踊ってない夜を知らない、で救われた話
こんにちは ねこぐらしです。
小難しく考えることが好きな私ですが、今日はド直球な話題を広げていこうと思います。
「踊る」ってすんごいパワーがあるのよ!ってお話。
個人的なお話になってしまいますが、ここ1週間くらい、私はネガティブ寄りの感情にとらわれることが多くなってきました。
もちろん、この感情は一時のものだし「ツイてない事が続いてるな~」くらいのごくごく一般的なこと、とは自覚しています。
それでも鬱憤はたまりますし、思考も「世界なんてなくなっちゃえばいいのに…」ぐらいの、それはもうひどい状態になります笑
そこで私は特効薬を投入しました。
フレデリックさんの「オドループ」をリピートして、疲れ果てるまで踊ったのです。
しかも夜中の1時にです。
翌日には、階下の住民から苦情が殺到しそうなものですが、ご安心ください。
隣人は夜勤努めで、私の部屋は角部屋、かつ下に部屋はありません。しっかりと周辺環境をチェックした状態で踊りました。
そしてヘトヘトになった後、楽しい気持ちが収まらず、趣味のFF14(MMORPG)を起動してフレンドと「かくれんぼ」をしました。
普通のかくれんぼとぜんぜん変わりません。舞台がゲーム内ってだけの、バーチャルかくれんぼです。
体はヘトヘトだし、全力で人と遊んだことで、もうそれはスヤスヤでした。
根本的に辛い出来事がなくなったわけではありませんが、思考にも表情にもすごく余裕があるものに変化しました。
(ちなみにダンス経験なんてありませんでしたので、傍から見たら、きっと見るも無惨な踊りだったことでしょう。)
言語外のコミュニケーション「音楽と踊り」
音楽と踊りは、それこそ世界共通のコミュニケーションです。
文化や文明を超越した、本能に訴えかけられる原初にして最強のカンフル剤。
ただ、踊るをテーマにするとしたら、音楽も語るに欠かせないテーマですよね。
音楽なくして踊りもない。
たとえ外界に音楽が流れていなくても、誰かの中に流れる内なるビートってのが非常に大切。
なんというか、音楽を聞くということは、単に音声データを聞いているわけではないのです。
音楽に込められたメッセージや、自分自身の記憶と思い出、ロケーション、今抱いている感情、今ここにいるという時間。
言葉で語れない要素たちが密接に結びつくことで生まれる「感動体験」が音楽を聞くということなのかなぁと。
その感動が、自然と人に踊りを与えて、コミュニケーションとして踊りを使ってきた。
現代はサブスクライブで1億曲聞けます!みたいなサービスが世に溢れています。
普通、家にいても月額数千円ですべての音楽が聞けるならば、人は外にでなくなりそうなものです。TSUTAYAでCDを借りる必要もないし、それこそライブになんか行かなくても「〇〇の曲 ライブversion」と調べれば済む話になっちゃいます。
でも、ライブやフェスといった文化は、未だに熱狂的な盛り上がりを魅せていて、人は踊っている。
人が求めているものは、体験そのもの。音声データがほしいわけではありません。
音楽を取り巻く要因をまるっと体験できるし、なんならその場で共有できるから、ライブ会場にくるのです。
肌で感じる重低音の振動。
フロアの熱気。
モッシュでかき回される感覚。
今、舞台の上に憧れのアーティストがいる、という実感。
この場限り、ただ1回の体験。
そして一緒に来た友達との共有
あるいは見知らぬ人との共有
「みんなの心のなかに音楽がある」っていうのは月並みですが、ほんとにその通りで、今音楽を聞いた自分の中にまさに体験が作られている。
だからこそ、人は踊る。踊って伝えるんだなぁと。
以前、東浩紀さんと落合陽一さんの対談の中でおっしゃってたことを参考に書いてみました。今回の体験により肌感覚で理解できたと、内心よろこんでいます。踊りたいくらい。
ある病棟体験
これは私の個人的な体験なんですが、以前、とあるサナトリウム的な精神病棟に勤務していた時期があります。
病棟といっても、作りは非常に家チックな場所でした。
いわゆるロビーの場所には歓談室のようなスペースが設けられていて、大型テレビが2台と大人数が座れるソファー。そしてウォーターサーバーや雑誌コーナーが設置されています。
暴れる患者や不安定な患者を対応するための「保護室」も用意されていましたが、そういった家チックなスペースからは隔離された場所にあります。
コロナが流行っていた時期、という要因もありますが、患者が施設外に出るには主治医の厳重な許可が必要でした。ほとんどの患者が退院までは外にでられずに過ごします。
家族や関係者に頼むことでモノの持ち込みは可能でしたので、文章を書いて過ごしたり、ゲームを持ち込んでひたすらプレイしたり、スマホいじったり、同世代同士で集まって歓談したりと、それぞれ思い思いに過ごすことはできます。
しかし、自由に外にでられないというのはとても閉鎖的で、窓から見える自然的な景色や陽の光に反して、院内にはどこかどんよりとした空気が広がっていました。
とある日、全国高校生ダンス選手権番組が、たまたまお昼時にテレビで流れた時のことです。
すごく不思議な光景だったんですが、
患者のほぼ全員がロビーに集まって、みんなで番組を眺めて盛り上がっていたのです。
年齢層も趣味も性別もバラバラで、それぞれ抱える問題もまるっきり違う。
普段部屋でこもりっきりの人ですら、顔を出していました。
その時の一体感はすさまじいものでした。
「わーすごい!」「立派なもんだねぇ!」
普段はシーンとしたホールに、喜びの声がポツポツがあがったり拍手をしたり、ずっとムスッとした表情だったおじいちゃんすらも食い入るように見つめる。
なにか目に見えないパワーが、間違いなくあの空間には流れていました。
あの時のカラッとした空気感は、未だに忘れられずにいます。
私にとってのコミュニケーションの課題
不思議と私の中で、平等に喜びを共有するにはどうすればいいんだろう?という課題が生まれました。
誰かが幸せな体験をしている一方で、不幸を押し殺している人がいる。
といったシチュエーションがあります。
あ、なにも、日本と一方ブラジルでは~、とか極端な例ではありません。
一緒に場を共有している人の輪の中でその関係があるのです。
それは職場であったり、お酒の席であったり。とても普遍的で身近な状況です。
幸せだな~と思っている人が、そうでない人にコミュニケーションを取る難しさたるや、ってのが課題です。
例えば幸せを感じている人が、今不幸を感じている人に幸せを共有しようとしても、とても皮肉じみて聞こえてしまう。
共有しようとした側は、幸せの共有を拒絶されたとして「ノリの悪いやつだな」と怪訝な目を向けてしまう。悲しいすれ違いです。
このすれ違いが重なることで、両者の心の中には一種のわだかまりが広がり、お互いにレッテルを張り合ってしまう。
「こいつは話の分からないやつだ。」
「いまはそれどころじゃないんだよ。」
そんな不幸な事故を防ぎつつ、お互いが幸せになる方法がないだろうかというのが、現在私の頭を悩ませている、とても大切な課題なのです。
一方に寄り沿うことは、それほど難しい事ではありません。
自分がネガティブ思考に寄り沿って共感を与え続ければ、少なくとも沈んでいる人と同じ目線に立つことができる。
それは手助けになるかもしれませんが、中途半端なフォローはかえって不審を招いてしまい「黙れ小僧!お前にサンの何が分かる?!」(CV:美輪明宏)と言われかねません。
何よりも、自分が沈んでいる、という自己犠牲な状態であることは望ましく有りません。
可能なら全員で喜びを分かち合える状態を目指すべきですね。
一方で、喜びの共有を受け入れて共感すること。これも難しいなぁと思ってしまう。
それは、不幸を感じている人を見捨てる行為でもあるし、その流れに乗り切れない人に対して「哀れみ」みたいな感情が沸き立ってしまう。
「哀れみ」を感じさせてしまった瞬間に、両者の関係に何かしらのヒビが入ってしまう。
すると「もういいや、時間の無駄だ」と両者とも何もしない、を選択してしまう。一見すると大人な対応に見えるところが、またこの課題の難しさを増長させるのです。
うん。踊ろう!!!!
踊って伝え合うのです!!!!
ごめんなさい。ちょっとだけフザました。
でも、解決法として「踊る」は有効だろう、と私は大真面目に言ってます。
「言葉」はそこに内包されている意味が個々によって違います。
それはニュアンスであったり、普段から使っている言葉であったり、そういった微妙な差でずれていってしまう。
そして、みんなの共通語を探っている間に、両者の溝は広がっていってしまう。
であれば、踊る、くらい言語外のコミュニケーションがちょうどいい気がします。
さすがにその場で踊るのは現実的ではないので、なにか別の遊びでもいいです。
時間を割いて、その人の立場や目線に立って、その人が一番安心できるものはなんだろう?その人が一番求めている物はなんだろう?と模索していく。
もちろん、飲みニケーションって言葉は、現代ではとてもデリケートなので気軽な提案は難しいかもしれない。
でも「ちょっと最新のボードゲームやってみない?」とか「昔の流行った音楽メドレー聞きながらご飯でも食べない?」とか、少し斜め上のお誘いがあったら、ちょっとは興味でるでしょう?
真正面から言葉を交わすのではなく、リラックスした状態でその人の価値観を読み取れる機会があるなら、それほど素晴らしいことはない。
踊りに代わるものはたくさんあるけれど、人のコミュニケーションの原点は踊りだということを忘れずに「良きもの」を模索し続けて行きたいですね。
落ち込んでる人がいたら「Shall we dance?」と踊りながら手を取れるような人間を目指したいものです。
わたし、ダンス下手だけど。