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鈴木真砂女 その1
過去は運にけふは枯れ野に躓けり
真砂女の人となりや来歴については余り知らないけれど、不羈奔放な人だったようだ。この人の生き方を見ていると、数奇な運命に翻弄されているようでもあり、自由闊達に何物にも囚われることなく生きたようでもある。
私達が躓くのは運命になどではない。自分の思い込み、感情、欲望、情熱、夢、希望、考え方、思考、能力などに躓くのである。起伏のある人生には蹉跌はいくつもあるのが普通だ。蹉跌も後悔もない人生などあるはずもない。宮本武蔵が「我事に於いて後悔せず」と言ったのは、後悔しても仕方が無いから、過去は振り返らないのだという意味で言ったのだと思う。普通の人はそこまでの覚悟はないので、悔いだらけの人生になってしまう。ただ、何時までも悔いを引きずっていると前に進めないのも事実である。
人宥す齢を涼しと思ひけり
人間は業が深い。業が深いのは、自分が物事の判断の基準になっているからだ。業が深い分だけ、他人に厳しくなるのは当然である。
せっかちな人間は、何もかもさっさと前に進めないと気が済まないが、のんびりした人は、そのせっかちな人がすることを見て、何をそんなに慌てふためいて事を運ぶのだと思う。せっかちな人は、そののんびりした人を見て、こいつはのろまな奴だ、どんくさいなと思う。
血気盛んな中年の頃までは、しかし、そんなことには気が付かない。大抵のことは支障なくほとんどそれで済ませられるのだ。なぜなら、心の中でそう思っていても、口に出さない限りは、問題にならないのだ。その業の深さを口に出したり、態度に出したりしてしまったために、大喧嘩したり、決別したりする事は、もちろんあり得る。
やがて、どんな人でも老いてゆく。すると、不思議なもので大喧嘩した相手や決別した人のことを懐かしんでみたり、自分の生き方を反省したりすることがある。そういうときに最も勇気がいるのが、この「宥す」ということである。これが出来たら人間としては、かなり上位の部類に入れるだろう。それほどに難しいのだ。
それとは正反対に、長年特定の相手を恨み続け最後の最後まで恨んでいるというような状態では、安心してあの世に逝けない。そういうのは自分が損をするのだと思うのだが。