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四方に伸びる幸福という道の果て、彼岸

幸福になるためには、彼岸にたどり着かねばならない。
複雑性に起因する人生には、おおよそ個人では処理できない多くの要素が絡み合う。

人間関係は箱。箱の中にはこれまた愛情や友情、嫉妬、羨望、ありとあらゆる複雑怪奇に詰め込まている。すべてに平等に想いを割いていては人間はただ不幸を増すばかり。

だからシンプルにする。カンタンにする。物事の原因を突き止めて、真理にかける労力や負担をできるだけ取り除く。

ことさらにカンタンな方法がある。
それは忘れてしまうことだ。

人という字を手に三回なぞるように書き、口元に押しやって飲み込んでしまう。緊張を解くおまじない。あとは観客や観衆をかぼちゃと思い込むとか、深い呼吸に集中するだとか、様々な心頭滅却方法がある。

こういったおまじないは、突飛や余計を考えて本筋を忘れることで効果をもたらす。緊張のメカニズムだとか直接的な要因を覆い隠す巨大な余計を思考の一端に作り出す。すると、ホッとする。急に安寧がもたらされる感覚を覚える人も少なからずいると思う。

そうでもしなければ去ってくれない現実は、どうにも人を幸福から遠ざける強い斥力を持っている気がする。

では、幸福の足にすがりつく不幸の最もたる正体はなんなのだろう。
世間ではそれを「正気」と呼ぶ。
正気であることはどうしてかとんでもなく不幸なのだ。

昭和28年。一般家庭に白黒テレビという箱が普及され、現実はひどく拡張された。進化の変遷はとどまらず、現代では誰しものポケットの中に幻想が収納されるように。
複雑性はますます広まり、幸福の形は変わっている。いや、カタチは変わっていない。ただ巨大になった現実を前にして、私たちは誇張することができなくなってしまった。いうなれば「余計」のハードルが上がったのだと思う。

上がり切ったハードルは多くの空想物を生み出し、コンテンツと名を変えた。人々の欲望を満たし、仕事を増やし、それから幸福の箸休めとなった。

欲望と幸福は一体ではないと感じる。余計な現実は、もともとその人の潜在意識になかったであろう新しい欲望を無理やりカタチにして表面化させる。「実はあなたが望んでいたことは・・・」と四方を占い師に囲まれて一斉に突き付けられている。そうして、ありもしない潜在にリーチさせてその気にさせてしまう麻薬なのだ。どこまでも現実とした現実が、余計な逃走すらも予断させなくなったのはいつからだろう。

幸福になるためには、彼岸にたどり着かねばならない。

冒頭で語った彼岸というのは、ごく簡単なこと。
「正気」を捨てることだ。これが正解と、現実を捨てて、欲望を捨てて、シンプルにする、カンタンにする。あるものもない。ないものもある。これを繰り返す。

人によって彼岸の方向性はまったく違う。

結婚。出産。退職。介護。往生。

これもまたライフプランという名前の彼岸であり、簡単でシンプルで脈々と受け継がれてきたもの。歴史が保証してくれる一般的な幸福。
あるものは家庭。家族。人とのつながり。共存。

独身。出奔。労働。孤独。往生。

こちらもまた、ライフスタイルや多様性という言葉にかこつけて現れた選択肢だ。なぜか、前述した彼岸に比べて剣呑な目で見られがちの幸福だ。
あるものは自分。思考。流浪。強い自我。

さらに、これは法律的にはまったく間違った考え方だが、自死やアングラ的な生き方もまた彼岸の一つなのだ。

これらは疎まれるどころか拘束されたり罪に問われたりする。
だけど、最も羨ましいとも思う彼岸のカタチでもある。


苦労してつかみ取るのが幸福なのか、現実という余計をそぎ落として残るのが幸福なのか、それともまったく非道な方法でつかみ取るのが幸福なのか。安易に他人の幸福は定義できない。

でも、羨ましいと思ったのならば、その気持ちに嘘偽りがないのであれば、一筋の光明になるのではないか。思わず立ち止まって考えてしまう。



ということでね、なんかちょっと思想の強い文章を残せました猫暮です。うん、なんか成分強いね!なんか匂おうね!うん、でもイイ感じだね!

なんかね、物語のキャラクターを作る時、やっぱり自分の常識の範疇でしか作ることができない気がしちゃってるのよね。

俗にいう「天才にしか天才は書けない問題」

ステレオタイプな悪役に魅力がないのは、カンタンに自分の常識から逸脱させた記号的なキャラクターに成り下がってしまうから。でも、思考の残滓がわずかでも反映されてると、悪役といえど魅力的にうつるんじゃないかなっ思う。ちょっとでも考えて、膨らませて、輪郭をもたせたら、それもちゃんと人間になるから。その人間を既存の価値観とぶつけると単純な勧善懲悪にならない図式が完成するのかなって!

モノカキを続ける上でね、じゃあこの常識という名の成人したまでに収集したバイアス遍歴をぶっ壊すにはどうしたらいいだろう?ってよく考える。

結果として「現実をどこまでも現実ありのままで受け止めること」に他ならないんじゃないかな~って思考にたどり着く。

苦々しい気持ちも、憎々しくてドロドロとして全部なくなったっていい焦土みたいに荒れ果てた気持ちも矢継ぎ早に紡ぎだして、余計だと切り捨てないそのままに表出させる。これがまず第一。見栄も、嘘も、品がないからしゃべらなくていい、って世俗的に判定されちゃうことも棚卸す。それが今回の文章の前半部。

それから「まず初めに勉強をしようとしない」

決起してから勉強しようとすると、自分の好きな傾向に向かっちゃう。
選択って、現実じゃない。
バイアス集やらカタログやらを眺めて選ばされるにすぎない。

とにかく好奇心って直感にゆだねる。
そしたら、自分にとって余計だったはずの、さらにいえばまったく無かったはずの選択肢が急に目の前に現れる。現れたら勉強しだす。
勉強しようと思って勉強するのでは順序がおかしいのだなって。

目を伏せない。
目を伏せなければ自分の中に悪が芽生える。そしたら書く。書いたら知りたくなる。知りたくなったら勉強する。もっと悪人になれる。理想としていた彼岸は遠くなるようで、実は別方向にあった彼岸には近づくのだ。

北にも南にも彼岸はあるし、東にも西にも彼岸はある。

これってとっても幸福な考え方なのだ。




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