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小説:河川敷と、タバコと、瑠璃色と。第4話

前回


4.白状

 

 陽斗くんとの出会いから、さらに1週間が経った。

 斜面の下にあるベンチは、用がなければ寄り付きようがない絶妙な位置にある。川が氾濫して水位が上がればたちまち沈んでしまう立地で、過去に何度か水没しているが、このベンチは今日までしぶとく生き残っている。ギシギシと錆びつき、すすんで座ろうとおもえない見すぼらしい風体をしているから、ますます誰も目に止めない。昼間に訪れたこともあったが、誰かが座っている光景を一度だってみたことはなかった。

 夜の河川敷といえば、やんちゃ盛りな若人たちのたまり場なんて相場で決まっている。彼らの用があるのは川に向かって左側、高架下あたりだ。二車線の往路と復路に加えて、排水用のゴツゴツしたパイプが一本通された大綱橋の下に広がるスポットは、人目のつきにくさ、スペースともに申し分ない。横幅広めな柱には市販のスプレーによる無法なカラーアートの展覧会が常設されていた。ベンチから橋下の展示会場まで歩いて向かうにはかなり距離があり、その出展者たちに出くわすことはめったにない。

 ベンチの背側にある斜面を登れば、立派に整備された道路と住宅地を隔てる真白い柵が川沿いをどこまでも伸びている。一応、斜面の下にも獣道程度の砂利道が伸びてはいるが、すすんだところで大型のポンプ設備の通行止めを食らうので、結局どこかで上にあがらなければならない。よって鶴見川近辺の住人は必ず上を通るし、そもそも遠目にみても行き止まりなことは明らかだから、大抵は寂れたベンチに興味をもてない。昼間だってそれだけ存在感がないのに、夜の闇にまぎれてしまえば事さらにだった。

 だからこそ、ぼくたちにとって格好の秘密基地で、憩いの空間だった。人払いの魔法がかかったようなベンチは思いがけない来訪者続きで困っているかもしれない。もしかしたら、寂しい思いにうんざりしていて、最近はちょっと楽しい気分になっているかもしれない。
 ぼくと西野さんは到着してまず1本タバコ吸うが、陽斗くんがきたらすぐに鎮火した。先に陽斗くん来ていた場合は、ベンチを遠巻きに眺めながら川べりあたりで吸うようにしていた。

「ねぇねぇ、たばこってどんな味がするの?」
「それはね、おとなになるまで内緒って決まりなんだよー」
「えぇ、それはずるいよ、ゆう姉ちゃん。」
「ずるじゃないよー。みんなタバコ吸い始めた時は契約書にサインするんだから」

 ベンチの左端に足を組んで座る西野さんと、膝立ちでベンチの背もたれを抱えるみたい座る陽斗くんがやいのやいのと戯れている。ぼくはベンチの右端からその光景を眺めている。

「ぜったい嘘だよそんなの!ねぇ、蒼佑にいちゃんも書いたの?ケイヤクショ」
「おー書いた書いた。むりやり書かされたなぁ。原稿用紙3枚くらい書いたっけなー」
「もー!ふたりともケチ!それにぼく、読書感想文かかなきゃいけないんだから原稿用紙なんて話ださないでよ!あーあ、やだなぁ」

 同じ時間を長く過ごしたからか、陽斗くんは西野さんによく懐いた。ぼくは仕事柄、通えて週に4回が限度だったがふたりは毎日欠かさず来ている。
 陽斗くんは最初の警戒心が嘘のように明るくなった。年相応の無邪気な振る舞いにほほえましさと、思わぬいたずら心が芽生えてしまう。

 彼の家が川沿い道路に面しているアパートと聞いて、帰り道の心配もそれほどなくなった。もともと河川敷沿いの道は人通りがあるし、危ない目にあうことはほぼない。それに最近は家付近まで並んで歩く。どのアパートなのかといった質問に関しては、陽斗くんは頑なに答えを拒んだ。

 事情を察して踏み込まずにいたが、彼から両親の不仲をふらりと相談された。母親がしきりに「陽斗だったら、お父さんとお母さん、どっちに着いて行く?」と聞いてくるらしく、父親は家を空けることが増えたそうだ。陽斗くんは聡明な子で、質問の意味するところをしっかりと理解している。ぼくも西野さんも状況を理解しながらも、努めて内容は持ち出さないよう慎重を尽くした。

「陽斗くんは、今何を読んでるんだい?」
「何も。だからいやなんだよぉ。国語の教科書のやつじゃダメっていうけど、それ以外で本なんて読んだことない」
「あーわかるなぁ。わたしも本読むの苦手だったから、おばさんに頼んで見繕ってもらったっけ」
「そうか。読んだことないんだね」
「え、ゆう姉ちゃんと蒼佑にいちゃんさ、なにかオススメの本教えてよ。僕、それについて書きたい」

 キラキラさせた瞳で見上げてくる。しかし、果たして思った作品をそのまま挙げてもいいのだろうかと逡巡する。自分も物書きの端くれとして勧めたい作品は山ほどある。だけど対象年齢にフィルターをかけると、その数はグッと減る。しかも読書に不慣れとなるとますます候補は数少なだった。この子の読書体験を豊かなものにするためにも、ここでの選択は間違えられない。

「ええっと、それじゃあ、陽斗くん。今までどんな本を読んできた?」
「そんなに。読んだことない。お母さんの部屋に本棚があるから、こっそり読んでみたことがあったけど、難しくて」
「お母さんが読書好きなのか。お母さんには直接聞いてみたりしないのかい?」
「うん、あんまり。読みたいって言っても、微妙な顔をするんだよね」そうして寂しげな顔を浮かべる。
「…なんか同じような本が並んでてさ。どれもおんなじ、やまぶき、なんちゃらって人の。れんあい物が多いよ、とはいちおう教えてもらった。がんばって読んだけど、ぜんぜん。」
「やまぶき? もしかして山吹賢三かい?」

 つい身を乗り出して声が大きくなる。もしも陽斗くんの母の本が山吹賢三のものであったら、フィルターを掛ける前のオススメ候補に入っていた。しかし対象年齢という観点であれば時期尚早な文体ともいえる。

「ああ、たぶん、そんな名前の人。『みかえりびじん』ってタイトルだった」
「ああ、やっぱり。山吹賢三先生のだ。それは僕も大好きな小説だよ。そうか、陽斗くんのお母さんとは気が合いそうだ」

 そうして内心の盛り上がりを隠しきれずにいると、ジトッという効果音が似合いそうな西野さんと目が合う。目の前の陽斗くんがややうつむきがちで、その表情は曇っていた。瞬間に、視線の意味を理解し猛省した。この子の家庭はまさに離散の危機にあっているのだから、話題は選ぶべきだったか。無意識に乗り出していた身を引き、少しだけ距離を開けて精一杯縮こまった。改めて、話題を切り出す。

「あぁ…今度、陽斗君くんにもよみやすい小説を持ってくるよ。ファンタジーならブレイブ・ストーリー、シャーロック・ホームズなんかもいいかもね」
「あ、どっかで聞いたことある。このあいだ映画やってたよね」
「そうだね。どちらも映画になっているよ。映画と比べたら内容もかなり変わっていて、面白いよ」

 陽斗くんの目に少しだけ輝きが戻る。肩をすくめながら微笑む西野さんを視界の奥に捉えながら、調子を取り戻しながら概要を語る。強い興味を示した様子をみて、自宅の本棚に収められているはずの本を想像する。たしかあのへんに、とあたりをつけ、持ってくる約束をする。

「漫画とかは読まない?」
「あんまり。家にいるより、体をうごかすのが好き。ここにくる時は毎日走ってきてるよ。」

 言いながらベンチから飛び降りて目の前をぐるりと何周も駆けてみせた。元気が有り余ってる様子に感心していると、勢いをつけたままぼくと西野さんの間に向かってきて収まる。
「走ってると気分がすっごいいいんだ。気持ちいい」と息を切らす様子もなく言ってのける。
 西野さんは、瑠璃色のポータブルケースにおさまったスマホを指先でいじりながら、陽斗くんへ話しかける。

「ねね、陽斗くん、私もいっこ持ってきてあげよっか? 紹介したい本があるんだ~」
「え、うん。気になるけど、二冊もよめるかな。」
「蒼佑お兄さんの読み終わったらでいいよ。めっちゃオススメだから!」

 ブレイブ・ストーリーは上下巻だから相当先になるだろうな、と予想しながらも、ぼくも西野さんの本が気になった。スマホをスワイプしながら目的の表紙を探しているようだった。その様子を陽斗くんが膝立ちになって覗き込んでいる。
「あったあった」と告げ、スマホをこちらに傾ける。ここからだと少年の後頭部に邪魔されて、ネット検索かはたまたKindleアプリかも察せない。

「…なんて読むの?」
「これはね、”るり色”って読むの。『瑠璃るり色の空とありし日の君』。すっごいきれいな青色のこというんだ。ちょうどこんな感じのね。」

 そういってパーカーのポケットからいつも使っているポータブル灰皿を取り出すと、スマホの光で照らして見せる。見た目は小さな財布みたいな形状をしていて、前開き部分がボタンひとつでパチっと止められてる。革で造られたような光沢感に、紫がかった深い青色が広がっていた。

「へーきれいな色」と、握らされた陽斗くんはそれをくるくるとひっくり返しながら不思議そうに見つめている。
「もともと私の好きな宝石の名前なんだよ。それがちょうどこんな色してるんだ。」と、丁寧に陽斗くんの手元を照らしながら西野さんは言う。

「物語の舞台は、サナトリウム…えっとね、周りが自然にあふれた病院が舞台でね。そこでカウンセラーの先生と入院してきた女の子のお話なんだ。退院祝いで先生が女の子にあげた髪留めがキレイな瑠璃色なんだよ~。それで私の大好きなその女の子ちゃんがね、こんな色の人生が送ります、って先生に誓うんだけど、そこからまたいろいろあってね。二人はなんども人生の中ですれ違っていくの」

 西野さんの語り口調に熱がこもると、ふいに思い出したようにぼくへ視線を向けた。
「…そういえば蒼佑さんのも、瑠璃色だったよね?」と、ふいに視線を向けられ、ぼくは思わず顔をそむけた。
「あ、ああ、そうだね。」
 自分でもわかるくらい激しく動揺した。瑠璃色について観察に没頭中の陽斗くんはともかく、西野さんが不審に思うのは当然だった。
「え、どうしたの?」と珍しく演技ではない素のままのつぶやきが耳に残る。身を前に乗り出し、キョトンとした表情でこちらの様子を伺っている。

 ズボンのポケットから、ポータブル灰皿を取り出す。西野さんの柔らかなデザインと違い、こちらはプラスチックのケースで角ばっている。上部のフタをスライドさせて灰を落とすタイプだが、色はまさしく瑠璃色そのもの。

 これは僕が3冊目に出版した本の記念にと貰った品だった。

 陽斗くんの興味がぼくの手元に移ったので、そのまま手渡す。西野さんとぼくのポータブル灰皿。両手に形状の違うケースをそれぞれ持ちながら、重ねたり近づけたりする。陽斗くんの小さな手の上でふたつが並び合うと、そのまま色が交わり、まるで境界がなくなってしまうようだった。

「ほんとだ!おなじ瑠璃色だ」
「いつも思ってましたけど、キレイですね」

 西野さんが「貸して」と陽斗くんの掌からぼくのポータブル灰皿をつまみ上げると、スマホの光に照らしながら見つめる。底面に刷られた印字が発見されるのは時間の問題で、案の定、すぐに読み上げられる。ぼくは観念した面持ちだった。

「第34回出典記念 神埼宗介」

 そのまま読み上げたあと、彼女にしては珍しく言葉を失っていた。文字を見つめたまま固まっている。それに反して、ぼくの体はソワソワとまったく落ち着かない。耐えきれず、ぼくはふいに立ち上がる。結局、数歩程度ウロウロしてから行き場を失ってしまう。目の前の漆黒の川を見下ろしたり、足元の暗闇に視界を落としたりした。

「蒼佑さんって、もしかして、あの神埼さんなんですか?」

 西野さんの声に振り返って見れば、スマホの光に照らされた顔からは今までにないほど表情が抜け落ちていた。そんな表情は彼女の演技のレパートリーにはなかったのではないか。さきほどまで間に挟まれていた陽斗くんは、ぼくの姿や、西野さんの持つ小さなケースに首ごといったりきたりさせている。もうごまかす気も起こらず、あきらめて白状する決心がつく。

「うん、そうなんだ。その小説を書いたのはぼくだよ。」

 目を伏せながら真実を語ると、西野さんは手元からするりとスマホが滑り落ち、スウェットの膝の上に着地した。

「えー!蒼佑さんなんでいままで黙ってたんですか!ちょっともう、早く言ってくださいよぉ。あ、すごい好きです。あの、その」

 怒ったり、恥ずかしがったり、突然嬉々としたファンの顔になったりと、コロコロ変わる彼女の表情は薄暗闇の中でも目立って見える。陽斗くんは「蒼佑兄ちゃんが神埼で、ゆう姉ちゃんの好きな小説を書いてて…」と状況を整理しながら、彼女の興奮の正体を実況してくれているようだった。

 そんな微笑ましい様子を見届けながら、ぼくの気分は暗く沈み、まるで川の底に吸い込まれるようだった。努めて表情には出さずにまぁまぁと諌める。徐々に事態を把握して陽斗くんも加わり、2人の興奮は覚めやらぬようだった。
 あのシーンが好きだった、このシーンが好きだったと、小説の感想を述べる彼女は本当によく読んでいるようで、書いたぼくでさえ忘れてしまった場面を話してくれた。ついでにそれが陽斗くんへのプロモーションにもなっていて、目の輝きが少しづつ増してきたように思う。

 ファンからの言葉は嬉しいし、それが他ならぬ西野さんからというのもぼくを気持ちを暖かくしてくれた。どうにも、作家としてのぼくがそういった賛辞を形態的に受け取るばかりで、本心から応えられているかがずっと不安なままだった。彼女の期待の目は、これまで見てきたどんな日の目とも全く違った熱さを秘めていて、演出でなく彼女の本心であることを証明していた。そんな眼差しで、ぼくは無理やり暖を取っている気がして、後ろ暗かった。
 もちろん、作者本人を前にした興奮という要素もあるが、うまく作家を演じたぼくの内心には気づかないままだった。こんな感情も、今回ばかりは西野さんにもバレなかったようで安心する。
 
 陽斗くんが「蒼佑にいちゃんが書いて、ゆう姉ちゃんが好きな本なんでしょ。もちろん読むよ!」と鼻息を荒くしながら答えたため、後日持ってくるものが、ブレイブストーリーではなく「瑠璃るり色の空とありし日の君」ということで決定した。

 急に慇懃無礼な態度にあらたまった西野さんがもみ手をする。
「じゃあ、今度、神埼先生にもってきていただく、ということで!」
 陽斗くんも彼女の真似をして恭しくぼくに頼み込む。
「せんせい!おねがいします!」
 ふたり並んで卑しい商人みたいな態度になった。作家としての仮面がほころんで、笑いがこぼれた。
「ちょっとちょっと、先生はやめてくれよ。気恥ずかしいんだ。今はもう作家ってわけじゃないし、いつもどおりでいいって」
 自分で言って、わずかな悪感情のぶり返しがやってきた。しかし、それをなんとか封じ込めながら、白状するように伝える。
「それに、ぼくの家にはないんだ。瑠璃るり色の空とありし日の君。今はもう持っていない。だから、西野さんに持ってきてもらおう」
「あれ、そうなんですか。」
 重ねた揉み手を解放して、もっともな疑問を投げかける彼女。
「用意することも出来なくはないけど…。うん、西野さんに持ってきてもらったほうが早いよ」

 家に書籍がないのは本当だ。そしてその気になればすぐに用意できることも本当だったが、それは避けたかった。本を用意するということは、かつて担当へ連絡するということで、気にかけてくれていた彼女をより一層失望させてしまう行動になる。それに、西野さんが何らかの不都合で本が用意できなかったとしても、僕はきっと連絡しない。何食わぬ顔をしたまま書店で書籍を買い、陽斗くんに渡すだろう。
 もし、いま彼女に連絡したらどうなってしまうんだろうか。恩を仇で返すイメージだけがスラスラと頭に浮かぶ。心に暗い明かりがポツリと灯り、思わず視線が下に落ちた。

「そっかそっか。わかりました。じゃあわたしが明日持ってくるね」と答える西野さんに視線を向ける。その目に、1つの疑問がまじまじと浮かんでいた。

(どうして、書かなくなってしまったんですか)

 テレパスのように頭に叩き込まれたそれは、彼女が発したものでもなく、間違いなくぼく自身の妄想の類だった。だけど彼女が疑問に思っていることだけは間違いない。しかし、それを口にするような真似はしない。かつてぼくが漏らした本心と照らし合わせて、最適な「西野さん」を演じているような気がした。
 お互いに視線が合ったまま。無数のやり取りが刹那の時間に行われた気がした。陽斗くんの「ありがとう!」によって、永遠にも思えた10秒が終わりを告げる。西野さんは陽斗くんに視点を戻し、ぼくは何気なく斜面を見上げた。

 すると、奇妙な光景が映った。土手の上の光源の下、初老の男性の姿がある。
 その老人は、土手の道を”後ろ向き”に進んでいた。



つづく



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