百人一首についての思い その78
第七十七番歌
「瀬をはやみ岩にせかかる滝川のわれても末に逢はむとぞ思ふ」 崇徳院
川瀬の流れが速いので、岩に堰き止められた急流が二つに分かれても、再びひとになるように、別れたあの人とも、いつかまた逢いたいと思います。
Like water rushing down
the river rapids,
we may be parted
by a rock, but in the end
we will be one again.
崇徳院が藤原俊成に命じて編纂させた『久安百首』では、「ゆきなやみ岩にせかかる谷川の」となっている。しかし、『詞花集』の初度本では百人一首と同様の表現になっているし、さらに『詞花集』の精撰本では「谷川の」に戻り、また「われて末にも」となっている。つまり、崇徳院自身が推敲に推敲を重ねたという証拠だろう。推敲に推敲を重ねると言うことは、拘りがあったということである。
この歌には元歌がある。
「大太刀を垂れ佩きて抜かずとも末は足しても逢はむぞと思う」
『日本書紀』武烈紀
小泊瀬稚鷦鷯天皇(おはつせのわかさざきのすめらみこと)つまり第二十五第武烈天皇が若い時、平群鮪(へぐり の しび)という男と影媛を巡ってやりとりをした時に詠んだものだ。影媛を巡る男同士の争いと言うよりも、政敵同士の戦いという背景がある。
藤原定家は、この歌を崇徳院の代表作としてこの歌を選び、藤原忠通の次に配列した。崇徳院崩御後、七百年を経過してから、慶応四年明治天皇は即位の礼に先立ち、勅使を讃岐に遣わして崇徳院の御霊を京都に帰還させた。かくして、「岩にせかかる滝川」は、再びひとつになった。明治大帝のご決断により、崇徳院も安らかにお休みになれるようになったのだ。