1000のタンバリン
どうやったって自分からは出てこない。
そんな表現に出会ってしまうと、もうそれだけでわたしにとっては
憧れる理由になる。
わたしとは果てしなく異なり、またわたしもその人からは果てしなく異なるということ、それで
自分が溺れずこの位置に立っているのが分かる、ような気がする。
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自分が想像もつかないような表現が、いつだって好きだ。
あんまり格好いいので悔しくなったり、うっかり真似をしてみたくなったりすることはときどきあるにせよ、
それらを想うときわたしの意識は、水の上に出たようにかたちをはっきりする。
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”1000のタンバリンを打ち鳴らしたような星空”
とその人は歌う。
むかし見た、天の川が瞼のうらに浮かぶ。
紺色の空。ほとんど燃えそうに鋭い水色や白の、大きかったり小さかったりする輝きが流れるように束になって頭上にある夜だった。
はじめて聴いた言葉なのに、忘れていたような記憶が一瞬でよみがえり、わたしはその夏の夜をいまや冴え冴えと思い描くことができる。
”1000のタンバリン”
なんという表現ぶりだろう!なんて美しくて、さざめく音が聞こえそうなのに静かで、それでいてあまりにも適切な表現なのだろう。わたしは毎回飽きることもなく感動してしまう。
たとえこれから何年たったとしても、わたしは夜を
”1000のタンバリンを打ち鳴らしたような星空”と表現することはできないだろうなと、その曲を聴くときはいつでも思う。
どうしたらそんな風に、ものを見ることができるのだろう。
どうしたらそんな風に、ものを描くことができるのだろう。
何を持っていて、何を持っていなくて、どこを経由したら一体、その目を手に入れることができるのだろう。
よくよくそんな風に考えてしまう。
それで
たぶんそういう表現ができるひとっていうのは、それぞれ天体の配置のように
どのひともどこからも遠く離れているのだろうと思い、だからきらきらと彼らが光って見えるのだろうと思い、
ならばわたしもそんな風にもっと、どこからもはぐれてしまいたい、なんて思う。すぐに不安になったりするけれど。
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わたしはその人にはなれなくて、その人もわたしにはなれないということ。
それはとても素敵なことのような気がする。
互いに見えないものがあって、それを伝える力があるということ。天体の並びのように、それぞれに離れて立っているということ。
わたしも自分の持ちものを磨けば、その天体の中に入って光ることができるのだろうか。
ああ願わくばそうなりたい。
そうなってみたい、と思う。