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百人一首に選ばれた人々 その42
第九十二番歌 二条院讃岐
「わが袖は潮干に見えぬ沖の石の人こそ知らねかわく間もなし」
『千載集』の詞書きには「寄石恋(いしによするこひ)といへる心を」とある。石は硬くて、しっかりとした形を持っている。そして、恋は柔らかいのだが形がない。その二つの異質なものを掛け合わせて面白みを引き出そうとしたのだろう。
二条院讃岐の父は源頼政である。源頼政は以仁王と ともに打倒平家の兵を挙げたが、計画が事前に漏れて失敗した。そして、「宇治川の戦い」で敗れる。
二条院讃岐は、いわば犯罪者の娘である。しかし、頼政という人は人柄が良くみんなに好かれていた。そして、彼女自身が優秀だった。だから、後鳥羽天皇の中宮任子(にんし)である。後には宜秋門院(ぎしゅうもんいん)に出仕を命ぜられた。
第七章 出家にあらず遁世なり
第五番歌 猿丸太夫
「奥山に紅葉踏み分け鳴く鹿の声聞くときぞ秋は悲しき」
全面紅葉に彩られた奥深い山で鹿が牝鹿に求愛している。その鹿の鳴き声を聞くときは、悲しいというのだ。この歌を読むと、ふうん、そんなものかという思いしか浮かばないというのが私の正直な感想である。
話は全く変わるが、「もみじ」は黄葉とも紅葉とも書くが、今では紅葉が一般的だ。しかし、支那では六朝から唐の頃までは黄葉と書いてあるものが多くて、『白氏文集』などでは「紅葉」と書かれる例が多いそうだ。だから、日本でも「紅葉」と書くようになったのだろうか。
さて、本題に戻ろう。
私は、小名木善行さんの解説も参考にして自分なりの解釈を書いているので、小名木氏の考えを見てみよう。まず、猿丸太夫というのは一種のペンネ―ムであり、相当身分の高い人が猿丸太夫のペンネ―ムでこの歌を詠んだのだろうと解説している。もちろん、論拠はあるようだがここではその論拠云々には触れない。
絢爛豪華な全山紅葉の舞台で、愛し合う二頭の鹿の鳴き声が悲しいとは、一体どういうことだろうか。小名木氏によれば、華美な生活、豪奢な生活を送る貴族の人々に対して、そのような華美な生活は悲しいというメッセ―ジなのだそうな。
当時の一般庶民の生活はとても質素で貧しかっただろうから、この戒めは正しい見解である。貴族と庶民という身分の違いはあっても、全員が天皇の公民であるから。しかし、建て前と本音が違うのはいつの時代でも、どこの国でもよくあることだ。その使い分けが最も上手なのが政治家であるのは、昔も今も変わらない。