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たとえば息継ぎかのように

水の上に救いだしてくれるような、手を差し伸べるようなそのひとの音楽と息継ぎだった。

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音楽を聴きに出かけた。冬の夜道を早足で。

くたびれ果てていたけれど、どうにか間に合いそうだと滑り込む。


最後から三番目のお客だったから、案内されたのは後ろからふたつあけた席。

がたがたと木の椅子を引いて、ステージの方を向く。背にしたカウンターに向かってカフェオレを頼んだ。

大きなカップで手をあたためているころに演奏が始まって、わたしの後にはついに誰もやってこなかった。


前にも観たことのあるふたりの演奏。

片方のことはずっと前からよく知っていて、はじめはどちらかというとそのひとの名前に惹かれて聴きにいっていたようなところもある。

何年も前、何度も再生ボタンを押して繰り返したそのひとの演奏は、それからずっと時間がたってもやっぱり好きな音なのだった。

いまそう遠くない場所でそのひとが弾く音が鳴っているのはすごく幸せなことで、わたしはこういうとき、大人になってよかったと思う。


だけど今回はそのひとじゃなくて、もう一方のひとに気持ちを染められてしまった。


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わたしのよく知らないその楽器は、それでもなんだか懐かしいような音がして、

飴色になった椅子やれんが色の階段や、橙色の灯りをぜんぶ包んで溶けていくみたいな音色だった。
つまりは夢のよう、ってことだけれど。


毎日暮らしていく中でこころについてしまう、ささくれめいた傷が平らにならされていく。波立っていた水が穏やかになる。

ふっと力が抜けてしまいそうで、すごくうしろの席だからいいよねと、わたしはちょっとだけ目を閉じる。

そしたら、そのひとの息継ぎが聞こえた。


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音と音のあいまに、浮かびあがるようなながい息継ぎの音。

それはなんだか安心するような呼吸で、目を閉じたまま聞いているうち、わたしはいつしか自分もちゃんと呼吸をできているのに気づく。
いつでも息を止めるみたいにして暮らしていて、知らぬまに勝手にくるしくなったりするというのに。

ねむるような息を、起きているうちにもすることができるなんてわたしにはなかなかないことで。

あれはこうして水の上に出るのだと、教えてくれるみたいな息継ぎの音だった。

溺れていたのを助けてもらったような気持ちだった。

演奏が終わったあとは、心も体も自分のものとして、大きすぎたり小さすぎたりすることもなくもとのところにきちんと戻ったという心地がして
ああわたしは救助されたのだ、とその大きさの意識でそう思ったりした。

過不足なく自分に自分の心身がおさまっていることはとてもいいことだ、とも。

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わたしはよく、溺れているような気がすることがある。
いきがくるしいと思っている時間がひとより長いような気もする。

だからそのひとの音楽はわたしにとって、水の上の息継ぎみたいで。
そしてそのひとの息継ぎの音はわたしのことを、水面へと導く浮力のようで。

また水の上にでたくなって、わたしはそのひとの演奏を聴きに出かける。
そのひとの音に導かれて、呼吸ができる世界に浮かびあがる。そのひとの息継ぎにあわせて水を蹴る。

いつかきっと、息継ぎの必要のない世界に暮らしたい。
そう思うけれどまだしばらくは、沈んだり浮かんだりを繰り返すんだろう。

また溺れる日もあるのかもしれない。
だけどわたしはもうそこに、息ができる場所があるのを知っている。

だからもう大丈夫。きっと大丈夫。

水の上に連れていってくれる音楽を、わたしはちゃんと知っている。



                              


















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