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道をただ一人で歩かされる、という事。


今この記事を開いたあなたは、このタイトルをどう解釈しただろうか。


”道” とは ”ビジネスキャリア” のことだろうか。
”一人で歩く”というのは、堅実なサラリーマン生活から脱して ”独立した” ということの比喩だろうか?


いや


”道” とは、配偶者と歩む ”人生そのもの” を指しているのだろうか?
”一人で歩く”というのは、つまり”離婚”や”破局”または”別居”など、道を違えてしまったことを比喩しているのだろうか。


いや

”道”とは、”社会のルール”のことを指すのだろうか。
”一人で歩く”というのは社会不適合者のレッテルを貼られ、周囲からの援助も得られず、どうしようもなく”孤独な状態”の例えなのだろうか。



読み手によってこのタイトルは、さまざまに形を変える。


今まさに、この記事を開いたあなたはどんな印象を受けただろうか?

どんな記事であることを期待しただろうか?

もしかしたら、

「ねぇ聞いて。この前マッチングした男まじでヤバかったんだけど。デート帰り、そいつド深夜の暗い"道"でさ、「またね!」とか言ってさっさと帰っちゃってさ。私のこと送りもしないで夜道を"一人で歩かされた"んだけど!信じられなくない?」


という体験をしたから、慰めてほしい、なんて読み手様もいるかもしれない


もしくは、当たり障りのない日常会話に嫌気がさして、

何か哲学的な問答だろうか?と言論を求めてやってきた人もいるかもしれない。


これ以外にも、私の想像もつかない”道”の解釈をした方もいるかもしれない。

この普遍的なタイトルには、無限の可能性が広がっているのだ。

繰り返すが、この記事のタイトルは、読み手によってさまざまに形を変える。




正直、私自身が思い描いた意図があるにはある。

具体的には
「私が今日見た夢の話で、一人で道を歩かされてて、こういうことがあって…、そこからこんな話がしたいんだ」
と、筋道たてて話すことはできる。


しかし、私の夢の話は、どうでもよいのだ。


私自身が自分の夢の話をどうでもよいと思っているのだから、他の読者様からすれば、もっとどうでも良い事だ。


私が試したいこと、聞きたいことは、

読み手様がどういう印象でこの記事を開いたのか

ということだ。



「わたしが〇〇だったんだ。」ということを主張したいわけじゃなく、記事を開いたあなた自身の真意を推し量りたい。読み手の意思を尊重したい。


だから今回の記事は、文章やブログではなく、

実験という表現が正しいかもしれない。






このタイトルの解釈はまるで魔法のように姿を変え続ける。

だが、確実なことがある。


何かしらの潜在的なニーズに対して

誰もが ”課題” を抱え ”その答え” を探しに来ているということだ。


◉ 私の悩みに対し、何か答えを持っているかもしれない。
◉ 少しは今の苦痛を和らげることができるかもしれない。
◉ 同じような境遇の人に励みをもらえるかもしれない。
◉ 新しい解釈をもらえるかもしれない。
◉ 退屈な時間を潰せるかもしれない。


タイトルを読み、自身が一番納得できる形に解釈する。


自身の課題を"道"に当てはめ、”一人で歩かされる”という問題に定義し直す。


前回の記事で少し触れた内容だが
今この瞬間にあなたは自分でタイトルを、リアルタイムに編集したのだ。



この文章は私が書いているものではあるが、

解釈して編集をしているのは、読み手であるあなた自身なのだ。



そして、解釈した上で、記事を読み進めて”答え合わせ”を行う。
解釈と違っていたなら、早々に”戻る”を押して、また別のコンテンツに向かっていく。


この一連の行動は、

確証バイアス

と呼ばれる認知傾向のもっともわかりやすい実例だと、私は思う。

確証バイアスとは、人が自分の意見や信念に合致する情報を選択的に取り入れ、合致しない情報を無視しがちな傾向のことです。
たとえば、政治的な立場がある人がニュースを読む時、自分の政見に合う記事を「事実」として重視し、合わない記事は「偏向報道」などと切り捨ててしまうことがあります。

Claude2


では仮に私がすべての解釈を網羅できたとする。


そして、全てのニーズに答えられる万能薬的な回答を持っているのだとしたら、惜しみなく提供しているだろう。


しかし、現実的には時間も経験も圧倒的に足りない。

すべてのニーズに答えるなど、万物の神さまでも無い限り不可能だ。


困っている人に手を差し伸べたいのは本当だ。

もしも私が文章を書くことで誰かを救えるのならば、それに勝る喜びはそうそう無い。

でも慈悲深さだけでは、どうしたって人間は神様にはなれない。


もしかしたら

「期待外れだった」

という言葉が、かわりに投げつけれられるかもしれない。

だが、それでもいい。


きっとその言葉の意味する

「期待」


とは何かを考えることができるからだ。

それこそが「世のニーズ」そのものなのだ。





今回の実験的文章をやってみて、確実に言えることがもうひとつある。

このタイトルと記事は、読み手そのものを映し出す鏡になる。


ということだろう。



今、この記事を開いた読み手様は、


絶賛独立営業中で試行錯誤しているかもしれない。

結婚生活の破局を迎えて、寂しさに苛まれているかもしれない。

社会の荒波にもまれて、絶望の真っ只中かもしれない。

ダメ男に煮え湯を飲まされて、怒っているかもしれない。

日常会話に嫌気がさして、議論の場を渇望しているかもしれない。

ほか…etc…etc…

どんな状況や感想でもかまいません。

「タイトルに惹かれ、この記事を開いた」という、あなたの選択そのものが、あなたの期待と状況を事細かに映し出している。


この普遍的なタイトルは、それを表層化できる魔法でもある。


道をただ一人で歩かされる、という事。



あなたの課題、そして求める答えは、選択から見えた確証バイアスの中にこそある。

時に真実でないことを、まったく見当違いの嘘に感じてしまうかもしれない。


「”道”ってそういう意味じゃないんか?!」

「”一人”は悪いことじゃない。一人は素晴らしい!」

「ビジネスについてヒントになるかと思ったら、そうでもないか」
「離婚の話じゃないんか」etc…etc…



自分の思っていた記事と違った。と感じたならば、

その時は、期待外れだと、思ってもらって良い。


そうすれば、期待外れの”期待”とは何かについて再考できる。


この記事は鏡であるが、鏡に誰かを助けられる力があるかもわからない。

だが、映し出しているのは、まさにあなたにとっての真実だ。

この鏡に移った”あなた自身の期待は何か”

そのただ一点に希望を見出してほしい。



各個人の悩みをうかがい知ることは、私には叶いません。

でも、考え、苦悩し、それでも抗い生き抜こうとする人間のレジリエンス(抵抗力)に共感し、見知らぬ誰かを応援することはできる。


その期待が、成就すること。

またはその期待がどこか自分らしさに欠けていて、

本当に自分が必要としている望みを導きだせるなら、

それは鏡として最高の役割を果たした、といってもよさそうですね。


見知らぬ誰かへの応援
というよりは、

ただただ祈る

という行為に近いかもしれません。


祈りは、現代ではすっかり力を失ってしまった気がします。

ですが、言霊という言葉があるように、この祈りの気持ちに嘘偽りはない。


どうか、どうか、良き”道”を歩めますよう。


その”一人で道を歩く”ということが、あなたを癒やす旅路であらんことを。


祈りは平等で、だれもが胸の前で十字を切ってよいはず。

これを読んでいただいた、あなたの平穏を願って。



あとがき。

私がこの文章を書くにあたって刺激を受けたnoter様がおりました。

言語とは、歴史と共に育ってきた概念であり、日本語には、日本の歴史がどうしようもなく付随している。言語を使う限り、歴史という枷から逃れる術はない。という、興味深い記事で、また世界の見え方がガラリと変わった気がします。

完全なオリジナルの主観は、歴史や過去の成功事例などが付随してしまっている言語では補完できず、どうしても保守的思想に影響を及ぼしてしまう。どうあっても不完全にしかならない人間の在り方という観点では、プラトンのイデア論に通ずるものがあるな、と直感的に感じました。

言語の限界という話でいうと、私が昨日書いた記事で音楽と踊りについて触れたのですが、そこにつながる話もあるなと。前回の記事を再解釈すると、音楽と踊り、そういった言語外のコミュニケーションこそ何よりも雄弁で、最もイデア論に則した行動であり、それらの事象の前には言語は沈黙せざるおえない。といった感じでしょうか。

言霊、という言葉があります。これまで曖昧な概念ではありましたが、きっと文明の発展を願い、民草の幸せを願い、国の行末を担ってきた歴史上の誰かの魂が、我々の言語そのものの中に宿っているかもしれませんね。

では今日はこのへんで。

よければ、率直に思った感想をコメントなどに頂けると大変うれしく思います!

ここまで読んでくださり、本当にありがとうございました!

by ねこぐらしのべんきょうぐらし



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