百人一首に選ばれた人々 その32
第六十三番歌 左京太夫道雅
「今はただ思ひ絶えなんとばかりを人づてならでいふこともがな」
第五十六番歌に出てきた人物に、儀同三司母という人がいる。その人の孫に当たる藤原道雅がこの歌の詠み人である。
「今となってはあなたのことを諦めるしかない。その思いを人づてではなく、あなたに直接伝える手段はないかと思うばかりです」というのがこの歌の意味だ。ややこしい掛詞や技法は用いずに、真っ直ぐに相手の女に対しての思いをぶつけている。藤原の道雅の祖父は藤原道隆で、関白にまで上った。父親は儀同三司母と藤原道隆との間に生まれた藤原伊周だ。
道雅は26歳で従三位にまで上った。道雅は、第67代三条天皇の第一皇女当子(とうし)内親王との恋に落ちた。ところが、三条天皇はこの当子内親王を非常に可愛がっていて、良い結婚相手をさがしてやろうと思っていた。我が儘で身勝手な道雅は、三条天皇のお眼鏡にかなわなかった。
三条天皇は当子を母の娍子(せいし)のもとに引き取らせ、当子内親王と道雅の手引きをした乳母の中将内侍までも宮中から追放した。当子内親王は落飾して23歳の若さで亡くなった。
万寿元年(1024年)12月6日に花山法皇の皇女である上東門院女房が夜中の路上で殺され、翌朝に死体が野犬に食われた姿で発見された。この事件は朝廷の公家達を震撼させ、検非違使が捜査にあたり、翌万寿2年(1025年)3月に右衛門尉・平時通が容疑者として法師隆範を捕縛する。検非違使が尋問するも隆範は口が堅く、7月25日になってようやく隆範は道雅の命で皇女を殺害したと自白する。この自白の連絡を受けて、権力者の藤原道長・頼通親子も驚嘆したという。
道雅にはこのほかにも乱行があり、「荒三位(あらさんみ)」と呼ばれた。家柄に地位にも恵まれた男だったが、我が儘で身勝手な道雅を娘の相手にはふさわしくないと三条天皇は見抜かれたので、二人を引き裂いた。娘の当子内親王は辛かっただろうが、父親の三条天皇はもっと辛かっただろう。二人の愛の成就よりも、上の人間は正しくあらねばならないとの思いから、道雅のような我が儘で身勝手な男から、娘を守るために二人の仲を引き裂いたのだ。
道雅の祖父は藤原道隆、祖母は高階貴子である。女ながら真名(漢字)もよく掛けた。天皇の身辺に奉仕して「高内侍」(こうのないじ)と呼ばれていた。この二人の間に生まれたのが伊周(これちか)であり、伊周の息子が道雅である。ここで孫の道雅よりも先に、祖母の貴子について書く。
第五十四番歌
「忘れじのゆく末まではかたければ今日を限りの命ともがな」 儀同三司母(ぎどうさんしのはは)
「おまえのことをずっと忘れないよ」とおっしゃってくださいますが、先のことまでは分かりません。そうであるならば、いっそのこと幸せな今日を限りの命であって欲しい。
なんとも素直に純粋でまっすぐな愛を詠んだものだ。この歌は後に中関白になる藤原道隆に捧げたものだ。儀同三司母の名前は、高階貴子(きし)という。貴子の父親の藤原成忠は、最初の内は二人の関係には反対だったが、ある日道隆の後ろ姿を見て、「やつは必ず大臣に出世する男だ」と直感した。そして、娘と道隆の交際を許した。
そして、道隆は「今夜のことは、私は生涯忘れないよ」といった。貴子はこのように応えた。「父が言ってました。道隆様は必ずご出世なさるって。そしたら私のことなどきっとお忘れになってしまわれます。それならいっそのこと、私の命など今日を限りであったらいいのに」
ところで、「儀同三司」と藤原伊周の雅号だそうだ。「儀同三司」とは本来支那の役職名である。皇帝の外戚、高級官僚に三公(大尉・司徒・司空)に準じた待遇を与えて、「儀、三司に同じくす」としたことに由来している。藤原道長は、この藤原伊周の叔父である。時の大権力者の叔父とはよく喧嘩したそうだ。そして、息子の道雅に「出世せよ。人に追従して生きるな」と遺言した。
藤原伊周の妹である中宮定子は、七条天皇の子を身ごもったが、出産の時になくなった。妹の死を悲しんで次のような歌を詠んだ。
「誰もみな消えのこるべき身ならねどゆき隠れぬる君ぞ悲しき」
だれもみんな最後には死ぬ。そんなことは分かっているけれど、先に行き隠れしてしまった君のことを思うと悲しくてたまらない。
血のつながった妹のことをこんなに悲しむことができるということは、きっと人間味あふれる優しい人だったのだろう。母の血を引いて純粋で真っ直ぐな人間だったがゆえに、政治の世界の泥沼に引きずり込まれたのだろう。
さて、儀同三司は準大臣という地位に就くが、わずか37歳で他界する。その息子の道雅は暴力事件を次々と起こして、最後には出家して死ぬ。道雅の所業がどのようなものであったかはここでは触れないことする。およそ貴族らしからぬ、誠に怪しからぬ所業が多すぎる。詳しくは第六十三番歌のところで触れる。
さて、純粋で美しい歌を詠んだ母親とその子供たちの悲しい人生を母の歌に託して描き出そうとした藤原定家の企みは、見事に実った。
美人だったがあまり夫に愛されなかった少将道綱の母と、夫への素直な愛を真っ直ぐに詠んだ儀同三司の母と、続けて二人の母親の姿を浮き彫りにしたのは、藤原定家の手腕の賜物である。
道綱の母と儀同三司の母と、どちらが幸せだったのだろうかなどと、ゲスの勘ぐりをしても意味がない。それぞれは、それぞれに幸せだったのだろうとしか言いようがない。
さて、次世代を育てる責任は、もちろん母親だけのものではない。父親には父親の責任がある。父親は息子が将来自立して生きられるように厳しく接し、母親は父親に厳しくされている子供を甘えさせれば良い。一番いけないのは、両親がそろって同時に子供を叱ることだ。子供は立つ瀬がない。だから、父親が叱り、母親が慰めるというのが子供には一番良いだろう思う。もちろん、異論はあるだろうが。
ともかく、鎌倉時代に生きていた藤原定家という歌人が編纂した百人一首を読むことで、このような気持ちが湧いてくるのも、不思議な気がするし、日本人として生まれたことにいくら感謝しても足りないという気がする。