしかなかった。
そんな話を後日聞いたからこそ、あの時の彼女の態度が異例中の異例だったと、自覚できたのだろう。
原稿をパラパラとめくった彼女は、ぴたりと停止した。丸まった背中を伸ばして、再度表紙に戻っていた。ハッとしたように「君、今時間大丈夫…?」と確認が入り、こちらも予定を大きく開けていたから問題ないことを伝えると「ありがとう」と腰を据えて読み始めていた。いつもの段取りと違っていた点は、その場ですぐに電話番号を交換したことだった。
「ぜひ、君の小説をうちで取り扱いたい。いや、わたしにやらせてほしい」
それから4日後、唐突に入った電話から和泉の声が飛び込んできた。ぼくが持ち込んだその日のうちに上司に打診し、熱意を込めて宣伝をしたそうだった。それからチーム全員分のコピーを刷り、会議の題目に上がる前から臨戦態勢に入っていた彼女の情熱は社内に伝搬した。ぼくの小説は、彼女がずっと探し求めていたダイヤの原石とまで評価された。そうして『霞立ちの気まぐれロジー』は、あれよあれよという間に出版が決まっていった。
和泉はぼくの4つ上だった。ぼくとの共同作業は近所の友達と遊ぶくらい気軽で、それでいて綿密に行われた。文章の増量、必要最低限の文字数、それから校閲と表現のブラッシュアップ。出版に必要な要素が次々と盛られ、体裁が整ってゆく。次第に場所も選ばなくなった。ぼくの通う大学の構内、キャンパス、実家近くのファミレス、果ては僕の実家で進めた。
彼女と過ごす時間はロジーの輪郭を浮かび上がらせるためにその多くを費やした。熱にほだされた彼女の服装も顔つきもみるみると変わっていき、気だるげな教育実習生の姿はどこにもなく、一人前の編集者がオフィスに顔を出していた。
原稿が完成すると、たちまち出版にこぎつけ、新人賞を受賞する運びとなった。重版もそうそうに決まった。弱小だった出版社は注目を浴びることとなり、同時に彼女の地位も向上していった。念願だった山吹賢三先生の選考書評が聞けるかと期待していたが、彼が授賞式に姿を現さなかったことだけはよく覚えている。
それからのぼくはたちまち業界人として迎え入れられた。各種メディアから連日取り上げられ、入れかわり立ちかわり訪れるインタビュワーたちに、いつまでも慣れなかった。
ぼくは、ぼくの力で起こっている現実がまるで信じられない思いだった。次々と起こる空想ともつかない出来事にめまいがした。彼女は混乱するぼくをたしなめては「大丈夫、わたしがついてる」とただただ励まし続けてくれた。雑誌での連載小説が決まったりと、ぼくは大学卒業前にして一家を養えるほどの収入をもった。父はただ誇らしそうに「おれの見立ては間違ってなかったな」と、いやがる母の前でラッキーストライクをおいしそうに吹かしていた。
「君の担当はこれからもわたしだからね。覚えておいて」と、和泉もぼくとの共同作業を続けると宣言してくれた。しかし現実問題、彼女には立場があり、以前のような付きっきりのサポートは難しくなっていた。勤務時間内は難しい。でも勤務外であれば何の問題もない。
そういって彼女と恋人関係になるのに、さして時間はかからなかった。
2作目、連載小説をまとめた3作目、書き下ろし4作目、と彼女との共同作業の末、僕の作品が次々と世に流れていった。招待されるパーティの規模は作品を出版することに増し、スパンコールドレスに身を包んだ和泉の姿が美しくて、ぼくも嬉しかった。彼女のために小説を書いていると思い至るに、十分な輝きを秘めていた。
しかし、5作目から食い違いが起こる。どんなに書き直しても彼女は「面白くない」と口にした。喧嘩が自然と増える。それは恋人との内輪なものであればマシだったが、編集の仕事にも響いた。僕が書いた『ロジー』を始めとした魅力的なヒロインたちは、複雑さや自立心、孤高、女性読者が憧れ、羨むような魅力を放っていた。
空想上の理想像といったら聞こえが悪いかもしれないが、少なくともぼくの頭の中で培われた存在だ。大いに山吹作品の影響をうけた彼女たちに独自の解釈をのせて躍らせた。作者がまさか男性だと驚かれたことは一度や二度じゃなかった。でも、ぼくの作品の半分には和泉真菜が宿っていたから、間違った解釈ではないとも思っていた。
ぼくが理想を書き、彼女が体裁を整える。それはずっと変わらなかったはずだ。でも彼女は「ダメだ」と言い続けた。何が原因か分からなかったぼくと彼女の間で、その事件が起こるのは時間の問題だった。
「…あなたの書く人は、わたしじゃない…ッ! わたしはどうやっても、あなたの理想になれない…ッ!」
執筆作業に集中できるようにとあてがわれたアパートの一室。うなだれ、叫んだ、彼女の手によってずたずたに引き裂かれた原稿。勢いよく立ち上がった拍子に倒れた、背もたれ付きのチェア。どれもが後悔の色に包まれていた。「わたしを…、書かないでよ…」とせき込みながら涙をこぼし続ける彼女に、ぼくはどんな言葉も尽くしようがなく、ただ黙りこくるしかなかった。
長い沈黙の後、日が落ちはじめる。
照明をつけることなく、徐々に暗きに満ちていく部屋から逃げるように彼女は飛び出した。扉が勢いよく開く音と、ゆっくり閉まる音と、取り残された暗闇の中でぼくは佇むしかなかった。記念にと貰ったはずの、瑠璃色に輝くポータブル灰皿が、部屋の隅へ事もなげに放られていた。
それから、間もなくして、父の訃報が届いた。
・・・
「…ありがとう。うん、すごくイイ。もう、わたしの校閲も編集もいらないくらい。本当に戻ってきたんだねって」
テラスに出て父の形見を吸いながら思い出に耽っているぼくの背中から、彼女自身の所在を確かめるように言葉がかけられた。ぼくにしては多い5本目のタバコの吸い殻を縦長の灰皿に押しやって振り返る。しゃんと伸びた編集者としての彼女の背中がそこにあった。そこから、椅子の背もたれに肘をかけて振り返った彼女は、以前一緒に暮らしていた何気ない日常の一幕を、明瞭に思い起こさせた。
「そろそろデザートでも注文しようよ」
「…そうだね」
席に戻って、呼び鈴を押す。やってきた店員に季節限定の抹茶ぜんざいを二つ注文する。
待っている間に、彼女は原稿を茶封筒に戻すと、ぼくと同じデザインの鞄へしまった。
「そしたら早速会議にあげさせてもらうね。もちろん、版元はウチで。絶対通すつもりで受け持つから、大船に乗ったつもりでいてね」
彼女はスケジュール帳を開きながらメモを書きこんでいく。会議がいつ終わるか、その後の連絡の手段や時間など大まかな取り決めを行っていく。以前のなぁなぁで行われいたすり合わせより幾分も厳密になったやり取りが、ぼくと和泉の関係性が初めて持ち込みをしたあの時まで遡ったことを暗に示していた。
「…ねぇ、なんでまた書こうと思ったのか、聞いてもいい?」
スケジュールを鞄にしまったのと同時に、彼女から確信をつく質問がやってくる。
「たまたま、なんだけれど、山吹賢三先生にお会いしたんだ」
「見返り美人の?わ、そうだったんだ。すごいじゃない。君、ずっと会いたがってたよね」
「そうそう。これがとんだ偶然なんだけど、引っ越し先の近所でさ、河川敷にポツンと置いてあるのベンチで、偶然先生が通りかかったんだ。それから何回かお会いして、話を聞いたり聞かせてもらったりしている中で、このチケットをもらっちゃってさ」胸ポケットから少しだけチケットの顔を覗かせた。
「『君が書けない理由が罪悪感なら、燻らしておくにはもったいない』って怒られてね。それで、ずっと今日まで見せられなかった作品を、見せる決意ができたんだ」
関心した様子で聞く彼女。ぼくは敢えて本当のキッカケを伏せ続けることにした。西野さん、いや西野さんと名乗る女性の姿を、ぼやかしたまま話を進めることにしていた。和泉がぼくの原稿を破く様子を、どうしても打ち払えなかった。それでも、和泉は目ざとかった。
「そっかそっか。君はやっと会えたんだね。先生と、もう一人。この”人”、実際にモデルがいるよね。読んでてびっくりしちゃった」
体中の筋肉がこわばった。一瞬、暗い部屋がフラッシュバックする。緑と黒が入り混じって、目がくらみそうだった。でも、和泉の穏やかでどこか達観したような表情がぼくから不安のタネを奪い去っていった。
「やっぱり、気づいちゃうもんかい…?」
「わかるよ。今までさんざん肉付けしてきたの、わたしだもの。君は結局、恋愛下手だったもんね」
呆れるような口調ながらも、向けられる瞳はずっと澄み切っていた。編集としての彼女が脱ぎ捨てられて、素の彼女が顔を覗かせた。
「わたしはさ、ずっと君の理想の人に嫉妬してたよ。知ってたと思うけど。でも、作品として、ううん、編集としてのわたしからするとそれって大正解なの。あんまりにも理想化が過ぎると、嫉妬なんて感情は浮かばないし、かといって陳腐すぎても何も感じない。だから、すごいことなの。君がはじめて持ち込んだ『ロジー』から、ずっとその気持ちがわたしの中で渦巻いてたんだ」
寡黙なぼくにかわって、彼女はよくしゃべった。物怖じしない彼女の個性でもあり、その我を通す信念がぼくにはよほど心強かった。
「君の理想にわたしが肉付けして、それで嫉妬しちゃうんだもの、ほんとわたし、おかしかったんだと思う。いないはずの相手にぶつけられないから、君にぶつけちゃってさ。でも書き続けてほしいって望んでて、でも、いざわたしのことが書かれると、信じられないほど取り乱してしまって。…はぁ、嫌になっちゃうよね」
「…いや、ぼくの配慮が足りてなかったんだ。書き方はいくらでもあった。ぼくがたまたま君の傷つく書き方をした…。だから、もっと、キレイな書き方が…」さえぎるように彼女が続ける。
「でも、そんな書き方をされたら、わたしが納得しない」キッと射貫くような視線を受けてたじろぐ。
「――ぼくは、君を書こうとしていたのかな」
「…違うの、わたしが、君に、書かせようとした。わたしのことを。そのせいで、君の大事な作品がどんどん…」彼女の後悔がそこで一度途切れる。
「…だから、罪滅ぼしとして、いろいろしなきゃいけないと思った。これも君の作品を完成させるためだよ。それが”編集”としてのわたしの願い。”彼女”としてのわたしは、もうあの時に切り離したから」
就職先も、父親の葬儀やごたごたも、恋人としての関係が破綻した後であっても、彼女は精力的に協力してくれた。返せるものは何もないと伝えても、決して協力をやめなかった。ある意味で、お互い呪いにかかってしまっていたのかもしれない。今の彼女は編集としての身持ちを固めて、ぼくに対等に接してくれた。さらに言えば、作品の殉教者となるべく、強固な仮面をかぶる決意をしてくれたのかもしれない。
「…ありがとう」と小さく頭を下げた。彼女は、いいっていいって、と言いたげに手をぱっぱと払う。
「でも、ついに現れたんだね。君にとっての『ロジー』が」
感慨深げにつぶやいた彼女の目線がぼくの両目を捉える。
「ね、どんな人なの?」
身を乗り出し、年頃のかしましい娘が恋煩いを茶化すみたいに問いかけてくる。
「西野さん、っていうらしい。山吹先生と同じく、近所のベンチで知り合った」
「らしい?」早速疑問にひっかかった様子。
それまでの西野さんとの様子、陽斗くんとの出会い、それから山吹老人とのやり取りを順番に話していった。直後に、抹茶ぜんざいを携えた店員がやってきた。テーブルに置かれた二つの甘味。彼女はスプーンで白玉をつつきながら、ぼくはゆっくりと話をつづけた。
「山吹先生曰く、シノノメが本名なんだろうって話だけど、どうにもまだ信じられなくて」
「シノノメ…」彼女は何かを考えこんでいる様子だった。それもすぐにニヤケ顔に変わった。
「とにかく、君はその子にそれはもう、惚れこんじゃってるってわけだ」
「いや、まぁ、はは」面と向かって断言されると気恥ずかしいことこの上なかった。頭をかきながら照れ隠しをもって答えるに留める。
それからは、もう根ほり葉ほりと聞かれた。編集者としての彼女はいったいどこへいったのかと散々なプライベートな詮索を受けながらも、ぼく自身決して悪い気はせず、むしろ肯定的に西野さんのことを打ち明けることができた。和泉もまた、ぼくの話を嬉しそうに聞いていた。
暗かった部屋に照明が灯り、バラバラになった原稿はカタチを戻して和泉の鞄へと吸い込まれていった。父の遺影の前で、並んで手を合わせた場面が唐突に浮かぶ上がる。黙とうをささげ、どちらともなく立ち上がり、別々の部屋へと入っていく。
今は、こうしてテーブルの対面で、話すことができている。決して上手な決別ではなかったけれど、本当の意味で和解できた気がした。今語っている河川敷のエピソード集が果たして、彼女の恩義に報いる話であったかは疑問だったけど、彼女の笑顔が本物であるという直感は疑いようがなかった。
ぜんざいの器が空になり、ふたりでテラスから街を眺める。彼女は思い出したようにポケットから何かを取り出した。
「え、それって?」 つぶらな宝石のついた指輪を、そのまま左手の薬指にはめた。
「ふふーん。婚約指輪。先月もらったんだよ」
「そうかぁ、おめでとう。なんだ、わざわざ外したりなんかして。はじめから付けてくればよかったのに」
「これ見よがしにつけてたら、わたしの話になっちゃうでしょ? 今日は、君の話をしにきたんだから。でも、しっかりと決別できたみたいだし、もう付けても文句は言われないかなって」そういって街並みに向けて左手をかざし、幸福そうに眺める。
「文句って…、ぼくはどんな人に見えてるんだ?」
「ん~世界一のこだわり屋さん。特に、女のタイプにうるさいね」
そう言いながら、彼女は一層ニマニマとほほ笑んだ。ぼくもやれやれと言わんばかりに肩をすくめてみせた。憎まれ口を叩く和泉の横顔は、新緑の光に照らされてずっと幸せそうだった。作品の殉教者などと、すっかりぼくの思い違いだったようで、さらに安堵が心に広がった。
と思うと、和泉が眉間に少しだけしわを寄せ、口元に手を当てながら記憶をたどるように話し出した。
「シノノメで思い出したんだけどね…、君が『瑠璃色』を執筆した後、編集部にいくつか手紙が届いてたんだ。君がとても受け取れる状態じゃないときでね、編集部からとりあえずわたしで預ってくれって頼まれて、結局今日まで渡す機会はなかったままになってたんだ…。
その中で、同じ名前の子から、それまでの君の作品の感想を送ってきてた子がいたの…。すごく熱心な子で、わたしと君がほとんどオマケくらいで盛り込んだ要素までバッチリ言及しててね。多分、後から読み始めたと思うけど、その子は誰よりも君の作品を読み込んでいた気がする。
だんだんね、その子自身の状況を書くことが多くなってきたんだ。高校に居られなくなったとか、祖母が亡くなったとか、先生の作品が唯一の拠り所、とまで書いていて…編集部としては、お父さんが亡くなったばかりの君に手紙を送るかどうか散々協議してたの。続きの作品はもうでないんですか、って内容の手紙も、そのあと届いてさ」
それから白状するように言う。
「わたし、なんだか耐えきれなくて、返信を送ったの。わたしたちの作品をここまで読み込んでくれたのはあなたが初めて。宗助先生は今、筆を休めているけれど、あなたのように作品に寄り添ってくれる人がいてくれるって分かっただけで、きっと続きを書く気になってくれるよって。ありがとう、って。
…正直、わたしの独断だった。本来は君に知らせるべきだったのに、どうしよう、今のいままですっかり…」
「その名前ってまさか…」
「…うん、今ハッキリ思い出した」
吹きすさぶ風が店内を通り抜けた。
空の器にしなだれていたスプーンがカランと音を立て、彼女は続けた。
「シノノメ。シノノメ ルリ」
つづく
✨タグミス防止用品置き場!これ大事!✨
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