百人一首に選ばれた人々 その43

 第八番歌 喜撰法師
「わが庵は都のたつみしかぞ住む夜をうぢ山と人はいふなり」

 なんだ、この歌は少しも面白くないではないか。それが、私が百人一番歌に触れたまだ幼かった頃の印象だった。そういう正直な感想だった。
 しかし、小名木氏によると、「うぢ」とは「氏」の事でもあるという。「氏」とは大伴氏とか物部氏のような、朝廷での官位に基づく同族、または出雲氏とか尾張氏のような゜同じ土地に住む集団のことを指すという。そして、「大化の改新」で公地公民になったので、新たに開墾された新田の主にも「氏」が与えられた。つまり、この喜撰法師の歌は、「氏」を持つことができた人々の喜びを詠ったものだというのだ。そのように解釈すれば、今までつまらないと思っていたこの歌が、急に輝かしく思えてきた。
 
 第十番歌 蝉丸
「これやこの行くも帰るも別れては知るも知らぬも逢坂の関」

「行く」と「帰る」、そして「別れる」と「あふ(逢う)」、さらには「知る」と「知らぬ」と対になる言葉を重ねていく。
「生者必滅、会者定離」という仏教の言葉を思い出さなくとも、無常とは常に変化する事だから、出会いがあれば別れがある。先ほどまでは「知らぬ人」だったのにもう「知り合い」になったということは頻繁にある。そして、長い間の知人、友人だった人と、永の別れをしなければならなくなることもしばしばある。
 さて、舞台は「逢坂の関」という難所である。人が移動する度に出会いがあったり、すれ違いがあったりすることを繰り返す。そこを行き来する人々は、「おほみたから」、つまり公民である。支配者の奴隷としてではなく、誰にも支配されない公民である。「大化の改新」のによって、すべての人は「おほみたから」となったのである。
 和歌のひとつひとつにそのような意味を見いだし、百首を選び出し、一つのまとまったものとしてくれた藤原定家には感謝しかない。
 
 この三人は出家したかはさておいても、遁世的人々であることは間違いない。明らかに出家した人々も百人一首の中では数多い。いちいち列挙することは控えるが。
 目崎徳衛の解説によれば、折口信夫はこれらの人々を「女房文学から遁世文学へ」という一語で示したという。折口の解説はここでは引用しない。
これらの人々の境涯を端的に示す言葉がある。それは「数寄」ということだ。鴨長明の『発心集』から引用する。
 
 引用ここから
 数寄といふは、人の交はりを好まず、身の沈めるをも愁へず、花の咲き散るをあはれみ、月の出て入りを思ふに付けて、常に心を澄まして、世の濁りに染まぬをこととすれば、自ら生滅のことわりも顕れ、名利の余執尽きぬべし。これ、出離解脱の門出に侍るべし。
 引用ここまで
 
 さて、この章の冒頭で取りあげた三人は正体不明であり、架空の人物なのではないかと思われる人達だ。定家がこれらの歌を入れたのは、同時代の優れた遁世歌人の系譜は、古来から連綿と続くものだと強調したかったからではないかとも考えられると目崎は言う。彼は定家の『明月記』には法然・明恵・文覚、さらに唱導の澄憲・聖覚など多種多様な遁世の系譜の人々が出てくるという。そして、それは定家のみならず、中世文化人の関心事でもあったという。遁世者こそが王朝古典文学を中世へ橋を架ける役割を担う人々だったという認識だ。
 
 さて、まず猿丸太夫だが、その名は『古今集』の真名序にはあるが、仮名序にはない。『古今集』入っている「奥山に」の歌は「よみ人知らず」となっているのだ。百年後に藤原公任が『三十六人撰』で猿丸太夫の作とした。
公任はこの歌の他に二首を取り上げ、猿丸太夫の作としている。
「遠近のたつきも知らぬ山中におぼつかなくも呼子鳥かな」
「日ぐらしの鳴きつるなべに日は暮れぬと思へば山の陰にぞありける」
そして、この二首も『古今集』に気はいっているがどちらも「題知らず」、「よみ人知らず」である。山中に隠遁する人を思わせるような歌である。
 
 その次は喜撰法師だが、『古今集』にはこの一首しか採択されていない。後の勅撰集では『玉葉集』巻三夏の次の歌が入った。
「樹の間よりみゆるは谷の蛍かもいさりに蜑の海へゆくかも」
「我が庵は」の一首のみ残して宇治の山中に消えてしまったこの法師は、素性法師よりも遙か以前から山中にわび住まいをする伝統があったのだという象徴なのだろう。
 
 蝉丸の「これやこの」の歌は『後撰集』雑一に採用されている。蝉丸の歌は撰集に以下の三首が採用されている。
「秋風に靡くあさぢの末ごとにおく白露のあはれ世の中」
『新古今集』雑下
「世の中はとてもむかくても同じこと宮も藁屋も果てしなければ」 (同)
「逢坂の関の嵐のはげしきにしひてぞゐたる世を過ぎむとて」 
『続新古今集』雑中
 
 その他にも定家の歌論書『僻案抄』にも他の三首が取り上げられている。
「世の中はいづれかさしてわがならむ行きとまるをぞ宿と定むる」
「相坂の嵐の風は寒けれど行方知らねばわびつゝぞぬる」
「風の上に在所(ありか)定めぬ塵の身は行方も知らずなりぬべらなり」
 この三首の歌は、蝉丸がよめりけるを古今には作者をあらはさゞりけり。後撰にはむ作者を書けるなりとぞ、金吾申されける。古今さづけられける時の物語りの内なれば、指せる事ならねど之を書き付く。
 
「金吾」とは父・藤原俊成の師である藤原基俊のことを指す。つまり、定家は藤原基俊の説に従って、古今「よみ人しらず」歌の時期の人と見ていたようだ。これらの「蝉丸」の歌は伝承歌にすぎない。だから、「蝉丸」は個人の名前ではなく、逢坂を往来した漂泊芸能者の象徴なのだろうと、目崎徳衛は考えている。
 
 猿丸太夫・喜撰法師・蝉丸の三人は実在したかどうかも不明である。だが、遁世者全盛の時期に、古代からの遁世者の伝承歌の呼びかけを定家はしっかり受け止めていたのだ。
 

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