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止まったら死ぬ日記を書こう

夕暮れ時の踏切に感傷を覚えた。

光の線が、まだ夕方とこれから夜になる部分を如実に分けていて、建物の壁に移る。いつか中学校でならったような直角三角形の影になっていて、それがどうにもキレイで心を奪われた。

でも、紙の上に無機質にプリントアウトされた正確無比なそれとはまるで違って、壁の材質による微妙な凹凸や、細かな堆積物のわずかな影、それから色合いによって三原色よろしく、おかしな色同士でまじりあったピュアでないリサイクル紙みたいな三角形に、どこか唯一無二を感じた。

ああ、きっとこの街のこの踏切の、この隣接した建屋だけの三角形なのだろう。ほかのどこでも見られない。ここにしかない天然と人工物がおりなしたハーモニーの実態なんだろうな。

とかそんな妄想に耽っているとカンコンカンコンと踏切がなりだして遮断機がのっそりと下りてきてしまった。せめて踏切を渡ってから感傷に浸ればよかったのだけど、思わず人垣の中を立ち止まって振り向いた私にはそこまで思案する余裕もなかった。たまに上り電車と下り電車がイイ感じにハーモニーを織りなしてしまい、開かずの踏切になるこの場所で、傍から見れば時間の無駄だと思える行動を起こしてしまう。

嫌な予感はした。案の定、ノボリ、クダリ、ノボリと三回の電車通過を待つ羽目になってしまった。偶然この時間を引き当てた自分の不運を呪いつつも、目の端には相変わらず、くっきりとした直角三角形がぽやぽやと浮かんでいた。

たまに人が建屋の前を通ると、ちょうど映画館の銀幕を横切って通過する人の影みたいな調子で直角三角形がカウントできないほどのn角形にカタチを一瞬変える。でも通り過ぎてしまえば、直角三角形は元のカタチに戻っていった。

いや、多分まんま元の形っていうこともないのだろうと思う。日は確実に沈んでいる。ゆっくりすぎて、一見しただけでは分からないし、時間をかけて徐々に絵柄が変わっていく昔のクイズ番組でよくあったアハ体験が投射されているわけでもない。でも、やがて日は沈んでいくんだから、直角三角形はすこしづつ変化していくはずなんだ。

変化がわずかすぎて、ちょっと待ってみなければ分からない。ちょっと待っても、微妙な差異しかないし、人間の記憶力もあいまいなものだから、「直角三角形」って概念で覚えてしまっている私には、やっぱりその変化は感じ取れなかった。唯一、人が横切った時の激動だけは記憶している。

なんとなく、諸行無常の観念につなげて考えてみる自分がいた。
人と交われば朱、みたいなことわざがあったっけな。細かくは覚えていないし、よく意味も理解できていない。でも、交わった朱は一時の大きな変化を生んだのち、のど元過ぎ去れば些細な変化に変わっていくのかもしれない。人が通れば、カタチを大きく変えた直角三角形のように、在り方も呼び方も変える。

でも、元の形は塗りつぶされた影の下でしっかりと生きている。お日様から遮断されたその瞬間になくなるわけじゃないけれど、人が退かなければ、いつまでもそのまま影の下でジッとするはめになる。

生きているのに死んでいる。直角三角形は今どうなっているんだろう。きっとたくさんの人で囲んでしまえば、以前の直角三角形の形を知っている者しか元の形は思い出せなくなってしまうのだと思う。満州の話も、空襲の体験談も、革命前夜のレ・ミゼラブルも、観測者がいなければ紙とデータにしか残らなくなる。過去は思い出せなくなる。塗りつぶされた形に注目してしまい、塗りつぶされる以前の形を知っている当人たちの影はそっくりと消え去ってしまうんだろうな、

とか意味わからんことを考えていると、喧しかったはずのカンコンカンコン音がすっかりと消えて、遮断機が亀みたいな速度で音もたてずに上がっていった。

日の光で映し出された直角三角形にさよならを告げて、帰路につく。
どこか、名残惜しかった。

お日様は人間たちとそう変わらない水平な高さで顔を出している。建物とビルディングに覆われたここからだと水平線なんてハイカラなものは用意できないから、凸凹としたホライゾンをバックに沈みゆくお日様を見送るしかない。

あれ、日が沈むのって西だっけ、東だっけ。そんな一般常識もバカボンのパパにゆがめられてしまうから、バカボンのパパの影響力は恐ろしいと思う。というか以前、母がそればっかり歌うもんだから変な教育が施されてしまったじゃないかどうしてくれる。でも、そう考えると太陽の在り方も、私次第だし、母次第だし、バカボンノパパ次第なのだ。

太陽は偉大だ、って共通見解みたいに人々が訴えているさまはよく聞く。でもその太陽が映し出した直角三角形、つまり私が踏切で立ち往生しているときにガン見していた一時のなんの価値ももたない影に、一寸の価値もない、っていうのは話が違うんじゃないかな、とか思っていた。

だって、その影は太陽があるから生まれている。太陽があるから夕日にノスタルジーを見出せるし、真夏の空の下にまばらな避暑地を作り出せるのも太陽とその影があるからだ。人類史上初の日時計も影を使うし、星詠みの占星術だって元をただせば遥かなる光源の照り返し。

私がぼーっと三角形に想いを馳せていても、何にもならないけれど、試案を巡らして新しい疑問を作り出すことだってできる。まるで子供のような大人。大人はもの知り顔でわかった気になるけれど、実際は子どもを置いてまっすぐと進んでいくものなのだと思う。群衆の中立ち止まって、遮断機に阻まれた変な人間を見届ける彼らの視線の先には大人のフリをした猫暮がいる。身体ばかり相応に育ってしまった大人が、子供を内在させている。実際、子供になりたいけれど、社会性の檻が無意識に私に大人的な態度を取らせている気が舌。猫暮のようなアンポンタンにも、大人たちは相応の態度を求めるのだろうなぁと、漠然と思った。

偏見というコレクションは、簡単には打ち払えない。その難しさを帰路につきながらもどうするかウンウンと悩んでいた。

帰りのスーパーで、急に飲み物を買いたくなった。常用している牛乳が切れたとか、お茶のパックがなくなったとかそういうのじゃない。猫暮は食べることよりも飲むことのほうが好きだ。かなり痩せの体形も、その食指に関連するかもしれないけど、とにかく飲み物が飲みたかった。

野菜生活の1Lパックは必須だ。あんまり生野菜を取らない猫暮はやらないよりはマシと野菜ジュースをなにかしら飲用している。あとはパイナップル味の飲むヨーグルド。これもいい。今ちょうど特売ですごく安い値段でかえる。問答無用で買いです。

あとは、ストレートティー。紙パックで無糖。Σ(・□・;)の100円を切っているから、これもカゴに放り込む。これぐらいになると荷重になる。でもカートを引くっていう恥ずかしい真似はできない。なんとなく、店内カートを利用してイイのは家族連れとか非力な奥さんだけだと思ったりしている。私のようなものが生意気にカートをひくなんてそんなそんな。。。逆説的に家族が免罪府になってしまうマリオならぬスーパーカーと論争に火がつきそうになるところを、頑張って鎮火しながらさらなる飲み物を物色する。

アロマ香るコーヒー。前の記事でちらっと紹介したけれど、これも安価でお手軽。冷蔵庫に一本は忍ばせておきたい。

昔、祖父母を介護していたころは焙煎豆をコーヒーメーカーに通してポタポタと抽出していたけれど、正直味音痴な猫暮には酸味が強いばっかりであんまり得意じゃなかった。祖父はそんなコーヒーをありがたそうに飲んでいた。金遣いの荒かった祖父でも、費やしたお金に比例して肥えた舌を獲得できたのかもしれない。そんな祖父と同じコーヒーを毎日のように飲みながら、まったく子ども舌のままの猫暮は一体どういう了見なのだろうかと、疑問に思わなくもない。とにかく、私には身の丈にあったやっすいコーヒーが馴染んだ。いくらのんでも飽きないし、本格的に作ったコーヒーも、やっすい紙パックのコーヒーも、おんなじくらいにおいしくて幸せなのだ。きっとたゆまぬ企業努力のお陰かもしれない。

そんな些細な幸せの提供者に感謝しながら、アロマのコーヒーをカゴに入れる。二の腕にかかる重圧がさらに増した。やばい血流止まるって!でもまだだ。わたしにはカートを使っていい免罪符がないからとにかく耐えた。耐えながらブドウ果実入りの250グラムゼリーがとんでもない格安で売っていたから思わずカゴに放り込む。

ここまでで総重量4.25kgが私の片腕にかかっていることになる。ちょっとしたダンベルだ。まぁ、何の変哲もないスーパーで二の腕の余計な脂肪まで落とせちゃうなんて、なんてお得なのかしらマイケル。実際には麻縄で締めたような赤い筋が私の二の腕につくばかりで筋肉とかそういうのが鍛えれられる様子は一ミリたりともなかった。いたい。重い。ねぇ、カート使っていい…??

ひぃひぃとビニールに激重な商品どもを詰めまくってから、またもや帰路につく。そうだ、帰りに銀行でいくらか振り込みをしなきゃいけないんだった。

え、このくっそ重い荷物を持ちながら、銀行に?
とんでもない。私の二の腕がなくなっちゃう。さっきの直角三角形の話じゃないけれど、この重すぎる袋に私の動機がすっかり覆われて形を失ってしまった。「そうだ、銀行に行こう」とどこぞの観光案内が提示した広告の如く私の脳内に張り巡らされていたビラが、飲み物の総重量にほだされて全部剥されてしまっていた。

早い話が「重すぎて銀行とか用事とかどうでもよくなりました。一刻も早く帰りたい!」マインドである。

でも、一つ良かったことがある。

きっとこのクッソ思いを袋をもって遮断機付近を通っていたならば、私が感慨深げに見つめていた直角三角形の存在にも、きっと気づかなかったと思う。

なんだか、でっかい話に広げてしまうけど、人生にも同じような場面が多々あるようなきがする。

自分にとって本当に大事な光景が広がっていたとしても、たとえば仕事でとんでもないプレッシャーを受けていたり、身近な人と世紀の大喧嘩をしてしまってそれどころじゃなかったり、要らない人間関係のトラブルで悩まされてしまったり、そんな状況ではどんな絶景も淀むし、くすむ。下手すれば、目にすら入らないことだって。

身を軽くしておくことで、本当のゆとりって生まれるものなのかもしれない。そんなささやかな気づきを胸に、今日も一日生きれたなぁって実感する猫暮であった。

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