不確かな約束
わたしは苦手なものが多いので、とどこかで書いたような気がするけれど
実際のところこれはすごくものやわらかにした言い回しで、
ほんとうは嫌いなものがすごくある。人生というものを送るのがしんどくなる程度には、ある。
わたしの文字を読んでくれるあなたは美しいものが好きだろうし、わたしもできれば美しいものばかりを見て過ごしていたいので、それは表沙汰にはしないほうがいいのだろうなと思っていた。
だけどもうなんか言いたくなってしまった。
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ほんとうのところを言えば、わたしは”約束”というものがすごく嫌い。
生きているのでそれなりにこなせるようになったとは言っても、やっぱり本当はすごくだめなのだ。深刻に考えすぎてしまうのだと思う。
待ち合わせみたいな小さなものは特に苦手で、自分がちゃんとたどり着けるかわからないし、相手がちゃんと来るかどうかもわからなくて、かなり前から泣きそうになってしまう。
場所がどうこうとかではなくて、お互いに違う場所で、動く2点としてそれぞれ生きたままその約束というものを心の中で保ち続けて、さらにそれを実現することなんてできるんだろうかという、そういう種類の不安でいっぱいになるのだ。
”Pacta sunt servanda."
約束は守られなくてはいけないという、どこかで習ったラテン語がわたしの性質を後押しするように頭の中にこびりついて鳴り響いて、自分がそれを守れなかったらどうしようとどきどきしてしまう。
あるいは相手が心のなかにもうその約束を持っていなかったら?持っていたとしても果たせない状況になってしまったら?
大人になってある程度ましになったけど、昔はそうやって考えすぎているうちにほんとうに呼吸がおかしくなったりしてしまっていた。
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自分が約束するときはそんな風だし、相手がわたしに対して一方的にしてくれる約束というのも苦手だ。果たされるかなんて全然わからないから。
なにかをしてあげるよ、と親切心から発せられる約束が特に不安になるやつだ。いつなされるかわからないその約束を待つ不確実な時間がすごく心細いのだ。
子供のころからわたしの場合、そういう約束が果たされたためしはなくて。
わたしは何時間でも信じて待っているのに、約束した当人はあとでねと言い続けた末に約束じたいを忘れてしまっていたり。
あるいはわたしが短気にすぎたのかもしれないけれど。
けどそうして待っているあいだに期待は焦げ付いて悲しみに変わってしまうのだった。むやみに喜ばせることなんて言わないでほしいと子供のころからずっと思っていた。
わたしはすぐ手放しに信じてしまうのだから。
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大人になるにつれて、果たされる約束と果たされない約束、信用していい人間と信用してはいけない人間がある程度わかるようになった。
約束をいくつもこなせるようになった。
だけどこのところすごくよく考えてみて、やっぱり根本的にはわたしは約束が苦手なままだな、と思ったのだった。
わたしの”約束”はたぶんもうちょっと誓いじみて重いのだ。
なされなかった瞬間にそれは嘘になり、裏切りとなり、猛烈な力で憎悪を生み、なされなかった自分という存在を否定するほどには。
不便だなあと思うけれどそれはわたしがするだけだから仕方のないことだ。
そう思ったらちょっとほっとした気がした。
わたしの嫌いな約束を、わたしは誰に対してするのか。誰に対してならしていいと思えるのか。
臆病ながらも信じていいと思えるひとは誰なのか。
そんなこと
最近いろいろ考えている。