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本来性ってなんじゃらほい|文章デトックス

本来性、って言葉に違和感を感じる。

違和感を感じるって言葉に違和感を感じるように、「本来の自分、ってなんじゃらほい」と途方にくれてたので、今日も今日とて日記を称し考えに耽るのである。

おいSNSの使い方下手すぎだろ猫暮よ。もうちょいためになる書き出しで書きなさいよ私よ。でも構いません!だってこういう自分勝手な記事のほうが面白いから!


半年以上前、猫暮がメンヘラ拗らせて病んでた時期、友達にダルがらみしちゃってたコトがあったんです。いや、今思えばメンヘラというほどでもないんだけど、まあちょっと情緒不安定だったなぁと。その時の内容をざっくり要約すると下記のとおり。

「アンタの彼氏にこの前こんなことされたんだけど、彼ちょっと○○なとこあるよね。あれはナイわ。正直どうかと思った」

的な絡みである。

うっわー。我ながらうっわー、である。

なにこの漫画とか小説なら速攻で悪女認定されてもおかしくないくらいのヒールっぷり。完全モブ側の悪役令嬢ムーブ。聞かされていた彼女もさぞかし不愉快な思いをしただろう。でも、完全な無策でこんな酷い言い草をしたわけじゃない。ある程度愚痴を言えるシチュエーションを作った上での暴露。その人と彼氏さんとの関係もある程度考慮に入れた上での愚行。いわゆる「ここだけの話」である。

だけどその時の私はマジで許せねぇ、〇す、と憤慨していたし、今でもあのキレ方は間違ってなかったと思っている。

ただ、話の本筋はここじゃない。この「人の彼氏の愚痴を彼女さん本人に話す」事件からしばらく経ったころ、その子から改めてこんなことを言われた。

「え、あんときの猫暮マジヤバかったよ。結構おかしくなってた。最近は元気そうだよね。よかった~。”本来”そういう人じゃないもんね」

その時、おちゃらけつつも真面目に反省して謝罪の言葉を投げかけた。

だけど、この時の”本来”って言葉がずーーーーーーーーーーっと心の中で引っ掛かっていたのだ。言われた時は十中八九私が悪いのもあって飲み込んだけれど、あの、全然消化できてないんです。

なんか胃の入口あたりにプランプランと釣り下がっているんです。
乳幼児が呑み込んじゃったボタン電池みたいに胃壁にダイレクトアタックしてるわけじゃないけど、これ以降「本来ってなんじゃらほい」っていうこの記事のタイトルをそのまま型抜いた疑問がこびりついて離れてない。いや、意識下には抑え込んでいたけど、同じような文言が登場するたびにちょびっとばかり反応しちゃう。防犯対策の一環で設置する人感センターばりに警笛を鳴っちゃう。え、ナニコレ気持ち悪い。


猫暮的には「本来の自分」なんてものは最初からないし、そこに戻るって感覚も希薄。さらに言うと、なんだか目指すべきゴールみたいな扱いとして「本来」って言葉を使うのもおかしな話だと思ってしまう。

始発点でもなく、到達点でもない。
本来って言葉自体が曖昧で、客観的すぎる言葉なのに、何かそこに「本来の本来性」みたいなの籠ってる感じがモヤっとしてしまう。

「人は一瞬たりとも同じ存在ではない。常に変化する生き物」

っていうのは仏学あたりで死ぬほど口酸っぱく言われている文脈だし、幅広く浸透している考え方だと猫暮自身も(勝手に)思っている。

「え、それって心構えみたいな観念的な話であって現実の話じゃないでしょ?」って疑問もあるかもしれないけれど、現実の話としても人間の血液は約120日間で総入れ替えに近しい状況になる。胃の粘膜なら3日ごとに総入れ替え。腸の微細毛ならたった1日。それくらい人体の細胞には自己破壊と増殖をプログラムされてて毎日過酷な労働環境(?)強いられてる。

ってなると、テセウスの船問題よろしく、昨日の私と今日の私をつなぎとめる確かなもの、今回で言えば「本来的」なものっていうのは一体何を指すんだい?と疑問を呈したくなってしまう。だってその細胞は必要不必要に関わらず必ず消失するものなのだよ、と。

模範解答的には「経験」や「思考」というんだろうけれど、積み重なった経験が織りなす事物といえば、それは他者から読解可能な「物語」でしかない。

観測者が独自の解釈で物語を読み解き、それを「本来のあなた」と断定しているわけだ。

三日前のあたりの記事の中でも触れたけど、物語には「解釈」というプロセスが挟まる。

入力を推し量るためには、出力から逆算するほか術がない。逆算まで道筋には独自の翻訳言語が挟まっていて、「解釈」という手段を使う他なくなる。
(中略)
「解釈」によって逆算し、独自の体系を頭の中で形作り、そして再び出力されるんだと思う。そうして再出力されたものには、オリジナルとは別の入力や演算装置が介入しているから、文脈の整合性は深淵に消え去る。

記事から一部抜粋。
自己引用、ってちょっと恥ずかしいよね。


牛乳のままじゃお腹を壊しちゃう人にとって、流動性のある物語はそのまま嚥下できない。チーズみたいに熟成やら発酵やらさせられた後に咀嚼される必要がある。だから固形化させる。結果、元来性や本来性の要素は不可逆性の海底に沈む。

分かりやすく、牛乳はこの際「理解できないモノ」って言葉に置き換えてみてもいい。チーズは、いわゆる「常識」に置換しよう。


そうしてオリジナルの「観測者にただ理解できないもの」をみて

「ほら!これが本来のあなたよ!あなたは本当はチーズなの!牛乳なんかじゃない。あんな乳臭いものなんかじゃないのあなたは!しかもほら!プロセスよ!ナチュラルチーズじゃないの!無加工でそのまま食べたってお腹を壊したりしないわ!加熱だっていらない!あなたは素敵なプロセスチーズなのよ!!!」

って言われてるような感じがする。

…あれ、いつからチーズの話してた私???

とりあえず弁明しておきたいのは、猫暮は牛乳大好きってこと(?!)

プロテインを溶かしてよし、コーンフレークにかけてよし、そのまま飲んでよし。経済的な理由であれだったら安価で供給量の優れた低脂肪乳も大いによし。あの白い液体で今日も私の細胞は再生しまくっている。あと紙パックの調整豆乳に砂糖とゼラチンを入れて冷蔵庫にドン。そのまま1日かけて固めた「豆乳ゼリーin紙パック」も最高においしい。安価でちょこっと手間の欲しいときに重宝するお気軽スイーツである。とは言え、乳糖不耐症の方やカゼインなどのアレルゲン物質に弱い人も世の中にはいるので、せめて配慮だけは欠かしたくないと思う今日この頃である。

…話の脱線具合がコスモである。ミルキーウェイ

元に戻すのである。


とりあえず私はプロセスチーズじゃないとして、、

えっと、何の話だっけ…?

ああそうそう!本来性の話よ!

他者から客体的に観測される私と、主体からみる私自身はおおよそ乖離している。

普段から何を考えて、何を想って生活しているのか、それらを紐解くのは容易じゃない。理由はたくさんあって、人間には無意識の領域があることだとか、他者を見るときに”常識”って名前の色眼鏡を常にかけさせられていることとか、その人なりの美学や感性は生まれた環境や周囲との軋轢の中で形成されていくからとか、理由は大小あれど、因子の糸は人智で及ばないほどに複雑に絡み合っている。

そうして様々なノイズやら変数の絡み合いに寄って変化し、積み重なりによって、私も、それから観測者自身も構成された存在になる。そういう無限にも思える差異がある中で「本来」って言葉は、はてどういう文脈で誕生したんだろうか?と立ち止まってしまう。

思うに、「こうあってほしい」「そうあってほしい」っていう願いが込められているんだと想像できる。

そのままでは自分勝手とも取られかねない願望が客体性を帯びて、耳障りの良いもっともらしい単語として「本来」が頻出するようになったんじゃないかな。

おそらくこの「本来」にはルソーの自然状態論のような解釈は微塵も含まれていないし、ただ性善性というカタチのないものを盲目に信じたいカトリックに近しい文脈でしかない、というような気もしてくる。

だけど、なんか箔をつけたり、説得力を持たせたいがために「本来のあなた」とか「本来の自分」というどうしようもない慣用句が爆誕してしまったんじゃないだろうか。とっても操作的。

ぶっちゃけ、猫暮はそういった文脈で使われる本来性にはまったくピンと来てない。むしろ、人は常に変化していく状態が「本来」だと思っている。だから一瞬一瞬が「本来」。回帰的でもなく帰属的でなくていい。さらにいえば回帰的かつ帰属的な郷愁に浸れているその瞬間ですら本来の一環なんです。え、本来is何。

そういう意味でいうと、過去のタイムライン・現在の時間軸関係なく、どの地点にあった自分も「本来」の自分である、って感じ。だからその中途状態だけを限定的に切り抜いて「こここそが本来だ!」と言わしめるのは、他者や自分の歴史に対してあまりにぶっきらぼうな作法だな~と思っちゃう。史実が対象なら別にいいと思うんだけどね。

え、そう考えると「本来」って言葉、もうあってもなくてもどっちでもよくない??虚無すぎるよこの言葉…!


きっとね、「本来」が文脈の中で使われる瞬間って、対象が自分であっても他人であっても、その時の行動原理や感情のうねりみたいなものを是として認めたくないから本来という言葉に肩を貸してしまうんだと思う。その認識に至った理由は、ミュート文化をただただ礼賛したいがためなんだろうな。

「私が気持ち悪いから、私が不幸になるから、あなたはそういう人になってはいけない」という、遠回しな感じの要請なのです。つまり嫌なもの、汚いものをミュートしたいんだろうなって。

同様な文言が自己否定の文脈で活用できるシチュエーションもある。

「私は本来こういう人じゃないんだ!環境がそうさせた!社会がそうさせた!これは本来の自分なんかじゃない!」っていう思想の始まりや、鬱の兆しこそ、まさに「本来」って言葉の秘めたるバイアスパワーが十全に発揮される瞬間。危険、とても危険。こう考えると「本来」は、自壊する泥の人形を量産しかねない言葉の戦術核なのかもしれない。



個人的には「本来」って言葉の対極にあるのが「自己受容」の概念だと思っている。

私の大好きな岸見式アドラーちゃんの話になっちゃうんだけど「人生の意味は、あなたが自分自身に与えるものだ」って言葉をパニッシュカウンターとして叩き込みたい。

他者からの要請や期待の中でずっと生き続けるのはガチでしんどいとも思う。特に社会と自分が乖離すればするほどに。

荒れている時も、落ち着いている時も、どちらもちゃんと自分自身です。どっちが「本来」でもない。元に戻るの「元」なんてないです。「本来」なんてものに縛られない。ただ風に吹かれ刻々と形の変わるシダレヤナギみたいな精神性を身に着けたいなぁ~と思っちゃう。ほら、病める時も健やかなる時も、だよ。チャペルで誓ったでしょ…!


…よくよく考えてみれば「これが本来のあなたなの」って言葉って説得力皆無だ。たとえば映画とか小説とかでその言葉が鵜呑みにされて状況が好転したケースってあったっけ…?大体悪役が主人公を闇落ちさせるために使われる文言じゃない?スターウォーズでアナキンが暗黒卿に闇落ちした時もシス卿からそんなこと言われてた気がする。

以上のように、すごく極端に考えれば「本来」という言葉には支配的で強迫観念的な側面が強く宿っている。たぶんこのエネルギーは事物以外(つまり人間)に向けてはならない気がしました。

ちょっとこの言葉を人間相手に使うときは注意しよう、と心に決めた猫暮であった。あ、あとでジェダイの教えも復唱しておこう。


それはそれとして、当時彼氏の愚痴しまくっちゃった友達には本当に申し訳ないと思っています…。ごめんなさい。

なんでも今は晴れてフリーの身の上になったとのこと。
おめでとう。
そうです…!
それこそが「本来のあなた」なのよ…!(SE:デデーンッ)

※猫暮のこういう使い方一番ダメです。ぜひ反面教師しましょう🐈




★おまけ★

ジェダイの教え(ジェダイコード)

<原文>
There is no emotion, there is peace.
There is no ignorance, there is knowledge.
There is no passion, there is serenity.
There is no chaos, there is harmony.
There is no death, there is the Force.

<訳文>
感情はなく、平和がある。
無知はなく、知識がある。
熱情はなく、平静がある。
混沌はなく、調和がある。
死はなく、フォースがある。

スターウォーズ『ウーキーペディア』より
染みるわぁ…


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