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【短編小説】InfiNight Killed the Radio Star

「ーーこんなこと言ったら俺、また変なキャラ付け始めたんじゃないのかなんて言われると思いますけど、俺、実は見えるんですよね。ユーレイ」

 誰もいない密室で男は雄弁に物語る。しかし、それは決して気が狂ったというわけではない。

「これリスナーの皆さんはまた川辺、会社の人間誰も聴いてないからってまたテキトーなこと言い始めたなんて思ってるんでしょうけど、残念ながらこれ、ホントのことなんですよね」


 ここはとある地方の小さなラジオ局。そして川辺はそのラジオ局のパーソナリティーを務める売れない若手芸人である。川辺はお世辞にも綺麗とは言えないマイクに向かって必死で練り上げたエピソードトークを喋り続けていた。

「皆さんも一度や二度親族のお葬式に参列したことがあると思うんですけど、学生のリスナーさんはもしかしたらまだ経験ないかな? そういう幸せな葬式童貞の方々はご存じないかもしれないですけど意外と明るいもんなんですよね、お葬式って。寿命で亡くなられたような、天寿を全うされたなんて方のお葬式は特にね」

 川辺は焦っていた。三十路が見えてきたところで持っているレギュラー番組というのがこの今はいない相方が近くに住んでいたからという緑色の槍一本で決まったラジオ番組のみ。しかも、放送範囲が狭すぎて数少ない応援してくれているファンも誰も聞いていないという特殊効果付きである。

「……でね、そうじゃない不幸な理由で亡くなられた方のお葬式っていうのはそれはそれはもの悲しいものなんですよ。実は俺、中学生くらいの時にクラスメートが亡くなったことがあって。病気でね。学年じゅうの生徒がお葬式に参列するんですね。で、その亡くなったクラスメートとそれなりに会話したことのあった俺も当然そのお葬式に参列して」

 それでも同期の中では自分たちが先頭を走っている部類であるという状況こそが一番のホラーなのだが、その同期の友人たちに怪談は儲かるという話を聞いた川辺は必死で過去を振り返って自身のホラー体験を探し始めた。生来の生真面目さが邪魔をして創作することができなかったのは川辺の芸人としての最大の長所であり短所でもある。

「……凄かったですね。何がって空気が。病気でまだ成人もしていない息子を亡くしたご家族の、誰を憎めばいいのかすら定まっていない、その今にも爆発するんじゃないかっていう思いが、例えるのは失礼だなんて重々分かっていますけど、職業柄言わずにはいられないというか。まあ、もう時効だとは思うんでね、いや、時効なんて無いのか……。まあ、もう『シン・ゴジラ』なんですよ。言っちゃうと。爆発寸前の。……まあ別にそんな溜めるようなものでもなかったから電波の向こうでも多分スベってると思うんですけど。爆発しないように少しずつ漏れ出てるんですよ、涙とかでね。でもそんなものじゃ全く抑えられない思いが、悲しみが、思念の強みが重力のようにその場を支配するんですよね。で、その光景を至近距離で見ていた俺はこう思ったんですよね。……ああ、ユーレイって実際にいるんだろうなって。だってそうじゃないですか。比べるようなものではないとは思いますけど、きっとこの出来事よりも恐ろしくて残酷なまでのリアルっていうのがこの世の中には少なからず存在していて、強すぎたその思念の残滓が現世にこびりついてしまったのが俺たちの言うところのユーレイだと俺は思っているんですよね」

 本音だった。川辺は実際のところユーレイを見たことは一度もなかった。シャワーをしている最中に背中で気配を感じる、なんてベタな経験は一度や二度はあるものの振り返ってその眼でユーレイを捉えたわけでもない。だから川辺はこの世の中にある大抵のホラー話はフィクションだろうが中には本当のものもあるだろう、そのくらいのスタンスで怪談と向き合うことにしたのである。

「……でね? 何が怖いってこのラジオ、始まってもう4ヶ月になるんですけど今まで1通もメールが届いてないんですよね。今日なんて相方が史上初の性病で入院という理由で欠席しているにも関わらず何の反応もない。作家さんが頑なに聴取率を教えてくれないところを見るに史上初の聴取率0パーセントを覚悟する段階まで来てるんですけど、今日なんてまさかのラジオ放送中に芸人が怪談家への大胆なジョブチェンジをお見せしているんですけどまあ聴取率0パーセントなんで明日からもしれっとお笑い芸人としての活動をさせて頂きたいと思います。ーーそれではここで1曲、『The Buggles』で『Video Killed the Radio Star』」





 曲が流れ始めたのを確認して川辺はカフを下げ、携帯を開く。エゴサは数秒で終了し、一応同僚から何か連絡が来ていないかチェックしてみるものの何の反応もない。性病で入院した相方が放送を聴いていないという事実に苛立ちながら川辺は立ち上がってスタッフに話しかける。

「このゾーン確かフルで曲流れますよね? ちょっとトイレ行ってきます」
「ああ、僕も行きます」

 予算の削減に削減を重ねた結果、音響とディレクターも兼任している作家の和泉のまさかの発言に思わず川辺は眉を顰める。ラジオパーソナリティーがスタッフの数よりも多いという驚異のワンオペラジオについに、誰もいなくなってしまうのだ。ワンオペって言っても深夜のコンビニ店員だってお客がいないと休憩室から出てこないでしょ、とよく分からない理論を零す和泉を無視しながら川辺は和泉と並んで連れションに向かう。

「……そういえば川辺さん、とうとう怪談に手を出し始めちゃったんですね」

 小学生の頃によく遊んだ公園のトイレによく似た、一秒でもここに長居したくないと思わせる雰囲気を醸し出す小便器に向かって用を足す最中、隣の小便器からこの場に似合わぬ間の抜けた声が聞こえてきた。

「和泉さん知らないかもしれないですけど意外と奥が深いんですよ、ホラーって」

 和泉のまるで本業で上手く行かないからって副業に現実逃避を試みようとする自分を嘲るかのような声のトーンに川辺は思わずムッとして思いの外返事をした自分の声が低くなってしまう。

「……そうですよね。ハイ、すいません。実はこのラジオ局で昔、ちょっとした事件があったんですよ。それ以来ここにはちょっとした曰くが残ってまして。で、良かったら川辺さんに話のネタにでもしてもらえればなって思ったんです。川辺さん、珍しくここのラジオパーソナリティーにしてはトーク力がある方ですし、今日だって急遽磯崎さんが不在となった中ちゃんと番組を成立させてくれましたから。……まあそれだけここのラジオ局が雇えるラジオパーソナリティーのランクが低いってことなんですけど」

 配慮という言葉をどこかに置き忘れてきてしまったこの和泉の言葉を、川辺はことのほか信頼していた。嘘つきばかりのこの業界において、本音で喋ってくれる人間というのは貴重な存在だった。

「念のためピンでのトークライブを続けていて良かったです。……それで、その曰くというのは一体何なんですか?」
「――実はね、昔ここで殺人事件があったらしいんですよ。ラジオパーソナリティーがファンによって殺されてしまうという痛ましい事件が。その犯人、何でも犯行を行う前日の朝からこのトイレに潜んでいたらしいですよ」

 その言葉を聞いて一瞬硬直してしまう川辺の姿を見て、ああ、川辺さんは演者だから僕よりも感じる怖さの量が段違いですよねなんて和泉は呑気に呟いた。

「最終回を見れない人って、たまにいません? 漫画だったりアニメだったりドラマだったり。ゲームなんかでもたまにいますよね、ラスボスを倒しちゃったらエンディングが流れてゲームが終わっちゃうからってラスボスと戦う直前にセーブをしてそのまま放置しちゃう人。犯人もそういう嗜好を持つ人間だったそうです。といっても限度ってものがありますけどね。たまたま彼の持つそういう嗜好と、彼の中に眠っていた異常性が結び付いてしまったんでしょう。ですが、何も殺してまでラジオの最終回を聴きたくなかったという動機は中々僕たち凡人に理解することは難しい」

 和泉は用を足し終えると手を洗い、持っていたハンカチで両の手に付着した水滴を拭き取った。

「……で、何で僕がわざわざ殺されたラジオパーソナリティー側ではなく、殺したラジオリスナー側の話をしたか分かります?」
「いや……」

 分からない。分かりたくもない。しかし、川辺にはお笑い芸人のプライドにかけてトークのネタになりそうな話を聞かないという選択肢は最初からなかった。

「このラジオ局に残る曰くとは、殺したラジオリスナー側の霊がこのラジオ局で相次いで目撃されたことによって生まれたものだからです。自殺したんですよ、犯人。敬愛するラジオパーソナリティーを殺した後に川辺さんたちが毎週ラジオを放送しているあのラジオブースでね」
「……」

 コイツもしかしてホラ話(ホラーだけに)でビビらせて俺たちがラジオを自主降板をするのを待っているのではないだろうか。だがそれだったらそのフリの部分で自分のトーク力を誉める理由もよく分からない。好きだからこそ終わって欲しいんならコイツが件のラジオリスナーなんじゃないのか。てかもしかしてコイツ幽霊? だったら俺たちは毎週幽霊と一緒になって愉快なラジオをお届けしていたということになる。そりゃあ誰も聴けない訳だ。
 なんてしょうもない妄想をして川辺は現実逃避をしていると、曲が終わって聞き慣れたCMが流れ始めた。川辺は持参していたウェットティッシュを取り出し、丹念に両手を拭く。

「――ではなぜ殺された側ではなく殺した側が化けて出ることになったのか、殺された側と同じ立場の川辺さんはどう思います?」
「……そろそろ戻らないと間に合わなくないですか?」
「走って戻れば余裕で間に合いますよ。それに、少し遅れたところで大して苦情も来ないと思いますけど」
「……」

 川辺は内心、コイツマジかと思いながら極めて冷静な表情を保ち、和泉の次の言葉を促す。最終的に笑い話になれば得をするため何事もポジティブに挑戦できるのがお笑い芸人の数少ない良いところだ。聞き切った結果、死ぬことにならなければの話だが。

「川辺さんの理論に則ってお話させて頂くと、殺されたラジオパーソナリティーの怨みなんてたかが知れているからだと僕は思うんです。曲がりなりにもラジオのパーソナリティーにまで漕ぎ着けた人間は既にある程度満たされてしまっている。それがどんなに小さな仕事でも。だけど、この世にはたったの一つもチャンスを手に入れることができない人間だっている。僕は、あのアイドルプロデューサーが逆恨みしたアイドルに刺されていないことがもはや奇跡だと思う時があるんです」
「へぇ……」
「ネットでオモチャにされるような人ってたまにいるじゃないですか。インターネット上以外でも、現実で自分たちの属するコミュニティーの中にも少なからずそういう人間は存在する。僕たちは口では差別なんてしないと簡単に言いますが、無意識の内に心のどこかでバカにしてしまっている。自分より下の人間を見て安堵し、精神を落ち着かせる作用を心理学の世界では『パーセイヴ効果』と呼ばれているそうです。そしてそのラジオリスナーは、そういった『パーセイヴ効果』の対象とされるような人間だったそうです。
『パーセイヴ効果』には未だ解明されていない、もう一つの作用があると言われています。それは、バカにしていた当の本人が『パーセイヴ効果』に依存してしまい、段々理性を失っていってしまうという作用です。一説によれば脳内麻薬に似たものが分泌されているのではないかと言われていますが、僕はこれ、本当はバカにしていた対象に呪い殺されようとされているだけなのではないかと思っているんです。
 ……川辺さんはラジオのオンエア中、凄い良いようなことを言ってましたよね。ただ、一つだけ気になっていることがあります。それは在学中に病気で亡くなるような生徒が、全く前兆がないなんてことはないのではないかということです。川辺さんはその方を、バカにしていたなんてことはないですよね? ――本当はその人、自殺したんじゃないですか? 芸人さんが都合よく話を改竄するなんてよくある話ですからね」

 携帯の時計は現在4時42分を指しており、ここからダッシュでブースに戻ればラジオ再開の4時44分には余裕で間に合うだろう。

「……このゾーン、毎回4時44分から再開してません? 何か凄い不吉なんですけど」
「それって気のせいらしいですよ。偶然そういった珍しい光景を見たときの印象が強く残っているだけで、実際はそうでもないって何かの本で読んだことがあります」

 そして、ラジオの最後のゾーンが始まった。





「いやー、休憩中に和泉さんを問い詰めたんですけど全ッ然教えてくれる気配なかったですねー、聴取率! というか皆さん気付いてました? 毎回このゾーン、4時44分から再開してるんですよ。不吉すぎません?」

 和泉の言葉は半分は当たっていて、半分は間違っていた。川辺の死んだクラスメートは自殺をしたわけでも何でもなく、本当に病気で亡くなったのである。川辺はその男子生徒の親類でも何でもないただのクラスメートだったのだから実際のところはどうだったのかは分からないが、大前提としてアイツは心臓を悪くしており、それは周知の事実であった。
 川辺は一度だけ、その男子生徒を傷付けてしまったことがあった。もはや何を言ったのかすら正確には思い出せないのだが、その言葉はその男子生徒を傷付けようとして放ったものではないということだけは川辺は神に誓って言うことができた。後々考えれば別の受け取られ方をされてもしょうがないとふと思い返し、それと同時に川辺はその男子生徒の一瞬沈んだように見えた表情が何度もフラッシュバックするのだった。

「――っていうか、磯崎から折り返しの連絡が来ないの、本当に信じられなくないですか? ……そりゃあ入院先の都合でもしかしたら聴くことができない環境にいるのかもしれないですけど、それにしてもこっちから電話をかけるノリになるかもしれないんだからせめて断りの電話を一本くらい寄越すのが常識だと思いません?」

 どうしてこの世は平和になることはないのだろうか。その答えは簡単で、なぜなら社会に出ている1割はいじめっ子で、8割はそれを見てみぬフリをしてきた人たちであり、9分がいじめに遭遇しなかったラッキーな人たちで、1分がいじめに打ち勝った人たちだからである。残りは死んだ。大人になって自らの過ちを悔いた人もいるのだろうが、実際に謝ることができた人間はきっと1パーセントにも満たないのであろう。そんな社会に身を置いているのだから元々自浄作用なんかを期待する方が無理な話というわけである。川辺は、和泉の言葉によって想起された罪の意識をこう考えることで何とか押さえ付けようとしていた。誰も聴いていないとはいえ今は仕事中である。川辺は心の中で何度も謝罪を述べると、段々と落ち着きを取り戻し、身体がリラックスされていくのが分かった。突然豹変した和泉の姿に、気付かないうちにショックを受けていたのだろう。川辺はブース内の時計に目をやって、残り時間から喋るトークの内容を逆算しようとする。すると、とある違和感にようやく気が付いた。

「……ってアレ、和泉さん。もしかしてですけどあの時計壊れてません? さっきからけっこう喋ってるつもりなんですけど一向に4時44分から動かなーー」 

 川辺がブース内にある壁掛け時計を指差した瞬間。ピン、と空気が張り詰めていくのを感じていた。やけに頭の中がハッキリとしていて、それと反比例するかのように喉の調子がおかしくなっていくのが分かった。次に喋ろうとする内容が無限に脳から生み落とされるのに、どんどん川辺の口の動きは遅くなっていくのである。

 明らかに異常事態だった。

 そしてふと川辺はサブ室を見て異変に気付く。和泉がいない。ラジオ中における作家の役割とはブース内で相づちを打ったりカンペを出したりすることが挙げられるのだが、このラジオ局において和泉は音響とディレクターも兼任しているためいつもサブから川辺らパーソナリティーに向かってカンペを出していた。その和泉がいないのである。
 磯崎が入院しているため今日はこのラジオブースには最初から川辺以外誰も存在しない。それどころかサブにも誰も存在せず、川辺の視界に収まる空間全てから誰の存在もなくなってしまっていた。

「……電池切れですかね。今和泉さんが電池を買いに走って行ってるのでこのラジオブース内には僕しかいません! 全く、どんなラジオなんですかも~」

 相変わらず動きの遅くなり続ける口から出任せを発しながら、川辺は段々背筋が凍り付いていくのが分かった。川辺がユーレイ側の立場だったのならばこう思うだろう、準備は整ったと。
 後ろは振り返ることができなかった。今にも黒い影のようなものが鎌をこちらに振り下ろそうとしているのではないか、そんな非現実的なイメージが何度も何度も川辺の脳裏をフラッシュバックし続けるのである。それが曰く付きのラジオリスナーであるのか、件の男子生徒なのか、はたまた『パーセイヴ効果』によって理性が段々失われようとしているのか。それを考えるだけで川辺の頭は悲鳴を上げるかのようにズキズキと痛みを訴え続けるのであった。
 そんな中、川辺は痛みとは裏腹に冴え渡っている脳内から生み出した一つの仮説に基づき、携帯を開いてとある言葉を入力する。いつの間にか、携帯を操作する右手さえも脳からの伝達通りに動いてはくれなくなっていた。川辺は可能な限り不要な言葉を削ぎ落とし、必要最低限の単語のみを入力して検索する。

「……やっぱり、そういうことだったのか」

 川辺が入力した言葉は『パーセイヴ効果 心理学』。そんな言葉、この世には存在しなかったのである。

 突然動かなくなってしまった壁掛け時計、そして豹変した後に消えてしまった和泉。性病で入院というアホみたいな理由で欠席している磯崎も踏まえればドッキリをかけられていると考えるのが妥当だが、残念ながら川辺らクラスの若手芸人にかける理由が見当たらない。このラジオ局のSNSに上げる用の動画にしてはドッキリのレベルが高度すぎるし、ただでさえ予算がないにも関わらず時計を細工したり肉眼で見つけることができないようにカメラを設置することなんてほぼほぼ不可能だと川辺は確信していた。
 次に、これが心霊現象である可能性だが『パーセイヴ効果』が完全なる嘘っぱちだったことからその可能性もグッと低くなったと言えるだろう。ということはーー。川辺は止まらない思考を能動的に動かし続けながら壁掛け時計にもう一度視線を向ける。
 ……やっぱりそうだ。時計の針が4時45分を指し示した。ほんの少しずつではあるが、時間は着実に進んでいる。決して時が止まったわけではない。川辺は脈打っているはずなのにいつの間にか死んでしまったのかと錯覚してしまうほどのスピードで動いている心臓を右手で押さえ付けながら決してオンエアには乗らないような小声で呟いた。


「ーーもしかして俺、ラジオのオンエア中にゾーンに入って抜け出せなくなってしまったのか……?」


 気付かない内に条件は整ってしまっていたのだろう。川辺は芸人になってから未だ目に見えた結果は出せていないが、少なくとも空いた時間があればサボらずに努力をし続けてきたつもりだった。小さいラジオ局ながらもレギュラー番組も決まり、同期の中では先頭を走っているという自覚もある。とはいえ、ラジオ番組で固くなりすぎるのも良くないと考えて出来る限りリラックスをするように心がけてきた。そして何より、今日は緊張こそしていたものの最初からすこぶる調子が良かったのである。それはもう、普段はコンビでやっているラジオ番組を初めてピンで行う違和感を感じさせないほどに。
 スポーツ選手のインタビューかなんかで「相手の動きが止まって見えた」なんて言っているのを川辺は見たことがあったが、まさか地方のラジオ番組でゾーンに入ることになるなんて思いもよらなかった。心霊現象ではなかったことにホッとしながらもだったら和泉のあの豹変はマジで何だったんだ、それこそまさにホラーじゃねえかなんてことを川辺は考え始めた瞬間、冴えすぎた脳によって見つけてしまった落とし穴に冷や汗が再び溜まり始めて行く。

「……待てよ? ゾーンって一体いつになったら終わるんだ?」

 何となく、ゾーンとはスポーツ選手のみが会得することのできる特殊技能だと川辺は思っていた。
 だがよくよく考えてみれば勉強やバイトをしている最中にいつの間にか他のことが全く気にならなくなる極度の集中状態に入ることが川辺は昔から少なくなかった。あの現象をゾーンのレベルの低いものだったと捉えれば川辺自身の努力によって今起きている超ゾーン状態にもある程度の説明が付いてしまう。
 もしこの超ゾーン状態に自在に突入することができれば大喜利やトークの返しなんて考えたい放題だが、もしかして第一線で活躍しているテレビの先輩方はみんなこの超ゾーン状態を会得している? まさか『IPPONグランプリ』に出場するにはゾーンが必須条件だったなんてことはないだろうな……、なんてことを川辺は一瞬考えるもののすぐに現実へと帰ってくる。問題は、この状況から抜け出すことのできる手立てが一切不明であるという一点に尽きるのだ。時間の経過によってこの状態が解除されるのであれば話は早いのだが、この超ゾーン状態がいつ解除されていつまた突入するのか、全く不明なのである。普通、ゾーンっていうのは楽しい夢と同じで抜けないように抜けないようにするものじゃないのか。それが、いつまで経っても終わる気配がないのがより一層川辺の恐怖感を増幅させていた。
 もしこの事象が、川辺が知らなかっただけで他の人間にとってはよくある話で、訓練によって制御可能であるとするならばそれは川辺のこれからの芸人人生にとって大きなプラスとなるだろう。
 だが、もしこの状態が後天的な脳の異常であったのならば途端に話は変わってくる。例えば、この超ゾーン状態に突入するトリガーが何かに集中することであるのならば、今後一切自分は何かに集中することができなくなるのではないか。そうであったのだとすれば、もしこの超ゾーン状態を克服することができなかったのであれば、今後社会的な生活を送ることがほぼほぼ不可能になるのではないか。そんな一抹の不安が蓋をしていた川辺の心の奥底から這い上がり、ピアノ線のようなもので心臓を締め付け始められるような痛みを感じていた。
 時計の針がようやく4時47分を指し示した。川辺の体感ではもう2時間のラジオを3周しているかのような疲労感さえ感じていた。永遠とも感じる時間を過ごしながら、川辺の脳裏にはあの男子生徒が再びフラッシュバックし続けていた。

 きっとそうなのだろう、そんな確信めいたような考えが川辺の頭の中を支配し始めていた。

 降板すれば、全てが終わるのではないか?

『パーセイヴ効果』ではないことは確定したが、これがあの男子生徒の呪いである可能性と後天的な脳の異常である可能性、その内の1つを今降板すればすぐにでも消すことができる。何なら、降板した途端に目が覚めて何だ、これは夢だったのかと悪態をつきながら小さな幸せを享受できる可能性だってあるのだ。どうせ誰も聴いていない、ラジオ局が予算の都合で空いた時間を埋めるだけの意味のないラジオ番組である。辞めたところでこの世界には何の影響もない。もしラジオ番組を降板しただけでは呪いが解けなかったのだとしたら、芸人だってやめてしまえば良い。所詮、俺は命とお笑いを天秤にかけたら命を取ってしまう臆病者なのだ。そんな奴の代わりなんて幾らでもいる。事情を話せばきっと磯崎も分かってくれるだろう。高校からの付き合いだ、俺はアイツが命を張ってまで芸人を続けろなんて言わない優しいやつだと知っている。川辺はブツブツと何かを呟きながら、意を決したかのように渇き切った口をゆっくり、ゆっくりと開けた。

 これは、きっと罰なのだ。他人を傷付けた自分がお笑い芸人になって誰かを笑わせる資格なんてない。それはなんて、なんて虫のいい話なのだろう。

「――いきなりですが、今日は皆さんにお伝えしなければならないことがあります」

 川辺の視界の隅で慌てた表情の和泉と磯崎、そして数名のカメラマンがラジオブースに向かって飛び込んでくる様子が見えていた。しかし、もうそんなことは川辺にとってはどうでも良かった。
 教室の隅で「どうして誰も分かってくれない」「俺だけが特別だ」と考えいたあの生徒も、勉強をして振り返ってみれば「端数」として処理されていただけのことだったのである。

 再び、川辺は背後に黒い影のようなものが蠢く気配を感じていた。影はそっと川辺の肩を叩く。ひんやりとした鎌の感触を川辺は左頬に感じていた。

「『ニュー・シネマ・パラダイスのニュー・ラジオ・パラダイス』は残念ながら今週で最終回です。リスナーの皆様、短い間でしたが応援ありがとうございました」

 そして鎌は勢いよく振り下ろされた。



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