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小説:河川敷と、タバコと、瑠璃色と。第2話
前回
2.柿崎蒼佑と西野ゆう
黒々とした河川敷のベンチで日課のルーティンをこなす。土手の斜面を誰かが降りる音が背後から聞こえてくる。やがて、その正体が平地にたどり着く。
「となり、いいですか?」
「もちろん」
はじめて彼女と出会って、一週間が経った。お決まりとなったこのやり取りも通算で4回目。
「お兄さん、もしかして毎日来てないですか。週3回っていってませんでしたっけ?」
「はは、たまたまだって。僕はペースを変えてないよ」
嘘である。実際は、出会ったあの日からほぼ毎日通うようになった。「ほぼ」というのは、はじめて出会った翌日こそ行かなかったが、それ以降は皆勤賞なので「ほぼ」である。
あれから自己紹介を済ませて、彼女の名前が「西野ゆう」らしいことを知った。ほかにも世間話の中でいくつか彼女に関する情報も記憶できた。
専門的な接客業に努めているらしく、収入には困っていないということ。
この場所が大層気に入ってるということ。
ぼくのことをとても話しやすい人だと思っている、ということ。
彼女には、同棲相手がいる、ということ。
正直なところ、「同棲相手がいる」という情報にホッとした。彼女ほどの輝かしい魅力を備えている人にパートナーがいないとは思えなかったからだ。そしてぼく自身、彼女のことは魅力的だと思いつつも、どこか純粋な恋心ではないとも感じていた。自然体のまま彼女を受け止めるにはどうにも疑問が生じすぎていたし、なぜこれほどまでにぼくに対して好意的であるのか、その理由を知ることもすこし怖かった。聞きたいことはたくさんあったが、無意識のうちにブレーキをかけ、なんとか体裁を整えていた。
出会った日から、彼女のことを考え続けている。もしかしたら、彼女をキッカケにまた「書ける」かもしれない。
「柿崎さん、会社の飲み会とか行かないですか。毎日ここにいますよね」
「毎日じゃないですって。でも、飲み会はあんまり行かないほうだね。行っても一次会までだし、忘年会とか歓迎会やら送別会以外は極力顔を出さないね。」
「やっぱり人のいるとこ苦手だったりしますか?それか、お酒が得意じゃなかったり?」
「まぁ、得意とまでは言えないけど、飲むこと自体は楽しいよ。ただ話すのが苦手なんだ。だから大抵は一次会で酔っ払ったフリをする。たまに膝から落ちたり演技みたいなことをね。するとみんな気を遣ってくれるんだよ。お酒弱いのに付き合ってくれてありがとう、ってね。」
「わっ、めっちゃためになる処世術です。さすがです。わたしもたま~に逃げ出したくなるんですよね」
「西野さんはお酒強いタイプ?」
「あー強いです。大体最後まで残ってますよ。酔っ払いの介護要員ってところですね」
同席した友人を気遣うような身振り手振りをしながら、小さく笑う彼女は洗礼されていて、どこか遠い存在に感じた。清廉潔白といった印象とは違い、親しみやすさにあふれる彼女は、一体どこまでが本当の彼女なんだろうか。少なくとも河川敷のベンチを気に入ってるのは本当だろう。
だけど、ほかはぼやかしている印象が強かった。仕事のことも接客業とだけ語って曖昧だった。同棲相手についても、ほとんど話さなかったし、なにか込み入った雰囲気を感じ取り、深くは切り込まなかった。はじめこそ、大人同士の暗黙の了解の通説に従って、踏み込まないでいた。しかし、剣呑な雰囲気を醸し出されることも、けん制をされることもなかったから、聞いていいかどうかを断定できずに今日まで過ごしている。
それに最も気になったのは名乗る時の妙な間だった。
「えっと、…え~、西野です。西野ゆう」と、何かその場で考えるような素振りを見せたあと、そのままフルネームで名乗った。
「蒼佑です。あ、ぼくの下の名前」と、ぼくも直前に名乗った苗字に、慌てて名前を付け足した。普通はこう一息でフルネームって言うものなのだろうか。下の名前まで明かすやり取りをしてこなかったから、どこか不自然さを拭えなかった。
視線を対岸のぼんやりした街明かりに向けたまま、記憶を引っ張り出していると、西野さんから質問が飛んでくる。
「柿崎さんが今されてるお仕事って、聞いてもいいですか?」
「ああ、製造業の広告課で働かせてもらってる。自社製品のPR記事とか、宣伝文のキャッチコピーなんか書いてるよ」
「へー!なんだか面白いですね。お兄さん話しやすいし、営業職かと思いました」
「あはは、話すのは苦手だから、きっと営業は向いていないだろうね」
「えー、じゃあなんで私とは話せてるんですか。お兄さん話すの上手ですよ」
あからさまな褒め殺しに聞こえるかも知れないが、自然体の鎧をまとった彼女からそう言われて悪い気になる男はいない。彼女が口にすると、とたんに嫌みがなくなる。生粋の聞き上手なのだろうと思った。それにぼく自身もタバコによって間を持たすことができるから、喋る内容をなんとか推敲できている。
この環境でなかったらまともに話せなかった。いや、彼女ならきっと誰の心でも開くことができるのかもしれない。もしかしたらと思ったことを、口にしてみる。
「西野さんは、もしかしてカウンセラーだったりするかい? もしくは臨床心理士を目指してるとか」
キョトンとした表情をしたあと、吹き出したようなリアクションを取った。そこから笑いながら必死に応えようとする彼女の姿は、相変わらず愛らしさに溢れている。
「ぶふっ! ええ私がカウンセラーですか? ないですないです。私ガサツですから。ぜんぜん向いてないですって。それに臨床心理士って、そんな大層なもの目指したことないですよ」
わざとらしいほど両手を振ってリアクションを取る。ぼくはそんなに不思議なことを聞いただろうか。笑って否定する彼女をみて、なんだか見当違いの質問してしまったような気になった。しかし、彼女ほど親身に人の話を聞くことができるなら、天職なのではとさえ思う。それとガサツというにはイメージに合致しなかったから、思わず首をかしげた。それから彼女は何か思い出したように語り始めた。
「ああ、でも大好きな小説があって、その主人公が臨床心理士を目指してるカウンセラーでしたね。恋愛モノだったんですけど、すっごい好きなお話でした。わたしの喋り方とか、その話に登場するヒロインをちょっと影響を受けてるかもしれないですね」
ドキリとした。彼女の話の続きをこれ以上聞いて良いものか分からなくなった。「そうなんだね」とかろうじて返事をする。何というわけでもなく、対岸の街明かりに視線を戻した。
眼下の鶴見川は今日も深い黒に包まれていて、対岸付近の水面にマンションやら広告塔やらの光が反射して一部が白くにじんでいる。虫の声と高架下で増幅された走行音を除き、静寂につつまれた二人きりの河川敷。こちらと違って、対岸の町中には人々の生活やら息づいている。
大綱橋を渡る車も、たいていは対岸の町中へと吸い込まれていく。風が吹き抜け、足元の雑草たちが寂し気にざわめき立つ。ジーとなくの虫の声、耳を澄ませばわずかな川のせせらぎ、自分がわずかに腰をずらしたときに発生する座面と衣服の擦り切れる音。夜空に浮かび上がった月の輪郭が引き延ばされ、夜との境界すらあいまいになり、聞こえていたはずの音も薄く薄く、それでいてだんだんと遠くなる。
どこか、人の生活圏から自分だけが追い出されたような気持ちになっていく。そういえば「書けなくなった」時も、こんな気持ちだったろうか。鳴りやまない電話。引きちぎられた原稿用紙。それから見たことも聞いたこともなかった「彼女」の顔。飛び出して、扉が強く閉められ、それから……。
「あれ、大丈夫ですか?」
ハッと意識が引き戻された。はるか遠くに響いていたはずの彼女の声が、間近に戻ってくる。心配そうにこちらの顔を覗き込む彼女の姿を認識する。
それほど自分が神妙な面持ちをしていたのかと、思わず片手で顔を覆ってしまう。悪い癖だった。過去を思い出すと頭の中がおかしな思考と情緒で埋め尽くされる。そうなると人の話を聞くどころではなくなってしまう。最近はなるべく囚われないよう気をつけていたが、まさか彼女の前でやってしまうとは。不覚にもほどがある。
「私…なにか変な事言っちゃいましたかね…?」
「…ああ、ごめん。西野さんのってわけじゃないんだ。気にしないでくれ」
「そう言われるとなおさら気になっちゃいますね」
「…はは、困ったな」
彼女にしては珍しく真剣な声で聞いてきた。大人のルールに則って引き下がるかと思ったが、意外にも強情な様子に驚く。
「それに、ほら、聞いてほしそうな顔をしてましたし、実際、私も気になりました。柿崎さんの考えていたこととか」
「え~…ぼく、そんな顔をしてたかな」
「してましたよ。こんな暗いとこでハッキリと分かるくらい」
内心で逃がしてもらえないことを悟った。もしかしたら、無理やりにでもぼくにけん制をかけて翌日からこの場所を独り占めする算段でもたてたのか思ったが、彼女に限ってそれはないだろうと打ち消す。
本日2本目のタバコに火をつけて、ゆっくりと吸い、吐き出す。思考をクリアにしていく。河川敷の風景にすっかり溶け込みつつあった意識が戻り、次第に横にいる彼女の輪郭がクッキリとしてくる。彼女の手には、火がついたままの残り6割ほどといった様子のバージニア・エスがあり、くわえられることのないままふよふよと煙をあげていた。
彼女は瑠璃色のポータブル灰皿を取り出し、まだ十分に吸う余地を残していたバージニア・エスを灰皿に押しこめながら「よし、じゃあこうしましょう。」と手を胸の前で合わせる。
「今からわたしが柿崎さんの臨時カウンセラーになるんで、自由に話してみてください。ここで聞いたことは誰にも口外しないと約束します」
組んだ足をほどいて揃えると、膝の上に手を重ねる。いつも少しだけ猫背気味な背筋をピンッと張って、ちょうどアナウンサーみたいな姿勢のままこちらへ体を向けた。至って真剣な様子の彼女だったが、それにしては上下スウェットの姿が似つかわしくなくて、力が抜けたような笑いがこぼれる。
「あ!なぁに、笑ってるんですか。ほら、話してみてくださいよ」
「いやいやごめん、ついね。でも、そうやってクライアントの話を急かすのはご法度だよ。まずは肯定的傾聴からだね」
「えー、なんか納得いかないですね…」
ムッとなった彼女を見て、これまた笑えてくる。しかし、すぐさまに表情を緩めて、一緒に笑ってくれた。ああ、どこまでも演技派だな。本当にカウンセラーに向いていると思う。こちらの心を自然体のまま解きほぐしてくれる、彼女は本当に何者なんだろうか。接客業とは聞いたが、まだまだ想像の余地が残されてしまっていた。
笑った際に緊急避難させていた吸いかけのラッキーストライクをポータブル灰皿に押し付けると、観念して答える。
「わかった、わかりました。せっかくだし、聞いてもらいたいです」
「はい、私にとって記念すべき最初のクライアントさんですね。どうぞ、お話しください」
「長くなるかもしれないけど、よろしくお願いします」
ポータブル灰皿のフタをパチリと閉めて、体を彼女に向ける。といっても背もたれ付きのベンチの構造上、座面をまたいで座るわけにもいかないので、浅めに座り、可能な限り斜めに向く程度だった。それでもしっかり向き合おうとしたのはこれがはじめてだった。暗い河川敷でもパッチリとした双眸が浮かぶ。わずかな光も最大限にして照りかえすような肌。
なんとなくソワソワした。逸らしたくなる視線も体も、気恥ずかしさを押し込めてなんとか固定させる。彼女もこちらの目、というより間、眉間のあたりだろうか。直接目を凝視することなく見ていた。ナチュラルリップの口元を少しだけ緩めながら、ぼくが話し始めるのを静かに待っている。
いちど目を閉じ、深く息を吸い込み、ゆっくりと吐く。そうして吐いた余韻をそのままに喋り始める。
「昔はまったく別の仕事をしててね、今の広告戦略課に配属される以前、もっといえばフリーランスの時代があったんだ。同じ書く仕事でね。でもスランプに陥って、仕事が立ち行かなくなった。当時付き合っていた人からも見捨てられてしまってね…。それからは長いこと仕事にありつけずいたんだ。なにせ以前の稼ぎ方しか知らなかったから、まともに就職できない。それに話すのは苦手だって言っただろう。今でこそまともにはなったけど、当時のぼくの話は聞けたものじゃなかったよ。
就活に絶望していたぼくを見かねたのか、その…あ~、ある人が連絡をくれてね。その伝手で今の職場で働けるようになった。今でも、その人には頭があがらない」
ぼくの携帯に連絡をくれたその人のことを思い浮かべると、申し訳ない気持ちがあふれてくる。不義理を働いてしまってはいるという自覚があったし、今だに迷惑をかけていると思っている。それでも「いつでも待ってるよ」とぼくのことを励ましてくれる。いつでも、と言ってくれたが、ぼくはいつまで待たせるつもりなのだろう。そして、その待っているとは、どんな意味を持っているかを、ぼくはまだ…。
彼女は静かに、うなずきながら話に耳を傾けていた。
「でも、やっぱり昔の仕事に未練があるんだ。さっきそれを思い出して、ちょっと苦しくなってしまったってだけさ」
真剣な眼差しでここちよいペースで頷く彼女の姿勢は、まさにカウンセラーのそれだった。凛とした表情のまま、こちらの話を最後まで聞き入れてくれた。
しかし同時に、不安な気持ちも湧いた。彼女は完璧なまでに模倣をしているのだ。ある小説の中で、想像したようなシーンがありありと浮かぶ。それは演技なのだ。この河川敷においては彼女は主演女優賞並だ。彼女は知ってか知らずか、ぼくがよく知っている人物にとてもよく似ていた。だから正直に話すと宣言しつつ、肝心なところを明かす勇気だけはでなかった。
フリーランスというのは、半分嘘だ。正確に言えばぼくは作家だった。編集部お抱えの新人作家。彼女の語った小説が、過去の思い出とリンクしてしまった。もしかしたらその小説を、ぼくは知っているかもしれない。
いや、それどころではない。
それは、ぼくが書いた作品かもしれなかった。
隠すことに関して、彼女に対して失礼ではないかという気持ちと、見ず知らずの男の独白を聞かせるのも忍びないという気持ちが半々だった。それらが均衡してしまい、すべてを語らない理由として正当化が出来てしまった気がした。
「そうだったんですね。お辛かったですね…話してくれて、ありがとう。」
彼女はお手本のような柔和な笑みを浮かべて、ゆっくりと言葉を返した。ぼくにマシな演技力があればここでひと泣きでもしてやりたいところだったが、あまりの大根っぷりでしらけさせてしまうだけだろう。せめて、彼女の恩義に報いたくて、大きく頭を下げるだけにとどめる。
「…はは、なんだか気恥ずかしいね。」
「確かに。急でしたもんね。」
照れ隠しに左手で首の後ろ側をさすって、まっすぐとベンチに座りなおした。彼女も頬を人差し指でぽりぽりと書くような、それっぽい仕草をしながらどこか気恥ずかしげな様子を見せる。いつもの自然体な体勢に戻ると、話の続きをはじめた。
「職場を紹介してくれたっていうその人。」
「うん。」
「今も連絡とったりしてるんですか?」
口調と体の向きこそ、いつもの調子に戻ってはいたが、新しいタバコを取り出す様子はなかった。まだ彼女にとってぼくはクライアントのままであるらしかった。しかし、自分がひっかかっていたポイントをぴったりと当てられて、思わず言い淀む。
「…ああ、たまにね。心配して、連絡をくれるよ。」
「柿崎さんから、連絡はしない?」
「…」
ぼくの表情を注意深く覗き込む彼女。なにもかもお見通しのような感じがして、胸中をさらけだしたい思いに駆られる。しかし、ぼく自身も、彼女にたずねられたその先の明確な答えをもっていない。河川敷に最初からあったような沈黙が強調されるばかりだった。
そうして盛んに胸ポケットを触りだしたぼくを見かねてだろうか、「そっかぁ、難しいですよね」と区切って身を引く。ちょっと困った様子で肩を落としながら、柔らかく笑って言う。
「んー、ごめんなさい、踏み込んだことを聞いちゃって」
「いやいや、いいんだ。ぼくも、悩んでいた部分ではあったんだ。確かに、連絡をしたくないわけじゃないんだけどね。ただのお礼になってしまうからね。きっと、その人が望んでいることじゃない。まぁ、もっとカジュアルな気持ちで声を掛けられたら、それに越したことはないんだけどね」
「…これは次回も来院していただく必要がありそうですね!」
「ははは、そうかもしれない。しばらく世話になるよ」
そういって、お互いにはにかんだ。初対面の時のシガーキッスほどの物理的な接近はなかったが、心の距離はその時に比べれば幾分近づいているような感覚がある。
一段落した雰囲気とは裏腹に、ぼく自身ではその先の答えを探ろうとしていたが、タバコの煙とともにごまかす。悩むだけならこの場でなくともできるし、中途半端な思考の渦に彼女を巻き込むのは忍びなかった。
しかし、真似事とはいえ、カウンセリングにおいて本人に答えを考えさせることは容易じゃない。たいていは話を聞くことで、スッキリとさせて肝心の問題には踏み込まないことが多い。信頼関係という点において、ぼくと彼女はたった4回ばかり会っただけ。
信頼関係のないまま、相手の核心に踏み込みことはタブー視される。肝心なことは、自発的に考えさせて、自分自身でどこに向かうかを決めてもらうことだ。そういう意味では、ぼくはたった4回会っただけの彼女に核心を突かれ、不快に思うこと無く、思考の続きを走らせようとしていたことになる。
ただほだされているだけの可能性もぬぐえきれないが、もしかしたら、本当に素質があるかもしれない。素直に思ったことをそのまま伝えることにした。
「…それにしても、本当にカウンセリング受けてるみたいだったよ」
「えー、そんなになりきれてました?私」
「なれてたよ。びっくりするぐらい。もしかして演劇の人だったりするかい?女優とか、何かお芝居をやっていたとか」
言ってから後悔した。これではまるで詮索しているみたいではないか。自転車が土手の上を通過していく音にドキリとする。急に人の目が気になりはじめた。
遅い時間なので、道行く人の数はそれほどでもない。ランニングする人、自転車に乗った塾帰りの学生、自分と同じような会社帰りのサラリーマンの姿がたまに見える程度。ベンチから人通りのある道路まではそれなりに距離があり、よっぽどな大声を出さない限り声が届くことはない。だというのに、聞かれてはいけないことのように声のボリュームが尻すぼみになっていく。
「…ごめん。あまり仕事に関することは聞かないようにしていたんだけど、つい気になってしまって。」
「ああ、いえ。」
彼女は少し考えるような素振りをしながら、目を伏せていた。
「まあもう柿崎さんには言っちゃっていいとも思っていたので、あ、でもそのまま言っちゃうのももったいないかな…。」そういうとぼくと目を合わせ話を続ける。
「…じゃあ、今度は柿崎さんがカウンセラーになってください」
いたずら顔で笑って、挑発的な笑みを浮かべる。
「ずいぶんとお詳しいようですし?お手本をみせてもらおうじゃありませんか」
「え、あ、ああ。これは弱ったな。」
断る理由を探してみたものの、まるっきり無力だと悟ってしまう。先程と同じように浅くベンチに座り、体を斜めに向ける。彼女もそれにならって、足を揃えはしなかったが体をこちらに向けた。胸ポケットのタバコからしっかり意識を戻すと、少しだけ足を開けて、両膝に手を置く。
「それじゃあ西野さん、話せる範囲で構いませんので、ゆっくりと聞かせてもらえますか。」
頭の中で、かつて取材した臨床心理士の姿を浮かべながら、肯定的傾聴の態度を模倣する。微笑を絶やさず、手がむやみに胸ポケットへ伸びないようにガッチリと膝の上で固定する。
「はい、実は私、レンタル彼女なんです。」
開始たったの5秒でぼくの動揺が露呈してしまった。「なるほど」と神妙に頷いたが、ちょっとだけ声が上ずってしまう。
「といっても、元、ですけどね。今はやっていません。その前も、キャバクラとかホステスとか、転々としてて、最終的にレンタル彼女に行きついてました。たぶん、天職だったかもしれません。昔っから彼氏が出来ても『お前は演技くさくて、信用ならない』みたいにフラレてきたんで。映画や小説の影響を受けやすいってのもあったし、もともと演劇部だったってのもあって、癖みたいになってるんですよね。どうも、それがよくないみたいで。じゃあもう演技でいいところに行っちゃえ、と。レンタル彼女ならその場で関係が清算出来ますし、リピをくれるお客さんは『私の演技』を求めてくれますし、ピッタリでした」
彼女は、いつも話す時と変わらない表情で語り続けた。いや、普段よりも少しだけは照れたような、はにかんだような表情も見せている。しかし、これすらも彼女のいう演出に入るのだろうか。ぼくにはとても見抜けずにいた。
「当時すごく熱心なクライアントさんがいて、毎回指名してもらってたんです。プレゼントもブランド物ばかり頂いて、あっという間に店舗No.1になってしまったり。それから休みがないくらい、たくさん指名をもらったりして、すっかり演じることに慣れてしまったかもしれません。ある日、私を毎回指名してくださった方から、契約を持ちかけられたんです。月に100万払う。好きなものも買ってあげるし、住まいも提供する。いわゆる”囲い”の提案でした。」
こんな場所でなければ、現実感のないと話半分に聞けたかもしれないが、彼女なら十分にあり得るエピソードに頭がクラクラした。カウンセラーの面目を守ろうと、なんとか正気を保つ。これが素面であったら、どんな面持ちで聞けばいいのか、困惑してしまっていただろう。カウンセリングの体裁をとってくれた彼女には、むしろ感謝しかなかった。相槌も最小限に、はやる気持ちを抑えて、話の終わりを慎重に見極める。
「今の同棲相手って、ずばりその人です」
そこで彼女は言い切った。話していた最中にだんだんと笑みを潜まっていき、今はごく真剣な眼差しでこちらを見つめている。ぼくは軽くうなずきながら、口元を注意深く観察する。ピタリと一文字に結ばれた淡い薄桃色。再び開く様子がないことを確認し、彼女の言葉を続けるように答える。
「…西野さんはその人の提案を受けて、仕事を辞め、最近、この近くに越してきたんだね」
「そうです。その人が借りてくれたマンションの一室に住んでいます」
だとしたら、彼女が夜な夜なこの河川敷にやってくる理由はなんだろうか。疑問が即座に頭を支配する。相手の帰りが相当遅い、というのもあり得たが、夕飯時どころか就寝時間に近いほどの時間帯だ。それに、彼女の格好も同棲始めたてというには、ラフすぎる印象を受ける。誰かと住んでいる、という気配がない。それははじめから思っていたことだった。もしや一緒に住んでいるわけではないのだろうか。カウンセラーという性分を越えて、ぼくの疑問が彼女の心に接近しようとする。
その時、彼女の表情が揺れた。はじめて揺れたとわかるほど、大きく動揺した。
もしや、ぼくが今から核心に踏み込もうとしたことを、彼女しか持ち得ない感性によって悟られたのかもしれない。そしてそれは踏み込んではいけないことなのではないかと、あわてて居直ろうとする。
だが、どうも彼女の視点はぼくには向けられない。
ぼくの肩越し、斜め右後ろに視線が泳いでいっている。
何かを追いかけるように、彼女の目線が鶴見川の岸辺に吸い込まれていき、しばらくそこで止まる。
瞬間、彼女はバッとベンチから立ち上がった。
「柿崎さん、ちょっとごめんなさい。」
ぼくに一瞥すると、彼女は視線を何かに戻し、その方向へゆっくりと歩みだす。何かと思い、彼女の視線の先を見つめると、そこには人影があった。
小さな、小さな人影だ。
白いシャツをまとった小さな背中が、水辺の間際にちょこんと体育座りしていた。
つづく
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