約束をしよう(「急に具合が悪くなる」宮野真生子さんの魂を受けて)
私に九鬼周造を教えてくれたのは、哲学者の宮野真生子さんだった。
名前に、「生きる」が入っている。
私の名前にも、「生きる」が入っているのです。
そんな偶然に一方的に縁を感じていた。
この本を読めばそんな話をここでした理由もわかってもらえるだろうと思う。
主に臨床の現場でフィールドワークを行う人類学者の磯野真穂さんと、ガンを患い余命いくばくかの宮野さんの、キャリアと魂をかけた渾身の往復書簡だ。
この本が刊行された今、宮野さんの肉体はもうない。
圧倒的な本で、こうしてこの本について語ろうとするだけで涙が止まらない。
(読んでる最中には過呼吸になりかけた)
それでも、「この本について、口をつぐまないで欲しい」と磯野さんは書く。
レビューを書くのは苦手だから、レビューじゃない何かを書こうと思う。
問い「私は不幸なのか?」
答え「不運ではあるが、不幸ではない」
一方で、不運に打ちのめされ、提示された原因を前に理不尽を受け入れて、100パーセント患者になる人びともいます。もちろん本当は納得していないのかもしれません。しかし、わからないと怒ってもはじまらないし、それなりの原因と結果が提示されていれば、その物語におとなしく従った方が合理的なのかもしれません。
でも、その物語に従うことは、自分の存在を「患者」という役割で固定することにもつながっているんじゃないでしょうか。そのとき、人は自分の人生を手放すことになります。不幸が生まれるのはこの瞬間なんじゃないでしょうか。なんだかとても皮肉なことだけど、不運という理不尽を受け入れた先で自分の人生が固定されていくとき、不幸という物語が始まるような気がするのです。
けれど、私たちはそんなに唯々諾々と不運を受け入れて、「腑に落とす」必要なんてあるのでしょうか。私はないと思います。わかんない、理不尽だと怒ればいい。そんなものは受け入れたくないともがけばいい。
以上5便の宮野球より。
最近もう忘れていることの方が多いけれど、かつての私は不幸に半身が浸かっていた。
何をするにも病気が再発して閉鎖病棟に入れられる未来が脳裏にちらついて、結婚は無理だろう、仕事も簡単なことしかできないだろう、安静に安静に、負荷になるようなことは避けて、綱渡りするように生きて行くしかないだろう、そう思っていた。
このnoteを書き始める前にしばらくブログを書いていたけれど、いつも背中の重い荷物に足を引きずるような気持ちでいた。
あるいは何をするにも「私は運が良かったけれど、もっと不運な人たちがいるのだ」と罪悪感で身動きが取れなくなってしまうことが毎日のようにあった。
素晴らしい本や同僚や友人たちとの出会いで少しずつ力を取り戻して、「私は希望になろう」と決意したのが去年の秋のことだった。
そうして最初にやったのが運転免許を取ることだった。取得したのは今年のはじめだ。
持病があると面倒な手続きがあって難儀したけれど、結果問題なく免許を取得して、週末の買い物の運転をしている(車庫入れを習っていないので苦手だ、バックモニター頼りなのでついてない車は運転できないのでは?)。
これに弾みをつけてどんどん加速し、動乱の香港にも行ってきた。
そうして今はクラウドファンディングの準備をしたり、その他にも心理療法の勉強会を思いつきで企画したり、音楽を作ったり、退屈しない日々を過ごしている。
持てる全ての力と可能性を使い尽くして、十全に生き切りたいとでも言うように。
いわく、信頼とは、
「わからないはずの未来に対してあらかじめ決定的な態度をとること」
たしかに、いくら人間関係の暗黙のルールがあるといっても、それを人びとが守るかどうかはわかりません。人の心はわからない。次の瞬間にむしゃくしゃして暴れ出す可能性だってあります。しかし、そんなはずはないだろうと、未来の未知性を引き受けて、自らはルールに則った行動をおこなう。
いつか必ず死が訪れ、未完結に終わる人間が未来に対しあらかじめ決定的な態度をとるなんてことはできないんじゃないかと。そうやって死の可能性を考えれば私たちは未来に決定的な態度などとれません。
しかし、私たちは約束する。
それは死の可能性を隠蔽しているんでしょうか。そうではないと思います。約束とは、そうした死の可能性や無責任さを含んだうえで、本来取れるはずのない「決定的態度」を「それでも」取ろうとすることであり、こうした無謀な冒険、賭けを目の前の相手に対して、「今」表明することに意味があるのだろうと。
あなたがいるからこそ、いつ死ぬかわからない私は、約束という賭けをおこない、そのわからない実現に向けて冒険をしてゆく。あなたがいるからこそ決めたのだという、「今」の決断こそ「約束」の要点なのだろうと。だとしたら、信頼とは未来に向けてのものである以上に、今の目の前のあなたへの信であると言えそうです。だから和辻は、人間の真実は「人と人との間に」おいて「絶えず新しく起こるもの」と言ったのでしょう。
以上、7便宮野球より。
今の宮野さんはモルヒネも効かない時があり、神経系に効く薬まで追加して痛みをコントロールしている。つまり、急に具合が悪くなるというフェーズがさらに進んでいる状態です。でもそんな状態でもなお、未来に向けて他者とともに何かを生成しようという動きをその人が手放さなければ、人間はこんなにも美しいラインを描き続けることができる。宮野さんからの返信を見るたびにそう感じます。
以上、9便磯野球より。
クラウドファンディングの企画を一緒に進めている友人に、時折告げる。
「死ぬまで一緒に面白いことしようね」
それはこの一冊の本との出会いが背景にある。
これから何度、偶然の不運に打ちのめされても、もう一度、約束をしよう。
出会いを創造に変えて、そうして新しくラインを描き続けて、そうして、事切れるまで駆け抜けよう。
生き切ろう。
明日も旅は続く。
(今年1年を振り返っただけになってしまった、でも文句なし今年ナンバーワンの一冊です。)
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