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混ざり合うミルクとコーヒーに「和をもって貴しとなす」みを感じたお話。
昼下がりの喫茶店。
食後、煎りたてのコーヒーがテーブルに届いた時のことです。
白い新円のソーサラーの上に、藍色を基調としたアンティークなカップ。それから、適度な量そそがれているブラウンまじりの黒いコーヒー。水面から白めいた蒸気が、芳醇な香りと共にふつふつ立ち昇っている。
一瞬、目の前にいるお茶会相手との会話も忘れて、シュガースティック、脇に置いてあるこぢんまりした容器に入ったミルクを、順番に手に取る。ひどく甘党の私は、ためらいもなく黒色の湖にすべて流し込もうとする。
まずは棒状の入れ物の封を切って傾け、サラサラと流し込む。白糖の砂粒がみるみると黒に吸い込まれて、カップの底にたどり着くことなく同化していく。
続けてミルクも同じ動作で流し込む。
こちらは、シュガースティックとは違う。
黒の水面の上に注いだそばからミルクの水たまりが生成される。いったん水面で白がとどまって、わずかな沈殿、それと水切りの石の最後みたいな波紋が中央から外側へ、ちょっとづつ伝搬していく。
黒と白は決して互いに混ざり合わず、ぼやけた境界線を残したままその両方がきっちりと区分けされて、体裁を保つ。
ミルクを流し込んで約10秒、コーヒーとミルクの両方は、不安定な環境ながらも、確かな形のまま互いに共存している。甘党と、苦党(って言葉はあるのかな…?)が、明確に好き嫌いを主張できる、ある意味、多様的でパラレルな時間帯。
でも、私が意気揚々とマドラーを片手に取った瞬間、事態は急変する。
液体のド中心にマドラーを突き立てて、くるくると回してやると、まるで鳴門大橋の海流みたいにうずを描いて境界があいまいになっていく。
二つの不可侵だったはずの平和が、一定の斑紋を残しながら、徐々に徐々に互いが互いを浸食していく。領域が、ぐるぐると中央に向かって吸い込まれて、黒白の縞模様を描きながら、こまごまと裁断されていく。
私は、この黒と白でできたうずしおを、ジッと凝視しているつもりでした。片時も目を離さずに、事の顛末を見届けてやろうと、ずっとにらみつけていたのです。
でも、本当に、いつのまにやらとしか表現できないタイミングで、黒と白のコントラストが美しかった湖面は、あっというまにチョコレートっぽいブラウン一色になってしまったのです。
ふたつを隔てていたはずの境界線も、その輪郭がぼやけて広がったのか、それとも互いに浸食されたジグザグの連続でかき消されてしまったのか、どちらとも見当のつかないタイミングで、まったいらに均一化されてしまっていました。
目を離したつもりもないのです。瞬きだってそんな頻繁にしてなかったのに、本当に、まったくわからないまま、柔らかいブラウニーに染まっちゃってたのです。
このブラウニー協定が、コーヒーさんの合意があってのことなのか、それともミルクさん側から強引に結ばれてしまったのか、さっぱりわかりません。湖面のコントラストは、まるで最初からなかったみたいにどこかへ旅立ってしまっていました。
うずしおの中で、激しく縄張り争いをしていたように見えた両者は、たくさんの地域戦を起こしたまま、どちらが勝つでもなく、負けるでもなく、ただただ一つに統合されて、統合された瞬間なんて微塵も感じる暇もなく、気付けばまったく別の何かに置き代わっていたのでした。
カップの中に残った見慣れぬ一面のブラウニーは、激しいやり取りを繰り返していた白黒のコントラスト時代より、ずっと、ずっと柔和な顔立ちをしているように見えました。
そして、ぼーっと、コーヒーの湖面に気取られている時に、
「ちょっと、猫暮さん、大丈夫?」
の一言で、とたんにワッと現実の風景が私の元へと舞い戻ってきました。いや、もしかしたら、私自身がコーヒーの大海原から脱出して、やっと現実に舞い戻ってきた、といったほうが正しいのかもわかりません。
とにかく、ごくごく刹那的なコーヒートリップの日帰り旅行は、ブラウニーの海域を残したまま、それっきり進展もなく終わったのです。時間にしてみれば、1分間もありません。せいぜい30秒程度。一炊の夢よりも、ずっとずっと短い、旅というのもおこがましい体感だったのです。
海外の方に「日本の良さは?」と聞くと、多くは和の心だったり、禅の心について触れるような答えが返ってくるそうです。
「こっちの立場とか年齢とか国籍で区別しないで、誰にも平等に接してくれる」
「とにかく歓迎してくれる。オリンピック選手村から一歩でてみれば、どこもかしこもウェルカムって感じで驚いた」
「最初は、知りもしない相手にずっと笑みを浮かべている日本人が不気味だった。でも、だんだんとそれが日本共通の文化だと分かると、居心地がよくなってきた」
相対性理論で有名なアルバート・アインシュタインは、よくよく国外の講演会に招かれることが多かったそうです。彼にはもう一つ有名なエピソードがあって、国外の文化についてすさまじい皮肉や批評を書くことでも名を馳せていました。
数々の国が辛辣な批評を受ける中、日本を訪問した際には、文化の根源にある「おもてなしの心」に心を打たれ、日本の文化について絶賛した手記を遺しているそうです。
アインシュタインが賞賛したこの文化を、ぶっきらぼうに一言で説明するなら「和を以て貴しとなす」が、しっくりくるように思うのです。
やけに長い前説になってしまったコーヒーとミルクがまざりあう謎のエッセイは、この「和を以て貴しとなす」みをここから見出したので、書き綴った文章だったりします。もちろん、創作じゃなく私の実体験です。喫茶店でコーヒー飲んでるときに、ふと頭に浮かんだお話です。
境界線がぼやーっと広がって、いつのまにか一つになっていく。激しい領地の取り合いが起こっているようにみえるけれど、激しい争いや戦火の種が立ち上る前に(見ている人が観測できないタイミングで)一体になってしまう。
元々、和を以て貴しとなすは、聖徳太子の発令した十七条憲法の、第一条を冠する文章の中で使われています。
一に曰く、和(やわらぎ)を以て貴しと為し、忤(さか)ふること無きを宗とせよ。人皆党(たむら)有り、また達(さと)れる者は少なし。或いは君父(くんぷ)に順(したがわ)ず、乍(また)隣里(りんり)に違う。然れども、上(かみ)和(やわら)ぎ下(しも)睦(むつ)びて、事を論(あげつら)うに諧(かな)うときは、すなわち事理おのずから通ず。何事か成らざらん。
日本人の文化の根底にある和の心は、日本最古の憲法である十七条憲法の第一条そのものの遺伝子がルーツの一つに思えるのです。ここでいう「遺伝子」は、生殖行為で受け継がれていくような生態的な遺伝子ではなく、いうなれば聖徳太子の遺した「文化の遺伝子」が深く関わっているんだろうなぁ、と直感的に察したのです。
そう考えると、未だに私たちは忠実にその教えを守ろうとしていて、合理とか打算とか、計算があってやっているわけではない気がするのです。親から子に愛情を託していくような、そんな文化の継承を尊重する遺伝子が、私たちの身体には深く染みついていて、絶やしてはならない、なくしてはならないと、必死の抵抗を試みている。そんな健気さを感じるのです。ちょっと甲斐甲斐しい。
これが日本の誇るべきおもてなしの精神であり、胸を張れる文化の一つであると、私は心から思うのです。というか、私が日本人であるからには、この遺伝子に焼きついた「和を以て貴しとなす」スタイルからは、逃れられないみたいな宿命すらも感じていたりもします。矜持とか、信念とか、そういう意思すらも超えた無意識にしっかり焼きついちゃってる、的なニュアンスです。
もしかしたら、プライドっていうのも、案外似たようなものかもしれません。プライド自体が、自分を前を押してくれる原動力にもなれば、おいそれと反対方向には走らせないための鎖にもなる。混然一体。
和を以て貴しとなせば、自制心みたいのが自分にブレーキをかけちゃってくれるのかもしれません。それが、悩みの元になったり、あるいは解決策になったり、良し悪しの判断がとっても難しいものです。表裏一体。
でも、間違いなく日本人の文化の遺伝子には「秘める」ことを重きをおく要素が宿っています。『武士は食わねど高楊枝』ってことわざが示すように、見栄や建前が、本音よりもずっとずっと尊重されてきた時代が長いのです。
■武士は食わねど高楊枝
武士が貧しい境遇にあってお腹がすいていても、まるでお腹がいっぱいのように楊枝を高々とくわえて見せておかなければいけない、といった武士の清貧や高潔さをあらわしています。現代では気位が高いことや、やせ我慢をすることに用いられることがあります。
…え、めっちゃ趣味から引用するじゃん猫暮…ってツッコミは重々承知…!許して!
戦後の近代に比べてみれば、戦国時代から江戸幕末までの時代は少なく見積もっても5倍以上の歴史と変遷があります。それこそ、6世紀ごろの聖徳太子の時代からさかのぼってみれば、5倍どころじゃじゃすみません。想像を絶するような長い期間をかけて「和を以て貴し…」の遺伝子は熟成しきっているのです。
そんな歴史と地続きである現代では、技術の発展や、多様性の受容がウンと進み、まるで「我慢をしないこと」を肯定できる時代になったように思えます。
しかし、この多様化の特性っていうのは、もしかしたらそれ自体が日本人の中に継承されてきた「文化の遺伝子」に反してしまう要素があるようにも思えるのです。
「我慢しない」とは、それぞれが自己責任的に動くと言うこと。
したいこと、やりたいこと、欲望をかくさずに、個人としての原動力をもとに突き進んでいくこと。
さっきのコーヒーの例えでいえば、
「コーヒーのままでいること」
「ミルクのままでいること」
を、あえて選択し肯定することと、そっくりにも思うのです。
さらにいえば、コーヒーではなく、油になるということ。
ミルクではなく、真水になるということ。
…とすら言い換えられます。
そうなれば、両者のコントラストが崩れることはなく、かつ境界線は時間が経てばたつほどにくっきり湖面に焼きついていく。ぼやけることなく、両者の領域に侵入しようとするけれど、斥力が働いているみたいにはじき返しては戻り、はじき返しては戻る、を繰り返す。
まさに、水と油です。
あるいは、コーヒーの大海のただなかにポツンと取り残されたミルクのように、逆にミルクの大海のただなかにポツンと取り残されたコーヒーのように、孤立無援な状態で心を病んでしまう誰かがたくさんあらわれてしまうのではないか、という不安すらも心に浮かんでくるのです。
もしも、喫茶店で私がマドラーを使って混ぜたように、コーヒーもミルクもいい塩梅でまざってくれるのならば、まだ救いはある気がします。コーヒーの渋みも、ミルクの甘味も、「和を以て貴しとなす」。
そんな感じで、ぐるぐるとかき混ぜて、どちらか一方にこだわることなく、偏ることなく、受容して、秘めることが「徳」のようにも感じる。そうして遵守した徳は、秘めたことで個人の中に発生しちゃったモヤっとボール、これすらも柔らかく解きほぐしてしまう、そんな気持ちよさにもつながる気がするのです。利他的な心をもつことが幸せへの近道、なんていいますしね。(これはちょっとカントの哲学っぽいかも?)
こうして、コーヒーとミルクを、まるでカップの上からまるっと俯瞰するように見た時、「グローバルで進みつつある多様性を重んじる風潮」そして「和を以て貴しとなす日本人の文化的遺伝子」。この二大勢力が、湖面に広がっているとします。
この相反する二つの理念を、喫茶店のコーヒーとミルクみたいに、やわらかく、自然に、美しく、ひとつのブラウニー色に混ぜ合わせるためには、どんな要素が必要なんだろう?って、そんな問題定義に繋げることができる気がするのです。
おそらく、このまま二元論的な展開で考えていっても、ずっと「水」と「油」の関係のままでしょう。あるいは、国際的という大義名分をもったグローバリズム派閥に、代々日本の中で引き継がれてきた「和を以て貴しとなす」遺伝子がすっかり消されてしまうような、世界線すらも想像できちゃうのです。
なんか、それって悲しい気がします…。どうにか、このおもてなし文化と、多様的な文化が、コーヒーから見ても、ミルクから見ても、気持ちよく収束するような混ざり方があったら、とっても幸せなことだなって。少なくとも、私はそんなことを考えたり、感じたりしていました。
このふたつが混ざり合った、ブラウニー色の世界って、いったいどんな景色なんだろうなって。ふと、そんなことが気になった猫暮でございました。
…なんのはなしですか?
(ひさしぶりに使った!!!!!)
■後書き
猫暮は豆から挽いたストレートのコーヒーも好きですし、甘党でもあるので砂糖ミルクもりもりのMAXコーヒーみたいなタイプも大歓迎です。その日の気分次第であっさり甘党離反したり。てへ。
どっちも受容する心を鍛える、なんていったら大げさかもしれませんけど、食わず嫌いだけはしないように気を付けたいな~って心から思ったり。
そんなこんなで、今日もコーヒーがおいしかったです!おわり!