【解釈小説】ミルククラウン・オン・ソーネチカ/ユジー
【MV】ミルククラウン・オン・ソーネチカ/初音ミク(本家様)
――今日は、私の戴冠式。
「それでは、戴冠の儀を」
神父の荘厳なその言葉によって、私の義父……、父親が私の頭にそっと王冠を被せる。
私は目を閉じて、それをそっと受け入れた。
「おめでとう、ソーニャ」
そう言ってはにかむ優しい父親。
血は繋がってはいないけれど、まさに「理想の父親」の姿そのものだった。
昔の私たちでは考えられないような美しい宮殿。
新しい父親がいて、母親がいて、兄さんがいて、私がいる。
そしてそんな私たちは、たくさんの人たちに祝福をされていた。
高位貴族である新しい父親。
私たち兄妹は今日、その地位を継ぐための戴冠の儀が行われていた。
とても孤児院で暮らしていた自分の受ける待遇とは思えない。
私から見えているその景観は何て素晴らしいものだろうか。
私は目を開けて、集まった視線に思わず頬を赤らめてしまう。
「ドゥーニャ、おめでとう。ドレスがとても似合っているよ」
兄さんが優しく私の頬に口付けをすると、私の衣装を褒めてくれた。
温かい拍手が宮殿を包み込む。
「ありがとう。兄さんも似合っているわ」
私の兄、ラスコーリニコフは私の賛辞に恥ずかしくなったのかぷいとそっぽを向いた。
誠実であり純朴であるその心はまるで昔と変わっていない。
ああ、今日はなんて幸せな日なのでしょう!
「ドゥーニャ!」
私は自分の名前が呼ばれた事に気付いてはっと後ろを振り返る。
そこには、懐かしい面々があった。
「――皆!」
私と兄さんが育った孤児院の皆。
本来ならばこの場所に立ち寄る事は許されなかったはずだけれど、兄さんがお父様と交渉してくれたのである。
私は嬉しくなって彼らの元へ駆け寄って行った。
「おめでとう、ドゥーニャ」
「ラズミーヒン、来てくれたのね!」
精悍な表情で私の手を取り、ラズミーヒンは私を祝福してくれた。
「ルージンも! あなたは来ないと思っていたのに」
「おいおい……、信用がないなあ」
本物の貴族を前にしても偉そうな態度を崩さないルージン。
しかし、私は彼の心根が本当は優しい事を知っている。
「あらあら、モテモテねドゥーニャ」
「ナスターシャ! 嫌味な口調は変わらず?」
それが私だもの、とはにかみながらナスターシャは祝福をしてくれた。
その後ろでは、忙しいはずのシスターも微笑んでいた。
「ありがとうね、ドゥーニャ。私たちも呼んでくれて」
「私は、そんな……」
皆は暖かくてとても優しい視線で私を出迎えてくれた。
この間に会ったばかりだというのに、彼らと過ごした日々が遠い昔のように感じてしまう。
……しかし、それでも私は当然過ぎる違和感を覚えずには居られなかった。
一人、足りないのだ。
孤児院の子供は私と兄さんも合わせて六人。
私、
兄さん、
ルージン、
ラズミーヒン、
ナスターシャ、
そして……。
「……そうよ、ソーニャ。ソーニャはどこに行ったの?」
私の言葉に皆が沈黙を見せる。
ルージンは気まずそうにそっぽを向いた。
どうしたのだろう?
私の戴冠式には来たくなかったとか?
あの娘ならそんな事言いかねないけれど……。
それにしても空気が重い。
何か、嫌な予感がした。
数舜後、ナスターシャが重たい口を動かした。
「……あの娘は、昨日死んだよ。自殺したんだ」
「――え?」
ショックで目の前が真っ暗になってしまう。
どういう事?
今日は私の生涯で最も幸福になれる日。
そんな日に彼女は何故……。
「気にするなよドゥーニャ! 悲しむなら後で一緒に悲しもう、だから今は幸せを掴むんだ!」
私を気遣ってか、ラズミーヒンが声を張り上げる。
「そう、ね……」
私も精一杯幸せな笑顔を浮かべようとしたが、どうしてか上手く笑顔が作れない。
どうしてなのだろう。
そんな疑念が私の心の中をグルグルと回り続けていた。
彼女は、自殺するような心の弱い人間だったのだろうか?
少なくとも私の知る限りそんな事実はない。
「どうして――」
私は、彼女との思い出を探すように記憶の扉を開けた――。
*
教会に近い、小さな孤児院。
そこに私と兄さんは連れて行かれた。
両親の死後私たちを育てるような裕福な親族は居らず、私たちはこの小さな孤児院に預けられる事となったのである。
孤児院は小さな市街地の外れに存在する、小さな小さな孤児院だった。
孤児院と言っても孤児の数は本当に少なく、院長とシスターの二人が本当に身よりがなくて困っている子供を引き取って育てている小さな孤児院。
善意でこの孤児院を紹介してくれた隣家の方には感謝してもし切れない恩がある。
「私がここの院長よ、あの娘はシスター。子供たちの世話を焼くお手伝いをしてもらっているわ」
院長の言葉にシスターは柔らかい笑顔を見せる。
……優しそう。
それが私が初対面で院長に抱いた感情だった。
孤児院とは名ばかりに、孤児を人身売買の手段として用いる孤児院が何て多い事か。
「ロジオン・ロマーヌイチ・ラスコーリニコフです。そしてこちらはアヴドーチヤ・ロマーノヴナ・ラスコーリニコワ」
「ドゥーニャとお呼びください」
兄さんの言葉に私は小さく二人にお辞儀をした。
当時十二歳だった私たちはこんな粗末な挨拶が精一杯だったのである。
だけどその必死さは伝わったのか、ニコニコと二人は笑顔で私たちを見守っていた。
「それじゃあ子供たちを紹介するわね。皆、集まっていらっしゃい!」
シスターの言葉にここの孤児院の子供たちがわらわらと集まって来る。
あまり多くは居ないと聞いていたが、少なくとも四、五人は居そうである。
「何だよシスター、煙草でも吸わせてくれるのか?」
やって来るなりそんな言葉を放つその少年は、ここで一番の最年長なのだろう。
一番背が高く、一番気性が荒らそうな少年だった。
「こら、早く新しい家族に挨拶をしなさい!」
シスターの言葉にその少年はバツが悪そうに私たちの顔をジロジロと見渡す。
「ピョートル・ペトローヴィチ・ルージンだ」
「ロジオンだ」
「ドゥーニャです」
ルージンの言葉に私たちも軽く挨拶をして会釈をする。
生意気そうで少し苦手かもしれない。
……いいや、そんな事を考えちゃダメ。
私たちは今日からここで一緒に暮らすことになるのだから!
ルージンに次いでルージンの傍らにいる少年が口を開く。
「ドミートリィ・プロコーフィチ・ウラズミーヒン。ラズミーヒンで良いよ」
とても誠実な少年なのだろう。
一目で好感を持てた。もしかしたら兄さんと馬が合うかもしれない。
ラズミーヒン、と名乗るその少年は深々と年下であろう私たちに会釈をする。
「ナスターシヤ・ペトローヴナ。ナスターシャだ」
快活そうなその少女は眩しい笑顔を私たちに見せた。
姉御肌、というヤツなのだろうか。
この三人で全員なのだろうか?
もしそうだとしたら、女の子は二人だけだから何が何でも仲良くならないと……。
疑問を持った私はシスターに顔を向ける。
すると、何やらシスターは複雑そうな顔を浮かべていた。
「ルージン、ソーニャは?」
「知らないよ。またどこかで道草でも食っているんだろ?」
はあ、とシスターはわざとらしい溜め息を見せる。
どうしたのだろう。
「ソーニャ?」
「ああ、ここの孤児院に最近やって来た子だよ。だけどちょっと変な奴なんだ」
――変?
「まあその内戻って来るだろうさ。今日はここの辺りをゆっくりと散歩でもしてな」
そう言うとシスターは去って行ってしまった。
「ま、宜しくな」
ルージンは私に悪戯そうな笑みを向けた。
その後私たちは簡単な書類に記入し、完全にこの孤児院の孤児となった所で院長たちは私たちに小さな歓迎会を開いてくれる事となった。
「ラスコーリニコフ、ドゥーニャ。これからよろしくね」
幸せな時間。
それは一瞬で過ぎ去ってしまうくらい私たちには幸福な時間だった。
やがてパーティーは終わり、私は宛がわれた寝室にナスターシャに手を引かれた。
ただ一つ気がかりだったのは、そのソーニャと呼ばれる少女が私たちの前に現れる事はなかった事だった。
一体、どうしたというのだろう。
そんな彼女を院長もシスターも気がかる姿は一向に見せないのだ。
同年代の少女だと聞いていたので少し残念だな、とその時の私は思っていたように思う。
「……トイレ、行きたいわ」
私は隣で寝ているナスターシャを起こさないように、そっと寝室から抜け出した。
辺りはとっぷりと夜が更けていた。
私はトイレで用を足し終えると、全く新しい風景を少しだけ眺めようと空を見る。
「……あら、誰か起きているのかしら?」
孤児院から少し離れた所にある大木の傍らに、誰かが立っていた気がした。
もしかしたらソーニャという少女なのかもしれない。
私は淡い期待を寄せてその大木の下へと小刻みに駆けて行く。
夜風が肌に少しだけ寒くて、灯りも少ない。
しかし私はその少女をすぐに見つける事が出来た。
「あ……」
美しい少女だった。
しかし、それと同時にどうしようもない恐怖がドゥーニャの脳裏を過る。
透き通ってしまいそうな程に白い肌。
深紅のルビーを思わせるような赤い瞳。
無邪気とも呼べる危うさを持つ少女が、私の瞳を覗き込んていた。
「……あ、あなたがソーネチカ?」
「……」
ソーニャは何も答えなかった。
それどころか私の顔からすっと視線を逸らし、さも興味がないのだと言いたげに虚空を眺めている。
「私、アヴドーチヤ・ロマーノヴナ・ラスコーリニコワよ。ドゥーニャって呼ばれてるの。今日からここに兄と暮らさせてもらうわ」
私は何とか興味を持ってもらおうと自分の事を話し続ける。
しかし、彼女はそれに聞く耳すら持っていなかった。
……もう、知らない!
私はしょげ返りながら寝室へと向かう。
すると、ナスターシャが優しく私を出迎えてくれた。
「その様子だとソーニャと会ったみたいだね?」
「はい、でも全然話を聞いてくれなくて……」
「はは、あの娘は誰とも打ち解けやしないんだ。分かるだろ?」
ソーニャは私に興味すら抱いていなかったように思う。
「はい……」
「だからちょっと軽いお灸を据えてやろうと思ってね。けど、全然効果がないから諦めちゃった」
だから院長もシスターも心配する素振りを見せなかったのね、と私は心の中で一人納得をした。
ナスターシャは優しい笑顔を見せながら、小さく伸びをすると毛布を深く被り直す。
程なくして、小さな寝息がスヤスヤと聞こえ始めた。
……けど、出来れば仲良くなりたいわ。
話しかけ続けていれば、もしかしたら仲良くなれるかもしれない。
私はそんな淡い期待を持ちながら、またソーニャに話しかけてみようと決めて眠るのだった。
それから二年が過ぎ去った。
依然私はソーニャと打ち解ける事は出来ていない。
それどころか、嫌われている気さえ私は感じていた。
*
私が何故前を向く事が出来たのか。
そして何故幸せのチャンスを掴む事が出来たのか。
不幸を象徴するはずの孤児からどうして私は今戴冠式を受けているのか。
それには、院長の死が少なからず関わっていた。
私は孤児院で行われた、院長のための小さなお葬式でずっと彼女の事を考えていた。
身よりのない私たち兄妹を親身になって愛してくれた院長。
彼女によって私は人を愛する事が出来るようになったのかもしれない。
彼女の教えてくれた無限の愛。
私はそれを一生涯、忘れる事はないだろう。
「あれ――?」
自然と涙が零れていた。
私は注目を集めないように、そっと涙を拭う。
振り返ると、皆が泣いていた。
兄も、シスターも。
ルージン、ナスターシャ、ラズミーヒンも。
院長への不満を皆毎日言っていたはずなのに、皆が揃って泣いていた。
しかし、その中でも一人だけ無表情で泣いていない人間がいた。
……ソーニャだ。
彼女は、笑っていた。
私は我を忘れ、溢れ出る激情を何とか押さえつけようと必死で耐えた。
ルージンたちがソーニャを連れ出してくれなかったら、私はその場で発狂していたかもしれない。
私はその時初めて、憎しみを覚えた。
*
戴冠式が終わるまで、私はずっとソーニャの事を考えていた。
どうしても私は、ソーニャがあの時笑った理由が分からなかった。
……そして、どうして、ソーニャは、
「ドゥーニャ」
途中から考え事を始めてしまった私を気遣ってか、兄さんが私の部屋へとやってきた。
既に戴冠式は終わり、現在私は自室で寛いでいる。
「ソーニャの事を考えていたのか?」
「……どうして分かったの?」
兄さんは素直に疑問に思った私を見て苦笑いを浮かべた。
「ドゥーニャが眉の端を吊り上げるのは決まったソーニャの事を考えている時だからね」
「まあ、私ったら……」
いつの間にそんなはしたない真似をしていたのだろう。
せめて戴冠式の間はそんな素振りを見せていなかったら良いのだけれど……。
「それで、どうしたの。兄さん?」
ああ、と兄さんは生返事をして一枚の封筒をポケットから取り出した。
「それは?」
「孤児院からここの当主……、義父さん宛てに手紙が届いていたんだ」
「まあ、お父様の?」
「少し変に思ってね。もしかしたらソーニャの自殺と関係しているのかもしれないって思ってこっそり持って来たんだ」
「まあ、兄さんったら」
兄さんは慣れた手つきで跡が残らないように身長に手紙を開いていく。
「これって……」
「えっ……?」
一瞬、私は自分の見た物を現実だと信じる事が出来なかった。
そこには、義父宛てに「奴隷として買い取るはずだったソーニャ」が死んだといった旨の内容が記されていたのだ。
シスターの、筆跡によって。
*
虐める方もそれなりに心が痛いのよ、と彼女は言った。
その時に見せた悲しい表情はどこへ行ったのか、ナスターシャは既に私の方を向いてはいなかった。
「何泣いてるんだ、俺たちはお前が立派な人間に成れるように教育しているんだよ」
ルージンはそう喚き散らしながら、私の髪を掴みあげる。
ここは孤児院から少し離れた大木の後ろ側。
大声を上げても仕方がない。
孤児院へ届かないばかりか、お腹が減ってしまうだけなのだ。
「いたっ……」
ルージンは私の髪を弄ぶかのようにクルクルとかき混ぜながら、彼は私の髪を引っ張り続けた。
まるで私の痛みの限界を探しているようで、彼は嗜虐的な笑みを浮かべている。
「へえ、化け物の癖に痛みはあるんだね」
ナスターシャは木の上に登り、枝の上から私たちを見下ろしていた。
彼女は決して自らの手を汚さず、ルージンを誘導して自分は一人傍観を決め込んでいる。
私は考える事を止めて、どうしたらこの場を抜け出せるのかを考えてみる事にした。
頭に浮かぶのは常に嫌な事ばかり。
……そうだ、昔ルージンは言っていた!
笑えば大概の事は許してもらえる。
この孤児院に入って来たばかりの私に彼は遠まわしにだが、少しばかり気遣ってくれていた。
……今ではもう見る影もないのだけれど。
もしかしたら、今笑ったら彼はあの事を思い出して許してくれるかもしれない。
そればかりか、自分の行いの過ちに気付いて思い返してくれるかもしれない。
私は、彼が言っていた通りに精一杯の笑顔を作り上げた。
「何、笑ってんだ!」
「あっ……」
ルージンは何かが癪に障ったのか、私の身体を投げ飛ばした。
彼の言った通りにしたはずなのに。
私の身体はドスンと地面に崩れ落ちる。
その瞬間、ボロボロにされてしまった髪が私の視界に入った。
こんなになってしまった髪を院長に見せたら何て言われるのか……。
「ご、ごめんなさ……」
私の謝罪の言葉は、突然辺りに鳴り響いた車の駐車音によってかき消されてしまった。
車は孤児院に用事があるようで、孤児院の裏へ車を停める音が鳴り響く。
「……ルージン、院長の言っていた新しい子が来たんじゃない?」
「だったら俺たちは向かった方が良いかもな。おいソーニャ、お前はここに居ろ」
「私、ラズミーヒンを呼んでくるよ」
二人はそう言うと、孤児院の中へと戻って行った。
私はぽつんと、彼らの動向を見守っている。
私は大木の下へ這い寄ると、そっと座り込んで自分の髪をとかし始めた。
こんなくしゃくしゃ頭を院長やシスターに見せるわけにはいかない。
ああ、今日も最低な一日が始まる。
殴られて、それを隠すためだけの一日。
神様は私の事が嫌いなのだろうか。
「……何で、怒らせちゃったのかな」
そうして私は、今日も決して答えの出ない自己問答を重ね始めるのだった。
「……あ、あなたがソーネチカ?」
「……」
彼女は唐突に、さも当然最初からそこに居たと言いたげに目の前に現れた。
私は突然の事に状況が掴めず、目の前の少女の顔をまじまじと覗き込む。
見慣れない顔。
歳は私と同じくらいだろうか。
彼女の表情は同じ孤児とは思えないくらいに生き生きとしていて、見ているだけで元気が貰えるような少女だった。
十中八九、今日からここに新しく住む事になったという少女だろう。
「私、アヴドーチヤ・ロマーノヴナ・ラスコーリニコワよ。ドゥーニャって呼ばれてるの。今日からここに兄と暮らさせてもらうわ」
そっか、ドゥーニャ。
確か院長もそんな名前の少女とその兄がやって来ると言っていた気がする。
それよりも、ここはどこかしら?
私はぼうっとしながらも虚空を見上げた。
そして、自分の置かれていた状況をようやく理解する。
そうだ、私は確かルージンに髪を掴まれて……。
私は必至で自分の髪を調べて、目立つ外傷がないか確かめ始める。
もし私がルージンに殴られた事が知られれば、彼女はきっとルージン達を軽蔑してしまう。
「……」
また唐突にソーニャは立ち上がり、無言で孤児院へと戻って行った。
いけない、髪を調べるのに夢中で彼女を無視してしまった!
私は自分の愚かさに自省する。
……けど、大丈夫。
彼女はとても心優しそうな顔をしていた。
きっと、分かり合える。
私はもう一度、明日から始まる新しい希望に虚空を見上げるのだった。
*
あの日から二年が経った。
私は未だドゥーニャと打ち解ける事は出来ていない。
それどころか、何となく避けられているような気もした。
――そんな折に、事件は起こる。
院長が死んだ。
棺に納められる妙齢の彼女を見ながら、私はゆっくりと自分がこの孤児院へ来た日の事を思い出していた。
*
「お前さんは成人したら貴族に買われるんだ。それまで傷一つ付けてはいけないよ」
院長は私と話す時に、私の顔を見なかった。
しかし、少しでも私の身体に傷が付いていればそれを目ざとく見つけて叱り続ける。
それを知ってか、ルージンとナスターシャは私の「髪」だけを汚れさせる。
そんな毎日だった。
「――イヤ、化け物!」
これが最後に私が親から聞いた手向けの言葉である。
普通の会社に勤める、普通の父親と普通の家庭を支える普通の母親。
そんな二人から生まれた私はどういうわけか白い身体に赤い瞳をしていた。
禁忌とされるその姿に人は「魔女」と私を罵り続けた。
だから、私に涙なんて出るはずもなく。
私はただ、私を売って金を稼ぐ事すら出来なかった院長を笑う事しか出来なかった。
身内だけで行われるちっちゃなお葬式。
皆が泣いていた。
院長の死を悲しんでいるのである。
ルージンも、ナスターシャも、ラズミーヒンも。
ラスコリーにコフも、ドゥーニャもシスターも誰もが泣いていた。
本当は悲しくなんてないくせに。
私も、こうやって皆のように泣く事が出来ればいいのに。
私は、まるで自分だけが世界から切り離されたかのような疎外感を受けながらも一人考えていた。
泣く事の出来ない自分はガラクタなのだろうか?
隣に座っているドゥーニャは、ただ純粋に院長の死を悲しんでいる。
ああ、私には無理だ。
出来ないそんな才能はない。
出来ないそんな才能もない。
出来ないそんな才能なんて、どこのお店でも売ってくれやしない。
本当は皆お金で涙を買っていて、私だけその事を知らないんじゃないのだろうか。
そんな事を思いながら、そして気付く。
私みたいな不良品は、たとえ神さまだって救ってはくれないという事を。
されど、そんな場所で私は笑ってしまったのでさあ大変である。
私は、ルージンとナスターシャに連れ出されてしまった。
「――お前、どういう事だよ!」
「だから化け物は嫌なのよ!」
二分後、私は彼らによって地に臥されてしまっていた。
彼らどころか、誰も私の心配をして葬儀部屋の扉を開けようとさえしない。
何故彼らは院長というたった一人の人間の死に、これだけの感情が動かされているのだろう。
この世界には何十億人という人間が居て、一分間に百人以上が生まれている。
そして、一分間に百人以上が死んでいるのだ。
そんな大きな世界で院長の命なんて、何て小さな物だろうか!
私が喩えそれを笑ったって、悲しんだって何の得にも損にもならないはずではないのか。
それなのに。
私の身体は何故痛みを感じているのだろう。
「……もう、やめて」
「てめえみたいな人でなし、ぶっ殺してやる!」
「やめなよ、この子は売り物だから後でシスターに怒られる」
私の身体は地を這い、それでも彼は這って立とうとする私に掴みかかる。
何故私はこんなにみじめな態度で許しを請うているのだろう。
私は間違っているの?
私がおかしいの?
私の顔から涙が零れた。
……何だ、泣けるじゃないか。
何で私の涙はこんな時にしか出てきてくれないのだろう。
ただの殴られ損じゃないのか。
葬儀が終わるまで、私は孤児院の大木の近くで待機していた。
物珍しさに葬儀にやって来た人々は私の姿を見ては、憐れみの表情を浮かべて帰っていく。
私に話しかける人間はいなかった。
憐れみなんていらない。
上手に笑うための方法をこそ、私は教えてほしい。
……駄目だ、彼らに罪はないのに。
私は自分の中に眠る黒いものを抑え込み、立ち尽くして泣いてしまった。
*
それから二年の月日が流れた。
私を買い取るはずだった貴族は、偶然葬式に居合わせたソーニャとラスコーリニコフを気に入り引き取ってしまったらしい。
明日は彼らの戴冠式のようだ。
私も彼女のように凛としたすまし顔で笑えたら、もしかしたら……。
けれど、私は何故かそこまで悔しくはなかった。
こんな小さな小さな世界で権利を得て、祝福された所で一体何の得になるのだろうか?
この世に得も損もない。
死んでしまったらもう終わりだろう。
私は、既にそんな小さな世界に興味を失っていた。
私だけが知っている。
小さな、小さな戴冠式。
だけどそれはとても大きな意味のある式典。
私は今日、そこで王冠を被るのだ。
その王冠は私だけを求め、私だけを愛し、私だけを必要としている。
そんな大きな意味を持った世界が見えた瞬間、
私は私の生きている世界がやけにちっぽけに見えてしまった。
だから私は……。
――色づくはずの花が今日また一倫、蕾のままで微笑んだ。