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人文系とエッセイを反復横跳びする|めっちゃ久しぶりに真面目な文章。

猫暮です。
ただいま、博多旅行中の身の上です✈️𓈒𓂂

パソコンが目の前にないのでスマホから投稿という、猫暮史上けっこう珍しい試みなんですが、ついついまとめておきたいことが出来ちゃったので筆(というかスマホ)を取っています。

noteを読んでいたところ、過去記事にスキがついたと通知が飛んできました。何事か、と曲者に襲撃された心境で気持ちでどの記事についたのかを確認すると⬇⬇⬇。

わっ、またまたこれはニッチな記事に注目されたことで、いささかギョッとしました。いや、こんなん書いたっけ…くらい記憶の彼方にある記事ですね。なんか変なこと書いてないかまず心配になっちゃうあたり猫暮は小心者である。

これは「内化」について深堀していた時期に生み出された怪作なのですが、せっかくだからと飛行機の待ち時間にサラリと読み直してみたところ、驚きました。

え?誰?この人文畑に染まりきった、いかにもソッチ系の人っぽい文章は…。どこのどいつだーい?.…私だよ!!

ウッソ。全然違う人じゃん。

正直これほどまで過去の自分と今の自分が乖離してる文章って、そうそうない。内容については違和感ないけど、問題は文体、文体なのよ!二重人格とか代筆とかゴーストライターとかを疑われても仕方がないレベルで別モノなのである。

「猫暮てねこの創作ぐらし」ってアカウントは複数の書き手によって運営されてるんだよ、とかそういう風の噂を流されたってなんら文句は言えません。たぶん猫暮自身も信じます。うん、これ違う人ですね。多分。誰だかはまったく検討もつかんけど。

と、冗談はさておき、紛れもなく同一人物です。

記事内では一人称が「ねこぐらし」となっていますが、こちらは過去のアカウント名。去年の3月あたりに「ねこぐらし→猫暮」と改名した記事があがっているので、中の人は相変わらずの唐変木がやらせてもらってます。

どうしてこれ程までに今と昔で文章の形態が変わっているのかについては、前々回あたりの投稿でも軽く触れました。

しかし、今回のよりニッチな過去投稿へのスキを受けて、変化についてもう少し深堀りしたいなと。


ということで、まるで人文畑臭しかしない過去の自分と、現在のふわふわエッセイモンスター、あるいはその中間(昨年5〜6月)あたりで小説狂いと化していた自分なんかも全部比較対象として、色々分析をしてみようじゃあないか!

世間一般の感覚でいえば、そんなチラ裏に書いときゃいい文章を投稿するなんて滅茶苦茶身勝手。とてもユーザーライクとは思えない。

けれどこういうノージャンルな文章の濫用こそが豊かさの証だよ、ってスタンスはどんな状況であれ、私が散々綴ってきたこと。

なので、特に恥じ入ることなく、過去の自分についての認識を訂正する機会を設けたと思って、弁証法的な発想を模索していこうじゃありませんか、といった趣旨になります。ででーん。



はじめに


個人的に、人文系の文章を含んだ作品と、そうでない個人的なエッセイは、ほとんど対極に位置していると考えています。

この場合のエッセイとは、プラットフォーム上で発信されているごく個人の感想のようなものだと仮定してみてください。タイムラインに流れるアレらです。あるいはネット上の人とサラッと交わすボイスチャットとかでもいいです。

この2つは、実質的には個人の感想という面でまったく同じタイプのモノですし、相互に吸収できる気付きみたいなのが沢山含まれているはずなんですが、それぞれ文章を好むフォロワーの性質があまりにも正反対だな、という印象を受けちゃうんです。

人文スキは人文に寄る。
エッセイ(というかプラットフォーム)スキはエッセイに寄る。

単純に、ミクロ的思考が好きなのか、マクロ的な思考が好きなのかといった対立構造に当てはめることも可能だけど、しかしそれだけでは説明がつかないほど、2つの間には尋常なく高い岸壁が立ち塞がっている。

1⃣猫暮の想像する『人文』

人文は、常に何かの状態を言語化し、伝聞できる対象の研究に重きを置いた学問です。

多くの側面を持ち、文学、倫理学、美学、哲学、文化論なども広義的に人文系、とされていますが、本記事ではファクトよりも猫暮の所管ベースで書いていきます。

微妙なニュアンスの表現にも気を遣った微細な分析から、今後の社会に訪れるだろう課題を表出させたり、様々な角度から資本主義の行く末に警鐘を鳴らしたりと、ごくごく個人的な啓蒙から政治的応用まで、文脈と文化の継承のために活用をされてきました。

簡潔にいってしまえば、世界や社会に広がる数多の文脈から現在地を定め、未来予測をするための集積知です。

特に優秀なタレント(才能)を秘めた人物によって正確な歴史から紐解かれた未来予想図は、えも言われぬ説得力を持ちます。つまるところ、言語化と読解に優れた「ミクロ」視点の強化によって世界が凝縮されていくわけです。

『才能溢れる知識人(タレント)の発信は、どちらかといえば多くの要素を内包した「マクロ」的な視点とも言えるんじゃないか』いった考えも、正直無くはないです。

しかし、後述するカウンターカルチャーの発生ゆえに結局は個人の一意見「ミクロ」にしか落ち着かない、というのが猫暮の見解です。

だからこそ、別の尺度を持つ各分野の専門家達が一堂に会し、あるいは互いの文献や書籍から意見を抽出(引用)し、混ざり合っていく中で、より仮説・検証の精度を高めていく。

その反復的な議論や実践による社会実現(さらに言及すれば、社会の課題解決を達成することによる自身の自己実現)を根底に行動を起こすためのキッカケ、とも考えられます。

特にアカデミズムに関与している層は、界隈との関係性が良好であれ険悪であれ同じテーブルや戦場に席(籍)が置かれていることがほとんどです。

「〇〇の専門家」といったイメージが浸透しているほど分かりやすい例もありませんが、こういった肩書や呼称による権威の明確化みたいな風潮自体はめちゃくちゃ大衆寄りだな、って印象です。

人文系の専門家の意見が「マクロ」的な属性を帯びやすい背景こそあれど、要は「深さ」と「精度」の問題であり、平地にちらほらと点在するような民族達の触りだけをまとめたある集落の長その人、という「ミクロ」でしかない、といった解釈にもなるわけです。

2⃣「ミクロvsマクロ」仁義なき戦い

では、本記事の対立構造の一端である「マクロ」的なベースはどこにあるのか。これについては大衆の娯楽に注目したとき、数々のバラエティやコンテンツ内、さらには私たちの身近で日常的に行われている、ある例が挙げられます。

「お偉いさん方の言ってることはさっぱり分かりませんがね、私たちは日々笑ってられりゃあそれでいいんですよ」

と言った特有の前口上から始まる皮肉(ネタ化)が、真面目に社会について意見をするよりもよっぽど爆発的な共感を大衆から得てしまう。

この抜群の求心力を備えたカウンターカルチャーこそが、人文の継承によって洗礼された個人であっても「ミクロ」に押し込められ、「マクロ」に塗りつぶされてしまう最たる要因なのです。

ある意味で、人文という文脈や匂いを少しでも共有している集団をマルっと包括し、ごく個人それぞれの主張の明確な差異を無視することであえて「マクロ」化し、マジョリティであることを武器に一種のマウンティングを大衆間で共有する。

そういった一時的な享楽的行動がいわゆる「お笑い」「ストリーム文化」「コンテンツ化」のような発信(ある意味で個人が”エッセイ”をはじめる瞬間)なんだと、私は認識しています。

それらにモノの生産的活動の活性化や大義はなく、たんなる大衆居酒屋の酒の肴として消費・消耗可能なコンテンツに変化し、現代の情報(消費)社会を支える柱になっちゃってるわけです。

めちゃくちゃ個人的チョイスなってしまうんですが、チョコプラさんの「財津ちゃんねる」ってネタがこの問題を象徴する絶好のコンテンツになっています。
ぜひ観てみてください。なんともいえない笑いが込み上げてきます。猫暮は、なんかもう、恥ずかしくなっちゃって観てられませんでした…笑

ぶっちゃけこのネタに登場する人の「エセ感」はあからさまにヤバいですけれど、何よりヤバいと感じるのはこのエセと人文の区別できない人がリアルに結構多そうなこと…!

エッセイ人文ヨコッ跳びコラム!
猫暮普通にお笑いファン🎤

※10割ネタです。ご安心を。

3⃣過剰なマクロの「外」と「内」

この大衆による「皮肉」の対象は、政治の在り方やスタートアップ系のビジネス、アカデミズムなどの仮想敵を一緒くたにするだけでは留まらず、様々な畑に侵入してはイナゴのように食い荒らします。

特に目が向きやすいのは社会的弱者に(勝手に)分類された者たちへの強烈な攻撃です。

ネットリンチに近しいこの事象についてここで多くを語るのを控えますが、たとえば

  • 「推しの子」でも取り扱われた、恋愛リアリティショーにおける出演者の自殺事件

  • Vtuberにあかるい方でなくとも周知の事実となった元ホロライブメンバーの不倫騒動

古今東西語り継がれてきた人間ならではの普遍的な「弱み」さえも「外」の出来事や「悪」に分類してしまい、時には直接的に、あるいは間接的にネタにすることが当たり前の文脈となってネットの海に氾濫しています。

伝えやすさの点で「弱者・弱み」などと表現をしていますが、この縦の関係性を用いた表現自体、あきらかに不相応で浅慮な感覚だと私は思っています。

実際には「普通」と「異常」とを隔てる曖昧な境界線を指しているだけなのでしょう。

そして、そういった「異常」を見つけてはアイロニカルに取り扱うことで、「内側」への帰属意識を高め、界隈の一部として承認を受ける。そういった報酬のために扱う皮肉こそが「ユーモア」だと盲信し、対象を増やしながら無自覚に境界線をなぞり続けてしまう。

世紀の物理学者の格言に従えば、「普通」という言葉が意味するところは、単なる「偏見コレクション」にすぎません。

「普通」という概念に自分自身を納めたがるのは人として当然の欲求、といったニュアンスの文脈が広く取り扱われていますが、いかんせんその檻は狭く形も歪、公然と認められたモノ以外を許さず、結果、同一の規格が大衆の間で流行する。

そうして同様の「規格」を扱える者と、そうでない者の間に明確な線を引いてしまい、「内」と「外」を分断しては愉悦に浸りつづけている。それも、一見して健全そうな笑みを浮かべながら、です。


もちろん、あからさまで直接的な行動をしている人は少数かもしれません。
いつの世も声が大きい人が目立つ。実働は僅かでしょう。○○ハラといった言葉を大量生産するくらいにみんな敏感になっているくらいだからこそ「普通」の名のもと、プラットフォーム監視社会は予断を許さないのです。良くも悪くも。

そのうち
ハラスメント・ハラスメント(通称ハラハラ)
なんて概念も流行りそうなぐらい過激ですよね。

ハラハラ、って響きはかわいいけれど業の深い言葉です。
ハラハラが起こらないかと、ハラハラしちゃう…。ややこし。

エッセイ人文ヨコッ跳びコラム!その2
深夜にハラミ画像送るのも「ハラハラ」だよ。気を付けてね!
ハラミ探しちゃった…? ないよ!!!!!

4⃣「剪定」されちゃった外の世界


ちなみに、前項で挙げた大衆の愉悦には「ミュートをする」といった行為も含みます。

若年層間で頻繁に利用されるミュートとは「自己防衛」のための行動であり、異常な人から自分を守るための手段として正当性を持っていました。

しかし、これもさらに拡大解釈が進み、というかだいぶ厄介な方向へ進化(退化?)の一途をたどっている。

無関係であることをむしろ推奨し、意図的なシャットアウトを重ねて行うことで境界線の外の世界を「無かったこと」にする。偶発的に「外」が介在する可能性の芽すらも摘み取ること、すらも「ミュート」の文脈に含めてしまったのです。

この考え方は多くのプラットフォームユーザーに画期的だと受け入れられ、もはや常識を越え、当然の空気として蔓延しています。

いや、画期的が過ぎますって流石に。だって、外内を分ける境界線を俯瞰することさえも省略し、強引に内側への収束を強める絶好の機会になってしまっているんです。

もはや自分に害があるかどうかの選定すら必要ない。
外というだけで「剪定」されてしまうんです。

境界線の外にあるものが何かも分からないまま楽しもうとしているのですから(ある意味、境界線自体が画面外に行ってしまっている)、綺麗な花が咲くはずだった枝先を「尖っていて危ないから」ってな理由をつけてまるごと刈り取ってしまったような、そんな奇妙な感じを覚えます。

この例えは、人文畑の著作者と、怪しいスタートアップ企業のエセ経営者の見分けをつけないまま双方ミュートする行為、に近しいものを感じます。

花の美しさどころか、手前の葉っぱの緑が微妙に濃いか薄いかだけを見て「花見っていいよね〜」と笑いながら開花待たずして枝を剪定している、そんな不気味ささえも覚えてしまう。これは明らかに豊かさが失われているな、と思わずにはいられません。

しかし、これほど無関係・無関心化が進んでいる背景をそれなりに理解できるのもまた事実。だからこそ大衆はマクロに傾倒し、知識人たちはミクロに傾倒する。互いが互いに「画面の外」へ追いやっていくんです。

本当に外が「剪定」されてしまって見えていないのか、それとも無意識化では「外」への恐怖を抱いているけど抑え込んでいるのか、正確に当事者たちがどう感じているかは分かりません。

でも、「外」から見るその光景は本当に違和感だらけ。
ただただ、違和感なんです。

正直、知識人サイドはこの排他的な関係すら包括しながら考慮しているけれど、大衆サイドは、ズブの素人目線でもちょい厳しい感じある…。

どうすんのこれぇ。
大衆側の選択肢、日に日にどっかいっちゃってない…??

エッセイ人文ヨコっ跳びコラム:その3
どうするんだろうね

5⃣人文とエッセイの反復横跳び

猫暮的には断崖絶壁となった二者間を反復横跳びするのが楽しくてたまらないわけですが、誰でも気軽に参入していけるパス(ルート)が限られてしまっている、という点にはやっぱり問題意識を持つ必要があるかもしれません。

しかし、猫暮は愚かなる1人の大衆に過ぎませんので、後は聡明たる先生方に委ねることといたしましょう。無念ッ(👈こんな感じで反復横跳びしてます。ごめんなさい)

少し話は脱線しますが、以前、「堀くんと宮村さん」という漫画を熱烈に推した記事を書いたことがありました。

なんかオタクが踊り狂ってるわ、っていうニュアンスでかなんでか結構バズった記事になっちゃいましたが、「ホリミヤ」には「メインキャラクター達の誰もがとても孤独で、共感されづらい」といった大前提があり「だからこそ救いがある(変にマクロ化しない)」といった考察が込められています。

このテーマはある意味バズること(共感や承認を集積すること)そのものを否定する構造にもなっているんですが、なぜかその警鐘的なメッセージを入念に練りこんだはずの記事がバズるという……これもうわっかんねー、と言いたくなる矛盾を引き起こしているんです。

しかも、猫暮自身も人に伝える気ほぼゼロで書いためっちゃ個人的な文章だから、なおさらクエスチョンマーク。いや、本当にびっくりしちゃったんです…。

しかし、私的にはホリミヤの登場人物たちは「自分自身のことを”ネタ”」として提供している側面すらある。記号としての自認があるし、内外の構造でいえば「外」なのだ。

自分さえもを仮想敵の対象としてマクロ的に包括し、そうして描き出した自虐的なユーモアこそ文脈の内外を使いこなした抜群のバランス感覚を発揮していたんです。すごい面白かったし、すっごい救いになった。

ですが、近年のユーモア(皮肉)はコミュニティの外と内を徹底的に分断している。自分は「内」で、対象が「外」という絶対的な公式からズレることがない。「外」のフリをすることはあれど、それは「内側の外」にしか過ぎない。

観測者自体が「枠の外」に分類されることをまるで想定していない印象を受ける。いや、前項にて解説した「剪定」の文脈で語るならばそもそも「外側なんて無い」のでしょう。

だから残されている絶対的な内側、という身も蓋もない保身(幻想)がその人のユーモアを支えている。かつ、そのユーモアが持つ脅威や影響力を自覚できない環境が常態化してしまう。

もっとシンプルにいえば、「俺(私)は”そう”はならない」ことがアイデンティティになってしまっている。この”そう”が一体何を指しているのかさえも分からないまま、彼ら彼女らは日々笑って過ごす事をどうしようもなく反復している。

苦を知らずして楽は知れず。

意味を失い、実体すらも失われてしまった「冷たいマクロ」がそこかしこに広がりつづけている。

必要なのは、思い切ってこのマクロ沼地郡から「外」へ飛び出していく勇気なのかもしれない。

境界線の外側には思いもよらない景色が広がっているんだよと、私はワクワクと興奮をもってこれからも伝えていきたい。



おわりに

ぶっちゃけ猫暮はこういうもやもやをたくさん言語化させてもらってるので、一周まわってイマの情勢をとても楽しめています。

問題意識は持てるけれど、プレイヤーにはなれないからね。
そんなポテンシャルない。だから眺めるだけ。

うん、趣味悪い私!!!!

「普通」はこんなことに没頭しないほうが良いのですが、さてさて、この皮肉がどれぐらい通じるかも定かじゃない昨今でございますね。いよっ。

ということでね…これで猫暮のゴーストライター疑惑は晴れたんじゃないだろうか!?

同じ人だよ!
中身は変わってないよ!
新鮮だよ!(?)

でも、こういう文章って読まれるため、というより、自分の為に書いてる感あって楽しい。
誰かと話してる時間もいいけど、書くことも同じくらい大切。
相互に深めていけたらイイネ!


おまけ

チョコプラのネタじゃあアレなので、おひとつライトな人文系を貼っときますね!
(にしたって、財津チャンネルの再現度やら解像度に笑ってしまうけどw)

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