¨El Piyayo¨エル・ピジャージョ タンゴス・デ・マラガ を創唱したとされるマラガが生んだ一人のヒターノの話
初めに
タンゴス・デ・マラガを新たに振り付けするにあたり曲を聴いていた時、以前どこかでみたピジャージョの写真をふと思い出し、そこから彼を探す新しい旅が始まった。
今回はその「エル・ピジャージョ」こと「 ラファエル・フローレス・ニエト」についての話。
亡くなる数年前の1936年ピジャージョ本人が語っているインタビュー記事も見つかっている。
それら含め、彼の歩いた道のりや人となりを至らないながら、解釈に間違いがある可能性をも認めた上でこれからはこういう記事も修正しつつ気楽に書いていこうと思う♬
『と、その前に
わたしがこれを書けるのは、internet上であらゆる記述を探し、読み、聴き、年月として遡ると2年半ほどずっと探し続けてきたなかで出会ったピジャージョをフラメンコを愛する方々の存在があるからです。
彼らは長年根気強く、そして本当に本当に熱い情熱をもって探求しつづけている愛好家や研究家の方々であり、本業とは別のところで自分の時間や財を使って続けている人たちも少なくない。
その方達と私は知り合いでもないし直接話したこともないけれど、同じ事柄を見つめている遠くにいる仲間に心から感謝して、わたしもどなたかへ届けられたらいいなと思い書いています』
「タンゴ・デ・マラガ」を創唱した人物としての「エル・ピジャージョ」
◉エル・ピジャージョの位置付け
エル・ピジャージョといえば『タンゴス・デ・マラガを創唱した人物』ということ止まりで、日本でもさほど取り上げられることもなく、フラメンコに関わっている人にとっては恐らくそれ以上に話が発展することも少ない人物ではないかと思う。
フラメンコの歴代のアーティストや曲種などについての記述を読んでみても、「タンゴス・デ・マラガを創唱した人物」だという事以外に彼についての詳しい記述はほぼ見かけることがなく、実際わたしが探して当てて読んだ生前の彼を表現する際の記述においては、「取るに足らない人物、酒飲みで、ゴミを漁り、物乞い」などいい噂は聞こえてこなかった。
◉マイレーナの告白
しかしその『タンゴス・デ・マラガを創唱した人物』というのも実は少し話が違う。
現在フラメンコの曲種として認識されている『タンゴス・デ・マラガ』は、アントニオ・マイレーナによって作られたメロディーや詩節となっており、ピジャージョのオリジナルとは趣が異なる。
このことはアントニオ・マイレーナ自身が1976年セビージャ大学出版の「Las Confesiones de Antonio Mairena」(アントニオ・マイレーナの告白)の中で、1958年にコロンビアからリリースされた「Cantes de Antonio Mairena 」(カンテス・デ・アントニオ・マイレーナ)と題されたLPのなかの『liviana (リビアーナ)』と『tango del Piyayo(ピジャージョのタンゴ)』については自身が再構成しなおしたオリジナルのものである述べている。
その後ピジャージョ自身が直接マイレーナに唄を教えたこともわかり、アントニオ・チャコンもそれを聴いており、さらにチャコン自身がマイレーナのカンテの添削までしたと周囲に話していたという。
マイレーナはそこからヒントを得て自身のオリジナルの曲を仕立てたと思われる。
・ピジャージョ自身は唄の録音を残していないが、彼の弟子の一人であったManolillo El Herraorマノリージョ・エル・エラオルが最も純粋なフラメンコの口伝えという形でピジャージョ本人から聴いている。
1番ピジャージョのオリジナルに近いカンテであるというマノリージョの唄は以下より聴ける
Manolillo el Herraor - Cantes del Piyayo - 1960
彼の弟子とされている人物としては他に、 El Trinitario エル・トリニタリオ、 el señor Antonio “El Moscoセニョール・アントニオ・エル・モスコなどがいる。
◉ピジャージョのタンゴ
マラガの地名や土地出身の演者の名前を冠につけられたマラガのタンゴとは分け、ピジャージョのタンゴは一般的に「ロス・カンテ・デル・ピジャージョ」または「タンゴ・デル・ピジャージョ」として分けて呼ばれている。
詩人のホセ・カルロス・デ・ラ・ルナによって描かれた「エル・ピジャージョ」
スペインではマラガ出身の詩人のホセ・カルロス・デ・ラ・ルナのユーモラスな詩に歌われたことが発端となり、フラメンコとは全く関係のないところで有名人になってしまった。
エル・ピジャージョという一人のフラメンコアーティストの存在が広く人々に知られるようになったことは間違いないようだが、その内容は実際ユーモラスというような表現でもなく、ピジャージョ本人とはかけ離れた人物像として描かれたにもかかわらず、その詩の内容によってピジャージョという人間にまつわる間違った認識が広まりさらにこの詩を元にした映画までもが作られたことで、もっぱら世間のピジャージョへの印象は定着してしまった。
それをピジャージョ自身は不満に思っていたが、二人の間の何某かの取り交わしによりピジャージョは幾らかの金銭と交換条件に和解したようではあるが、、。(さすがに強か)
中でも一番不満に思っていたことは、『タンゴで施しを受けた』と言う点であり、彼は単に自身の芸術によって報酬を得ていたからであるとある。それを聞くとこの何某かの取り交わしで、、の一説はどちらが本当なのか、、。と思わなくもない。
彼が表現したピジャージョの詩。
日本語に私が意訳したものを少しだけ載せる。(間違いはご容赦ください)
(興味のある方は下でご案内するインタビューのリンクで読めます)
ホセ・カルロス・デ・ラ・ルナの詩
『エル・ピジャージョ』
ピジャージョ」を知っている?
黒くて
乾いた小さな老人
雄鶏のような瞳
喧嘩っ早い
狐のような鼻
ケチで
タンゴで施しをこう
ファンダンゴを歌いながら罵る
鼻にかかったこえ
人々のからかい
それはとても私を悲しくさせると共に
激しい敬愛のが私自身に溢れる
体にギターを結びつけ
カラスのように甲高い声をあげる
蝉のようにうなりをあげ
そして年老いてやせこけた肌
彼が歌っているのをみた
涎を垂らしながら
怒りと
ワインの
猫のように飛び上がりながら踊っている
爪を立てながら
(実はこの詩の登場人物は実在する別の存在がおり、その名をEl Rabuo エル・ラブーオという。
それを混同してピジャージョだと思い込んでしまったということがのちの追跡によってわかってきたようだ。このことは更に読み込んでみようと思うが今回はここまでにする)
◉こういったことによってスペインにおいて広く知られている人物像は以下のようになる。
特に年代の古いものほどこういった記述がみられることが多い。
フラメンコと露天商を交互に生業とした。
古ぼけたギターを抱えてゴミ置き場をうろつき、物乞い、大酒飲みの薄汚れたヒターノ。
「 ラファエル・フローレス・ニエト」としての「エル・ピジャージョ」
ほんとの彼はどんな人間だったのか。
彼の幼年期や青年時代についての詳しいことはほとんど知られていないが、研究家や愛好家たちの情熱に満ちた辛抱強い探求や調査によって、気が遠くなるような数のパズルが埋まっていく様に彼の人生の足跡が少しずつその姿を表しているように思う。
特に彼のことを長年研究しているマラガ出身で在住のミゲル・アンヘル・デル・ポソ氏によって多くのことが明かされている。
このページの初めに存在すると書いた「1936年のインタビュー」の内容は「カジェ・デル・アグアCalle del Agua」に2004年に掲載されたインタビュー文章であるが、彼自身のフェイスブックにも掲載されている。
(インタビューは以下リンクのページのコメントの欄を参照ください)本文では上でお伝えしたホセ・カルロス・ルナの詩も読めます
DE CHARLA CON RAFAEL FLORES NIETO EL PIYAYO, por Miguel Ángel del Pozo Tomé
生まれ
エル・ピジャージョことラファエル・フローレス・ニエトは1864年5月1日マラガ、トリニダード地区アレボラド通り11番で生まれ1940年11月25日サンタマリア広場の木造の小屋でその生涯の幕を閉じた。
環境
彼の育ったペルチェルという地区は、純粋なヒターノの住む環境であったのでフラメンコとの関わりは自然にあったと考えられる。
と同時に社会的困窮から盗みや殺人やらが日常的に起こり得る環境にもあったようだ。
その影響からか彼は何度も警察に捕らえられており、セビージャでは食料店(よろずや)の女店主を故意にではないというが銃で撃ち殺してしまう事件も起こしている。
それらは新聞に掲載されたニュース記事によって明かされている。
(デジタル図書館でも見つけられますが、リンク2番目のサイトでは一つ一つ詳細な新聞記事と事件内容を示していますのでそちらで読むことができます。が、気持ちが暗くなるので注意です)
貧しい家に生まれた故に学は受けていなかったが、独学で読み書きを学んだ。
フラメンコの詩についてはキューバの詩人の詩より詩節を学んだようだ。それによってdecima 10行詩8音節の詩が生まれたのだろうと言われている。
家族
生まれて6日後にサン・パブロ教会で受けた洗礼を証明する文書には彼の両親がフアン・フローレスとマリア・フォセファ・ニエトであり、父方と母方の祖父母の名前も書かれており、そのことから後に、父親の兄弟にディエゴ・フェルナンデス・フローレス「エル・レブリハノ」の母がいたことがわかっている。
男の兄弟(人数不明)と妹がいたようだ。
彼自身には子供はなかったが、兄弟ホセの死後二人の甥を愛情深く育てたとある。妹についてはピジャージョのニュースを探していたときにある事件の新聞記事によって偶然見つかったのではないかと私は推測している。
仕事
鍛冶屋、羊などの毛を刈る剪毛人、家畜の仲買人など生きるためにできることはなんでも学び、さまざまな技術を持っていたという。
それが生業とはならなかったが彼はギターと共に歌うことを1番に好んだという。
容姿や人柄
ホセ・カルロス・デ・ラ・ルナの詩の主人公とは全く異なり、実際の彼は背が高く、ハンサムで感じよく話し上手で友人の数は少なかったがとても友好的な人間であったという。
恋愛や婚姻
愛情深く、特にレース売りをしていたラ・チュンガとの結婚ではヒターノの道理に則った婚礼をし忠誠を誓ったという。
だがこの結婚は2週間しか続かなかった。
ラ・チュンガ自身が逃げ出したのか、あるいは連れ去られたのかわかっていないが、どうやら他の男性の存在のために彼の元から姿を消したらしく、以後二度と会うことはなかった。
このことは彼の人生に暗く深い影を落としたという。
その後彼は婚姻関係はないもののマラガのハンポナという女性と出会い、残りの人生を添い遂げることとなった。
旅など足跡
彼はマラガを出てセビージャなどにも住んだことがわかっているが、ギターを片手にアンダルシアを渡り歩き更にはモロッコにあるスペイン自治領メリリャ方面の海峡を幾度も横断するなど旅人でもあったという。
キューバをめぐる北西戦争
彼がキューバにいたということを証明する正式な文書は存在しないが、軍兵士として送られ、捕虜となってキューバの刑務所にいたことも事実のようだ。彼の書いたレトラによってもそれは信用しても良さそうである。
ただキューバ独立戦争は1895年から1898年で実際にアメリカのキューバ独占は1909年まで続く。その時の彼の年齢を考えた時に実際正規軍事兵士として派遣されるのか?とも思う。ただ戦争というのは手があればどんどん送るであろうからありなのか。
以下リンク先のマヌエル・ボルケス氏の記事によると
ピジャージョの従兄弟であるその偉大なカンタオールのディエゴ・フェルナンデス・フローレス「エル・レブリハノ」は、どうやらキューバでの戦争に兵士としてピジャージョと共に参加したようだとある。
MANUEL BOHÓRQUEZ氏による『el correo』の記事
(このマヌエル・ボルケス氏の書く記事はとにかく詳しく凄い!気が付くと検索して読む記事は彼に行き着くことが多々ある。大変お世話になっている)
1936年のインタビュー
このインタビューを写真付きで伝えているブログがあり、そこでトップの画像として掲載した晩年の彼の写真に出会った。
傍に座るのは彼の兄弟ホセの子供の一人だろうか。
波瀾万丈な人生であった彼の晩年は穏やかだったという事も読んだが、写真をみると眼差しが優しい。確かにここに生きていた一人の人がいた。
ÁLVARO SOUVIRÓN氏
DE RAFAEL FLORES NIETO “EL PIYAYO”
インタビューは彼自身が語っている言葉であり、これに出会うまでに乏しい理解力と辞書を駆使して沢山読み続けた彼に関する様々な記述のなかで、正反対にも思える言葉の数々に右へ左へと翻弄されながら『何が一番本来の彼自身に近いのか』を手探りしながら過ごしてきた。それがぼんやりしていた輪郭は少しずつはっきりしてきたとは言えるかもしれない。
彼のインタビューのコメントを抜粋して以下に意訳します。
私は誰か?
私はピジャージョ。ラファエル・フローレス・ニエト。
共和主義者である。
カジェ・カニャベラルあたりで生まれたはず。詳しい年月日は問題ではない。
最初の記憶
ただ空腹を満たすためだけにあらゆるものを探し、空腹や食料やらを分かち合い、あの辺りの通りを走り回った。グアダルメディナ川の対岸にいる富裕層のところへホセ(兄弟)と潜り込んだりもした。
仕事
ロバの毛刈り、櫛やその他の売り手など。
でもあまりそういう仕事をするのは向いていない。商売のために準備しても所詮大したお金にならない。そしてさらにやる気が失せる。ではどうやって食べるのかって?ギターさえあれば少なくともお酒は飲めるよ。
ギター
俺みたいに古くて今にもバラバラになってしまいそうだけど、俺の最高に忠実な友人であり花嫁のように寄り添ってくれる可哀想な愛しい相棒。(彼のギターはマラガのペーニャ・デ・ファン・ブレバに飾られている)
女性たち
ラ・ハンポナ
俺の人生の半分を一緒に過ごしてくれ、不幸にも耐え、息子も一緒に育ててくれた。
マリア・ラ・カナステラも、ラ・ペーナも。
みんなよくしてくれた!
旅
世界中を旅した。
キューバ、アメリカ、セビージャ、多分。
死、牢獄、戦争
俺にはいいことは何もなかった。
刑務所
色んな理由、または理由もなく。刑務所に入った。
小さな盗みをしたり大事なものを守るためなど。
最後に入った時は俺は無実だったが、それでも中に居たかった。
食べ物がよくも悪くも何より温かい。
独房。それでも暗くて汚い小部屋に慣れていた俺には御殿だったよ。
ピジャージョに関する記述のその他リンク
感謝と共に
ここに書いた事の全てはあくまで私の解釈であることを改めて記したいと思います。
彼のカンテについての歌詞やその内容などには触れていません。
あくまで彼自身を知りたいと思ったからです。
他にももっと彼について記載すべき事柄は沢山ありますが、初めに書いたように彼のことを探し始めてから数年経っており一旦ここで一区切りをつけて公開しようと思いました。
何かを知りたいと思ったら求める。
知りたいから求める、でもだから何?それでどうするの?
いつも心を集めて物事に携わり続けたあとに、集中力が切れて無気力になる。
そしてまた求めて歩き回る。
そしてまただから何?それでどうするの?と自分に言う。
でも知りたい。
今回も同じ。彼を知りたいと思う人が大していなかったとしても。
人が一人生きていた時間はただ一つしかないなんだなと改めて思う。
最後までお読みくださり本当にありがとうございました。
また会いましょう♬
flamencoが貴方の踏み出す一歩先を、その先の人生への道を たとえそれが淡くとも ただ静かに小さくゆらぎながらも照らし 励ますような一筋の光になりますように。