「匿名性」がなくなっちゃった現代。
こんばんわ。ネコぐらしと申します。
気まぐれではじめてみたnote。
こんな無名で木っ端の記事にも、一定数「スキ」を付けてくださる読者様がいることに喜びを感じています。
「いいづらさ」を日常で感じていた私にとって、なんだか勇気をもらったような感覚になりますね。
さて、今日の話題は「匿名性」について深掘りしていきたいと思います。
このSNS全盛期時代。
私達は「実名」という枷から大きく脱却することとなりました。
もちろん、公共的な機関であったり手続きには「実名」がまだまだ不可欠ではありますが、今後はどうなるかわからくなってきましたね。
何を隠そう、このnoteを書いている私自身が「匿名」そのものですから。
では早速本題へ。
「匿名性」って?
さて、今日は早速chatAI君の出番な気がします。
AI君!
AI君いつもありがとう。
匿名性とは、もともと自由表現を手助けするための知恵でした。
社会的秩序を乱さない極めて穏便な方法。
かつ、自分自身の考え方をはっきり発言するためのセーフティー解除でもあったわけですね。
直近の記憶でいえば、ひろゆきさんが作った匿名掲示板2ちゃんねるから、匿名性に関してのトピックが世間に溢れたように思えます。
振り返ってみれば、ラジオのハガキ職人、署名活動、路上での弾き語りなんかも匿名に相当するものだったし、匿名文化はネット社会以前から存在していました。
時代背景を考えると、戦前など、意見を持つことそのものが不遜と捉えられるような情勢もありました。
それでも、変革の意思や情熱を絶やしてはならない。
必要に迫られたレジスタンス的な活動こそ、匿名性の発祥なのでしょう。
「公然と意見を言ってしまえばと、社会そのものから制裁をなんらかの受けるかもしれない...。でも必ず自分のような考えを持った同志たちがいるはず…そうだ!”匿名”で意見を集うんだ!」
ってな感じで、生み出された義賊的存在であったこと想像できます。
ここらへんのエピソードだけでも、男の子の好きそうな漫画を一本書けそうな題材でちょっと興奮します。
ここで私が不思議に感じている現象を一つお話してみます。
「匿名性」という概念はすっかり変わっている気がする。
匿名性は、かつて重視されていたことは「おれが!わたしが!」といった個の主張ではなく、誰しもが気づいていながら声をあげれない大きな命題を議論のステージにあげる為の集団的な手段でした。
現代では「無敵の人」なんて話題がよくあります。
実名を挙げて「正々堂々」の演出し、真っ向からの批判したケースがありました。
メディアに取り沙汰されるほど「義賊的」な行為とされた。
結果、登壇者の株が下がり、批判者がもてはやされた印象を受けました。
この話の面白い点は、過去の構図とまったく反転している、ということです。かつては「無敵の人」=「匿名の人」だったはず。なぜこうなってしまったのだろうか。
19世紀半ばまで遡ってみると、一般市民が実名を公開して世に訴える行為はアドバンテージでもなんでもなく、即極刑、あるいは直接的な制裁にさらされるほどリスクのある行いでした。
しかも、そんなことされて当然だ、という社会全体のお墨付き。見つけ次第、民間人による私刑、なんてこともあったでしょうし、何よりも中央政府が黙っていません。
しかし現代においては中央政府に代わって、ネットによる監視の目が、個人の意見に対して不当な私刑や制裁を許さなくなりました。
例えるなら
・過去の匿名性は、インビジブル(invisible)=透明人間。触れられないもの。
・現代の実名は、無敵(invincible)=(人類の相互監視という意味の)法に護られたもの。
同じ無敵でも、それぞれベクトルの異なった概念になっている気がします。
「では現代においての匿名性は透明人間といえるでしょうか?」という質問すらも、もう必要なさそうですね。答えは当然NOです。
匿名による言い合いや誹謗中傷、果ては犯罪予告など、どれもデジタルを活用するからには、結局、通信局やプロバイダによる追跡で発言者がわりだせてしまう世の中です。(※プロバイダに関してはログの保管期間問題や、法務整備が発展途上なので、別に記事を書きたいところ。)
本当の意味で透明になるには、それこそデジタルデトックス(インターネットやSNSに接続できる端末を持たずに、自然に近い環境で生活)しながら草の根運動するしかありません。税金や社会保険からは逃れられませんが、すくなくとも自身の意志や理念は、透明のまま維持できますね。
それでも東出昌大さんのように燃えそうになるケースがあるので、もうどうしたらいいのw・・?!といった感じではありますがw
さて、次の項から急に話が俗っぽくなるのに加えて、私の趣味の話にもなってきますので、事前に謝罪をしておきます。ごめんなさい。
「Vtuber」という「"実"匿名性」の誕生。
匿名性の究極たる形ともいえる概念が、つい最近生まれ始めましたね。
それがVtuber(バーチャルYouTuber)の存在です。2016年末、キズナアイという始祖により爆発的に広がった新語ですね。
さて、ここらへんの解説にはまた彼が最適でしょう。ということでChatAI君、はいドン。
はいありがと~。ということで、もはや意味を調べるまでもないくらい一般化したことなので、私から説明することはないと思います。
ただ、AI君の回答を訂正すると、キズナアイのデビューは2016年末ですし、さらに歴史を深掘りするとAmi Yamamotoという海外ブロガーが2011年にはバーチャルブロガーを自称していたり、ウェザーニューズという天気予報番組で2014年からAiri(ウェザーロイド)というバーチャルキャラクターが存在したりするので、AI君もまだまだですね。
ちなみに筆者は相当なオールドファンです。それこそ、にじさんじやホロライブの発足以前からリアルタイムで追いかけていて、面白いコンテンツだと熱中していました。
この匿名性の塊ともいえるVtuberですが、最近Vtuber事務所ホロライブを経営するカバー株式会社よりこんなご報告がありました。
要約すると「所属するバーチャルタレントへの誹謗中傷を行った匿名者の情報を開示させ、起訴を成功をさせている」といった内容です。
「匿名者が匿名者を訴えたってことか?!しかもそれが成立した?!」
はい、つまりはそういうことなのです。匿名性とは一体・・・ウゴゴ・・・。
もちろん、これはカバー社の弛まぬ企業努力があって成立したことであり、まだまだ一般的な事例とはいえません。最近こういった事例の積み重ねが増えてきたからこそ、カバー社ならびにその関係者もアクロバティックな行動を起こせたのでしょう。
ですが、この事実の公表により、匿名性という概念の定義を大きく変えなければいけないと感じました。
私は、バーチャルタレントのような匿名性がついに”実在”を帯びたと思いました。それが小見出しにある「"実"匿名性」という概念です。
「匿名者」はもう現実には存在しません。
すなわち「匿名性という言葉」も、もはやフィクションの中でしか存在しえなくなったのです。
ここで匿名性という言葉を歴史から排除するのは簡単です。
ですが、文化というものは、現在から未来に至るまでの遷移も含めて意味がもちます。なので、あえて「匿名性」という言葉を存続させる為にも、私は多少の意志を込めて、頭に”実”をつけることでこの言葉をリブートしたいのです。
これは匿名性という本来の意味が、間違った意味やマイナスのイメージで使われないための指標でもあります。
私の人生においても、匿名性に多くを救われてきました。それにnoteのいち利用者として、ここの線引だけは譲ってはならない気もします。
AI君も危惧してくれましたが、匿名性の乱用による誹謗中傷や犯罪の温床になりうる、といった懸念が「匿名性」という言葉そのものに内在してしまう現象はどうあっても避けるべきです。
つまり「匿名性」=「悪」という固定概念が定着してしまうのが、最も怖いことのように感じる。
匿名性とは、人の自由を尊重し、抑圧から救うための概念であったはず。
しかし、今回の判決をうけて、功労者である「匿名性」という言葉も道連れに切り捨てる事は、あまりにも惜しい。
ですから、ネオ〇〇みたいなノリで「”実”匿名性」と名付けてます。
それで言えば「ネオ匿名性」でもいいんですけど、なんか格好付かないのでそれっぽく”実”にしましょう。
「主体性をもった”実”匿名性」ってどうゆうこと?
さて話を戻して、匿名性が主体性をもつ、についてお話しましょう。
わかりやすくバーチャルタレントの話題を持ち出しましたが、別にこれは誰でも良かったりします。
このnoteを書いている私自身でもいいですし、SNSのアニメアイコンをしたフォロワーでもよい。実名を公表していないストリーマーでも構いません。
共通して言えることは、彼らに実権がもう認められていることです。
現代において、法は改善を繰り返し、おそらくすべての人を網羅できるようになりました。(法に関してはくわしくないので、厳密には違うかもしれませんが...。
彼らに被害が及べば、その事実を公共機関が認識し、匿名者であっても個人と同じだけの裁量が働きかけるようになったのです。
ここまで聞いて、どのような感想を抱くでしょうか。
私は、喜ばしく感じます。いや、正確には喜ばしく感じさせられた、というのが正解でしょうか。
生来、私達がもつ道徳観に従えば、個人が自由選択の元に行動できることは、美談であり、かつ誹謗中傷を行う匿名者たちを正しく罰することができる機会を得たのですから、当然納得です。
もちろん、嬉しいです。カバー株式会社からの報せを聞いて「よかったな~」と思ったことは、正直な感想であることには違いありません。
「活動者も匿名だから~」を理由に、泣き寝入りなんて悔しい真似をもうしなくて済むのですから。
このことから、対象が匿名であっても、しっかり主体性をもってよいことが証明されたと、心の底から感じることができました。
しかしこれ、センテンスに書き起こすとなかなか不思議な文章です。
「匿名が主体」になる。
これをそのまま受け取るのであれば、これまでの「実名」を「匿名」に置き換えても問題なく機能するのです。
実名=主体
匿名≠主体
の関係性も成立しなくなりました。
匿名性が実体を帯びたことで、私達は、名前も素性も明かさずとも、主体として振る舞えるのです。
とりあえず、「匿名性」とは意味を区別するため、この発展系の形を「”実”匿名性」と試験的に呼ぶとして、ここであえて、問題提議をしてみましょう。
「無知のヴェール」は取り払われちゃった。
前の節で、匿名性がその意味をほぼ失ってしまった事は説明しました。
しかし、このことにより「前時代的な言論の不自由」を再現してしまっているのでは?という話に戻ってしまうのです。
この話を説明するのに最適な思想実験があります。
はい!ということで、ChatAI君!今日は大忙しですね。
私が長らく考え続けており、かつ、実生活に最も密接に結びついてる問題。
それが、この無知のヴェールです。
今回は軽く触れるに留まりますが、別の機会でガッツリ書いてみたいなと思ってたり。
乱暴に要約すれば「肩書、年齢、背景、全部抜きにしましょう。その上で、正義とはなにかについて、腹をわって話しましょうや」って感じです。乱暴。
正義の原則といえば、マイケル・サンデル教授が提唱したトロッコ問題などが有名ですが、あの話は正直なところ、非日常的で限定的かつ極限状態です。日常問題に結びつけるには無理があります。
ですが無知のヴェールの結びつけは、とても簡単です。
もしも現代で無知のヴェールを再現するならば、次のような感じになるでしょう。
「ツイッター(現:X)に鍵垢を作りました。個人設定は何もしてません。ここに正義について自由に書き込んでみてください」
何者でもなく、世間からの監視の目もない、まっさらな状態で話す内容こそが、あなた自身の思う正義について最もよいヒントになる。BANされてもこちらで用意したアカウントですのでご心配なく。リプライや反応があっても、観てもいいですし、観なくてもいい。
この状況こそ無知のヴェールです。
さらに言えば、鍵垢でなくとも、ツイッター上には本能のままに批評や攻撃を繰り返すような書き込みがごまんとあります。彼らはある種、責任から開放されたデジタルな無知のヴェールに包まれており、是非は別として、自由選択を出来ている状態でもある、と私は考えます。もちろん、誹謗中傷自体は唾棄すべきことなので別問題ですが。
項のはじめに、前時代的な言論の不自由と説明しましたが、その不自由さの実体は周囲による監視の目(それに付随する懲罰)です。
過去の例をあげると、ロンドンや旧ソ連ではスパイや諜報員をあぶり出すために閉ざされたコミュニティ内での相互監視は必須でした。さらに時代を遡れば”魔女裁判”や”異端審問”などでしょうか。
ですが、むしろ現代ではその監視の目はさらに厳しくなり対象は”すべての人”になりました。ある意味で社会のパノプティコン化です。
そうなると、”自分”という”主体”にどうあっても責任が要求されます。
すなわち、真の意味で、ネット上に匿名性が約束された場所はもうなくなったのです。(ディープネットという例外はありますが、流石に危険な話題なので控えます。)
思想だけなら問題ないですが、なにかしらの振る舞いが表に発露した瞬間に、誰しもが監査対象になりうる。鍵垢の例も出してはみましたが、厳密にはアクセスしている端末やIPアドレスなどから辿れるような可逆性のあるものなので、匿名のように見えてもその本質は異なります。
つまりネット社会において無知のヴェールはもう存在しない、ということです。
「隠れ家を失った人」がいる。
ここで、現代の課題となっているリベラル問題を持ち出します。
多様性を享受するということは、多様性を享受しない人間も認めなければならないというジレンマは、聞いたことがあると思います。
事実、人間は社会的である前に、本能を理性で抑えている生き物です。
動物として従来の攻撃的な本能や、理性の欠如は当然あります。そして人類には一定数極端な個体が存在している。差別問題を盾に、この事実に目をつむるべきではなく、自然なものとして社会構造の中に取り込む必要がある。
たとえば、
”なぜ”サポートセンターのマニュアルからクレーマー対応がなくならないのか。
日米安保条約は、”何”からの安全を保障するのか。
こう考えてみると、そういった多様性の理念が当たり前に社会構造に適用されている、ということは理解できます。
であれば、匿名性を失った場合に、人間が持ち得る攻撃性の矛先はどこに向くのでしょうか。
この議題において、個人の道徳性に頼るしかない、だとか、教育の方針をよりリベラルに固める、といった提案に意味はありません。
法治国家における治外法権特区のようなガス抜きどころは不可欠であり、多くにとって手軽なSNSという空間は、一部その役割を担っていたような気がします。
やわらかくいってしまえば「隠れ家を失った」のでしょう。
それらを失った人間がどうなるかは、正直なところ私にも想像つきません。
ですが、隠れ家を失った彼らにも、「世間の空気」は「誠実」で「善良」であることを要求し続けてくるでしょう。正義という議題に限らず、日頃の不満や鬱憤、悲しいことや辛いことなど、責任とは無関係でありたい事象が他にもたくさんあっても、です。
彼らのとっての「ニューヒーロー」とは?
無知のヴェールとは、本来そういった「空気」に忖度することなく、純度の高い人間の在り方を求める提案です。
極端な例ですが「警察官」である人物が自身の暴力性について話すことは、大いに問題です。
しかし、無知のヴェールというある意味セーフティーな「空間」が存在するとしたら、彼は警察官という役職を脱ぎ捨て、根源的な思想や意見を述べることができる。
そして、彼に相対する人も、彼が「警察官」と知ることもなく、話に乗るもよし、傾聴するもよし、無視するのもよし、と自由意志で選択できるのです。
互いに、社会的な権力がない(0ではなく、本当の意味でない。Null)からこそ、開放的な意見を携えて議論の席につくことができる。
誰でも席につけてしまう、相手を選べない、普遍的なテーマしか話せないのでは?など不安要素はあるような気がしてしまいますが、それらが問題視できるのは自身に社会的な制約があるからだ、とも帰結できます。
匿名性という性質をもったSNSは、無知のヴェールに非常に適した条件を満たして”いました”。
いました。そう、過去系なのです。
最近、私が読んだ本の著者は「SNSはもう実名や肩書で殴り合ってるだけの場だ」と語っていました。
私のSNSのタイムラインにはそういった情報は流れませんが、ひとたび怪しげな話題で検索しようものなら、地獄絵図であることは想像できます。
かつて「自由意志」を内に押し殺すことなく「匿名性」を巧みに活用し「自由選択」ができる社会に変革をした人々がいた。
しかし、今の「空気」は、彼らが掴み取った「自由選択」を守っていると言えるのでしょうか。
匿名性が”実”匿名性に変わった今、彼にかわる新たなレジスタンスが現れるのではないか、と想像するのはおかしな話ではない気がします。
バットマンにとっての、ロビンフッドをように。
ニューヒーロー的概念が誕生するのを、密かに期待しているねこぐらしなのです。
さて、今日も書いてみましたが、正直なところ書きたいことの1/3も語れていないのが正直なところです。
ですが、ブログを投稿するごとにどんどん文字数が増えていておおよそユーザーフレンドリーとは言えない状況なので、理性のブレーキがかかりました。あぶない。
今回の話題に関しては、まだまだ書きたいですが、小分けにしていきたいと思います。
今回の総括するとしたら、みんなが匿名で過ごせる社会にはなったけど、それはそれで窮屈な世界に逆行してるかもよ。って感じでしょうか。もちろん、誹謗中傷をする人物を擁護するつもりは一切ありません。彼らは罪に問われて然るべきでしょう。ですが、匿名性の在り方や役割については、今一度考えなければならない、といった感じでしょう。
それにしても、Vtuberという文化が広がったことは本当に嬉しい。
余談なんですが、この文章もにじさんじ所属の黒井しば様というお犬さまのFF14配信を見ながら書いていたりします。
しばちゃんカワイイネ!
それでは、今日はこのへんで。
ありがとうございました~。