連載第6回ヴァン・モリソン「アクセンチュエイト・ザ・ポジティヴ」から聞こえる音楽史 トニー・シェリダン版「ユー・アー・マイ・サンシャイン」にヴァン版とのつながりを聞く 前編
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Van Morrison / You Are My Sunshine
1962年に世にでたもうひとつの「ユー・アー・マイ・サンシャイン」
前回の記事の最後にヴァン・モリソンの「ユー・アー・マイ・サンシャイン」のサウンドの中から聞こえてくるピアノの演奏は、50’sR&Bとロカビリーに流れ込んでいたブギウギ・ピアノの潮流が、現代のヴァンの音楽にも、流れ込んでいることを意味すると記した。
このことはギターの演奏がロカビリー的であることから参考のために聞いた曲、ロカビリーの楽曲としてのジョニー・バーネット・トリオの「ザ・トレイン・ケプト・ア・ローリン」と、その曲のオリジナル・ヴァージョンの録音、ジャンプ・ブルースのシンガー、タイニー・ブラッドショウによるものとの比較を通じて見いだしたことだった。
こうなってくると、楽曲「ユー・アー・マイ・サンシャイン」の録音史の中に、ヴァン版との関連において注目する必要があると思えるヴァージョンが、レイ・チャールズの録音以外にも、まだあることに気がつく。
第4回で述べたように、1962年に、レイ・チャールズの「ユー・アー・マイ・サンシャイン」を収めたLP「モダン・サウンズ・オヴ・カントリー・アンド・ウェスタン・ミュージックVol.2」が発売されたわけだが、同じ年に「ユー・アー・マイ・サンシャイン」の録音を発表しているのがトニー・シェリダン(Tony Sheridan)である。
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トニー・シェリダンという音楽家
トニー・シェリダンについては、なんと
いっても、自分たちの名義のレコードをだして大きな成功を収める以前のザ・ビートルズが、彼のレコードの録音に参加したことがよく知られた事実である。
その録音はザ・ビートルズ最初の商業録音と見ることができるわけで、彼らの歩みをたどる上で聞き落とせない性格のものではある。
私自身もトニー・シェリダンの存在は、ザ・ビートルズとの関わりについての情報を通して知ったわけで、そしてそれ以外のことを彼について知ろうと思ったことも、正直なところなかった。
しかし、今回この人が「ユー・アー・マイ・サンシャイン」を録音しているのに気がついて、従来よりは興味を持ってみると、そうして関心を向けることが無駄にならない存在であることを初めて認識したのである。
とはいっても、私のその認識を、疑わしいと感じる方も、あるいはおられるかもしれない。
確かにトニー・シェリダンという音楽家がどんな資質を、あるいは、その作品がどれだけの魅力を備えていたかと考えてみるなら、大きな注目には値しないのかもしれない。
ただ、いささか気の毒だったと思うのは、ザ・ビートルズとの関わりを、あえて言うなら、持ってしまった不運とでも言うべき成り行きである。
ザ・ビートルズは彼らの足跡の初期においてシェリダンと共演し、その共演後に広く世界に知られる存在となり、音楽の世界に新しいあり方をもたらし、音楽の質の面でも、商業的な面でも大きな成功を収め、当時の社会の中で若者たちに強い影響力のある存在に
なった。
当時、若者たちの動向が、社会の中でたいへんに注目を集めていたということがあったわけだが、そうした中ではザ・ビートルズは音楽の世界にとどまらない存在に、当事者の意志とは関係なく、なっていき、時代の最先端の動きを担っているとみなされるように
なった。
現代において、AIが占めるような位置づけを20代の若者4人のバンドが引き受けることになったのだ。
そうなってしまうと、シェリダンが何を
やってもザ・ビートルズと共演したことにしか興味を持たれない状況になったわけである。
その中で活動を続けるのは、自身の才能、資質を開花させる上で、相当な重荷になっただろうことが想像できる。
彼が音楽家として充分に成長、成熟する道のりを歩んでいれば、イギリスのロック史にもう少し名前の残る存在になっていたかもしれない、そんな気も、彼に関する事実を追い、その歌と演奏を聞くと、しなくはないのである。
以下、ここでもWikipedia日本語版のト
ニー・シェリダンのページと、Wikipedia英語版のTony Sheridanのページの記述をもとにして記していきたい。
イギリスの古都ノリッジで生まれ育つ
トニー・シェリダンは1940年にイギリスのイングランド東部、ノーフォーク州の州都
ノリッジ(Norwich)で生まれた(一方イングランド北西部の街リヴァプール生まれのザ・ビートルズの面々は、ジョンとリンゴがシェリダンと同じく1940年、ポールは1942年、ジョージは1943年が、それぞれ生年であり、加えて、この連載の主役についても書いておくと、第1回で述べたように、リバプールからさらに北西に位置する街、北アイルランドのベルファストでヴァン・モリソンは1945年に生まれた)。
ノリッジという街は古い歴史があるところだそうで(中世に建てられたノリッジ大聖堂とノリッジ城が観光名所のようだ)、古来ヨーロッパ大陸の社会との交流も盛んだった(19世紀に鉄道でつながるまでは、ロンドンに行くよりもオランダのアムステルダムに船で渡る方が早かった)という。
そんなことは20世紀半ばの出来事とは、直接の関係はないわけだが、背景のひとつとして視野に収めておきたいと私は考える。
シェリダンは両親がクラシック音楽愛好者だったので、その影響で自身もクラシック音楽に興味を持ち、ヴァイオリンを7歳の時から習い始めた。
イギリスにおけるロックンロール受容の最先端にいたトニー・シェリダン
しかし、10代になると、ギターを弾き始めて、バンドを組むということになるわけで、このあたりはこの人、10代がもろに1950年代、ロックンロールの時代だったからということになろうし、それは言うまでもなくリ
ヴァプールの4人にとってと同じだったわけである。
ギターを弾いてのバンド活動でシェリダンは音楽的才能を示すことになり、10代のうちからロンドンのクラブで演奏したり、テレビに出演したりした。
そしてシンガーのバックの仕事もするようになり、雇われた中には公演のためにロックンロールの本場アメリカからイギリスにやってきたジーン・ヴィンセント(Gene Vincent)やコンウェイ・トウィティ(Conway Twitty)※17
Reverb(残響追加部)※17
もいて、彼らのバックでギターを弾いたという(以下、それぞれの音楽家についてのWikipediaの記述に全面的に頼って書いていきたい)。
ヴィンセントとの共演は1960年の初頭のイギリス・ツアーの時である。
コンウェイ・トウィティは1958年に彼の「イッツ・オンリー・メイク・ビリーヴ(It's Only Make Believe)」という曲が、アメリカで大ヒットとなったのみならず、海外でもヒットして、イギリスでもヒットチャートの1位となった。
そして1960年にはイギリスで公演を行っていて、コンサート・アーカイヴスというサイトによれば、それはその年の5月の31日に、やはりアメリカからやって来たジョニー・プレストン(Johnny Preston)、フレディ・キャノン(Freddy Cannon)、そしてイギリスのロックンローラーのウィー・ウィリー・ハリス(Wee Willie Harris)と共に行われたもので、会場はロンドンのキルバーンのゴーモント劇場(Gaumont Theatre)だった(おそらくこれ1回きりということでなく、他の会場でも公演はあったのだと思うが、記録を見つけることができたのはこれだけだった)。
このトウィティの訪英の際に伴奏メンバーにシェリダンがいたかどうかは、現時点で私には分からないが、この時にバックで演奏した可能性は高いと考えてよいだろう。
(なお、トウィティのヒット曲「イッツ・オンリー・メイク・ビリーヴ(It's Only Make Believe)」は「思わせぶり」という邦題で日本では発売されたのだという。)
だからシェリダンは10代の終わり頃には、ギタリストとして1950年代末のイギリスでロカビリー、ロックンロールが浸透していく状況の最前線にいたと考えてよいだろう。
ザ・シャドウズ加入の話があった
そんな彼のところに持ちかけられた話が(1958年のことであるようだが)、エルヴィス・プレスリーとリトル・リチャード影響下のロックンロール・シンガーとしてデビューしたばかりのクリフ・リチャード
(Cliff Richardこの名は芸名で、「リチャード」の方はリトル・リチャードに由来するのだという※18)のバック・バンドのギタリストにならないか、というものだった。
Reverb(残響追加部)※18
つまりリチャードのバックのみならず、グループ単独でも活動し、グループとしての
ヒット曲もあるザ・シャドウズ(The Shadows)※19で弾かないかという話である。
Reverb(残響追加部)※19
結局この話は、行き違いがあったようで実現せず、クリフ・リチャードのマネージャーが雇ったギタリストの名はハンク・マー
ヴィン(Hank Marvin)といった。
だから、今日ではエレキ・インストの名ギタリストのひとりとして知られるハンク・
マーヴィンではなく、トニー・シェリダンが、ザ・シャドウズのギタリストになっていたかもしれないのだが、紙一重のところで、その可能性は現実にならなかった。
ジーン・ヴィンセントとエディ・コクランのツアーに参加
1960年には前述のジーン・ヴィンセントのイギリスツアー、これはエディ・コクラン(Eddie Cochran)と一緒のものだったが、その際にヴィンセントのバックを務めたわけである。※20
Reverb(残響追加部)※20
1月から4月まで行われたツアー最後の公演は4月16日にブリストルで行われ、ヴィンセントとコクランは終演後タクシーに乗って、ロンドンへと向かう。
シェリダンも同じ方向に行きたかったようで、同乗させてもらおうとするが断られたという。
コクランにヴィンセント、ツアーのマネージャーに、コクランに曲を提供していた作曲家で彼のフィアンセでもあったシャロン・
シーリー(Sharon Sheeley)の4人がいたということなので、もうひとりは乗せられなかったんだろうと思える。
しかし、そのおかげでシェリダンは、コクランが命を落とし、ヴィンセントはもともと悪かった左足をさらに酷く痛めることになった交通事故(タクシーのドライヴァーは後に裁判で危険運転により有罪判決を言い渡される)には、遭わずにすんだ。
すでに記したように、ザ・ビートルズと共演しても自身の成功にはつながらなかったり、ザ・シャドウズのギタリストになり損ねたり、と音楽史の主役にきわめて近いところに居合わせても、自らは主役の立場からずれてしまうのを運命づけられているようなシェリダンだが、この事故については主役にならなくて命拾いしたと言えるだろう。
ともかく、この自動車事故はロックンロール史の重大事件であった。
といっても、その当時、アメリカでの報道は小さなものだったという。
しかし、イギリスでは大きく報道され、連日新聞の1面で扱われたそうである(ウィキペディア日本語版のコクランの項目の記述による。20世紀も半ばの話だから、新聞報道は現代と異なりジャーナリズムの主役である)。
何より、この出来事はロカビリー、ロックンロールに惹かれていたイギリスの若者たちに忘れ難い衝撃を与えたに違いない。
15歳になる年を迎えていたベルファストの少年ヴァン・モリソンも、そのひとりだったはずである。
前年にバディ・ホリー(Buddy Holly)、リッチー・ヴァレンス(Ritchie Valens)、ビッグ・ボッパー(Big Bopper)の3人のロックンローラーが命を落とした飛行機事故(この事故の日は「音楽が死んだ日[The Day The Music Died]」と呼ばれるわけだが)と同様、この自動車事故はロックンロールの勢いを停滞させた出来事のひとつと受けとめられてきた。
1960年頃という時期には、エルヴィス・プレスリーの登場によって燃え上がったロックンロールの炎に対して、反発、非難があり、そのこととも関わる出来事として、エルヴィスが1958年に、当時はアメリカにしかれていた徴兵制によって軍に入隊することになり、それまで通り活動できなくなったりと、若者を熱狂させたロックンロールの波が弱まりつつあったことが知られている。
そうした流れの一端をなす出来事として、エディ・コクランの死という事態を呼んだイギリスでの交通事故は、見てとれるわけである。
ハンブルクへ
そんな時代のただなかにいたシェリダンは、当時のイギリスの音楽業界で、ロックンロールが弾けるギタリストとして認められていたと言えるだろう。
ただ、その一方で、仕事に遅刻したり、ギタリストなのにギターを持たずにやってきたり、といったことがあったようで、音楽業界での評判は芳しからぬものだったというのがWikipedia英語版の記述である。
そうしたところにもたらされたのが、当時の西ドイツの港町ハンブルクで仕事しないかという話だった。
その話に乗ることにしたシェリダンは、先のヴィンセントとコクランの事故の後、ハンブルクに活動拠点を移す。
このハンブルクでの活動はギタリストとしての活動ばかりでなく、自ら歌って主役と
なっての活動であった。
そこで、やはりハンブルクにやってきて活動し始めたザ・ビートルズとの交流が生まれ、ライヴの場で彼らと共に演奏することも再三であったという。
そんな日々を送るうちに、西ドイツのポリドール(この会社はその起点が20世紀の初めのドイツにある)から録音、レコード制作の話がきたわけである。
広く知られているように、これはザ・ビートルズも参加しての録音をしないかという提案であり、契約であった。
そして、この時点ではリンゴ・スターはグループに加わっていないのもよく知られた話。
そしてシェリダンは、この話も受けいれたわけである。
レコードの録音は、まず1961年6月に行われ、翌年5月と6月に追加の録音が行われた。
これらの録音を収めたLPがドイツ・ポリ
ドールより1962年に発売(Disogsによる)される。
Discogsのトニー・シェリダンのアルバム
「My Bonnie」のページ
以下の音源がこのLPが発売された当時の収録曲の録音、曲順ののものだと思う。
「ユー・アー・マイ・サンシャイン」トニー・シェリダン版
ただしLP収録曲のすべてが、ザ・ビートルズとの共演ではないとされている。
この点、この録音について、さまざまな事実が明らかにされてきてはいるものの、まだ、はっきりしていないこともあるようには見えるとはいえ、収録曲すべてにザ・ビートルズが参加しているわけでないのは、事実であるだろう。
ともかくその西ドイツのポリドールより発売されたLPの収録曲中に「ユー・アー・マイ・サンシャイン」があり、これはザ・ビートルズとの共演ではないという。
もちろん、ここでの主題は「ユー・アー・マイ・サンシャイン」なのでザ・ビートルズのことに深入りするつもりはない。
とりあえず、この曲の間奏で聞きごたえのある演奏を聞かせるサックス奏者がザ・ビートルズのメンバーでないのは確かだろう。
また、やはりこの曲で印象的な演奏を聞かせるピアニストも、ザ・ビートルズのメン
バーでないということになるが、この曲に限らずこのLPで聞けるピアノは、どれもロイ・ヤング(Roy Young)というピアニストだと受けとるのが妥当なのだ。。
聞こえてくるピアノはゴキゲンなブギウギである。
これを弾いていると考えてよさそうなロイ・ヤングというピアニストは、シェリダンやザ・ビートルズの面々と同様にイギリスからやって来ていた。
と、ここまでで、それなりの量の記事になり、この後も長くなりそうなので、いったん区切りとして、以下は、次回、後編に続くとさせていただきたい。
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連載の全体については以下の記事をご覧になっていただければと思います。
ガイドマップ的ご案内+目次 / 連載記事 ヴァン・モリソン「アクセンチュエイト・ザ・ポジティヴ」を読んでいただくに際して
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