『和歌史』なぜ千年を越えて続いたか 渡部泰明 角川選書出版 その5

 六歌仙登場
 
 桓武天皇が平安京に遷都された延暦十三年(794)からの時代を平安時代と呼ぶ。嵯峨天皇は文化振興をはかった。「唐風謳歌時代」、あめるいは「国風暗黒時代」の始まりである。
 六歌仙(ろっかせん)とは、『古今集和歌集』の序文に記された六人の代表的な歌人のことを指す。僧正遍昭、在原業平、文屋康秀、喜撰法師、小野小町、大友黒主の六人である。この六歌仙が活躍をし始める時代でもあった。
 
 その中でも在原業平を取り上げて渡辺教授は解説を進める。『伊勢物語』もまた『古今集』と並んで在原業平を読み解くには大切な資料である。
 
 業平朝臣の伊勢国にまかりけりたる時、斎宮なりける人とみそかに逢ひて、またの朝(あした)にやるすべなくて思ひをりけるあひだに、女のもとよりおこせたりける。
 
 君や来し我や行きけむおもほえず夢か現かねてかさめてか よみ人知らず 
 古今集・恋三・六百四十五
 あなたが来たのか私がうかがったのか、はっきり覚えていません。夢か、現実か。寝て夢の中のことか、また目覚めて現実に経験したことなのか。
 
 返し
 かきくらす心の闇にまどひにき夢うつつとは世人さだめよ 業平朝臣
 古今集・恋三・六四六
 真っ暗な心の闇に惑ったばかりで確かなことは言えません、夢だったのか、現実だったのか。それは世の人に決めてください。
 
 神に仕える身でありながら、男と一夜を共にするというタブーを犯してしまった。夢ともうつつともつかない闇に引きずり入れられた。人は現実を生きているのだが、現実だけでは生きられない。だから、理想や理念を追い求める。そして、現実と非現実の間を行き来する。そのような境界突破ができる、あるいは虚実の間を行き来できるのは、和歌の世界だからである。
 
 五条の后の宮の西の対(たい)にすみける人に、本意(ほい)にはあらでもの言ひわたりけるを、睦月の十日あまりになむほかへ隠れにける。あり所はききけれどえ物も言はで、またの年の春梅の花さかりに月のおもしろかりける夜、去年(こぞ)を恋ひてかの西の対に行きて月のかたぶくまであばらなるい板敷にふせりてよめる。
 五条の后の宮の西の対屋に住んでいた人に、本気ではなくて、言葉を交わしていたけれど、正月の十日あまりに、その人は他へ隠れたのだった。居る所は聞いたけれど、ものも言うことは出来ずに、次の年の春、梅の花ざかりに、月が綺麗だった夜、去年を恋しがって、あの西の対屋に行って、月の傾くまで、隙間だらけの板敷にうつ伏して、詠んだ歌。
 
 月やあらぬ春や昔の春ならぬわが身ひとつはもとの身にして 業平朝臣
 古今集・恋五・七四七
 月はちがう月なのか。春は過ぎた年の春ではないのか。私だけが昔のままであって、私以外のものはすっかり変わってしまったのだろうか。
 
 五条の后とは藤原冬嗣の娘で仁明天皇の皇后、順子(じゅんし)であり、業平の相手とは、順子の姪の高子とされている。後の清和天皇の二条后だ。
 
 二条のきさきのまた東宮の御息所(みやすどころ)と申しける時に、大原野にまうでたまひける日よめる 
 二条后がまだ東宮の御息所と申したときに、大原野神社に参詣された日に詠んだ歌
 
 大原や小塩の山もけふこそは神世のことも思ひ出づらめ 業平朝臣 
 古今集・雑上・八七一
 大原野の小塩山も今日は神世のこの日には神代のことも思いだしているだろう。
 
 二条の后の東宮の御息所(みやすどころ)と申したる時に、大原野に竜田川に紅葉流れたるかたをかけりけるを題にてよめる 業平朝臣 
 二条后がまだ春宮の御息所と申したときに、御屏風に竜田川に黄葉が流れている絵を描いてあったのを題として詠んだ歌
 
 ちはやぶる神世もきかす竜田川唐紅に水くくるとは 
 古今集・秋下・二九四
 神世にもきいたことがない。竜田川が唐紅色に水をくくり染めにするとは。
「神世」と「人の世」という全く相反する世のどちらにも、自由に往来して和歌を詠めるのが在原業平という男だったのである。
 
 右近の馬場のひをりの日、むかひに立てたりける車の下簾より女の顔のほのかに見えけれは、詠むでつかはしける 在原業平朝臣
 右近衛府(うこんえふ)の馬場で騎手の真手結(まてつがい)があった日、馬場の向川に停めてあった牛車の下簾の隙間から女の顔がほの見えたので、詠み贈った歌
 
 返し
 見ずもあらず見もせぬ人を恋しくはあやなくけふやながめくらさん 
 古今集・恋一・四七六 よみ人知らず
 見ていないともいえず見たとも言えない。そんな人が恋しくて、おかしな糊塗に今日一日悩み暮らすのではないだろうか。
 
 返し 
 知る知らぬなにかあやなくわきて言はむ思ひのみこそしるへなりけれ 
 古今集・恋一・四七七
 見たとか見ないとか、どうしてそんなことを無意味に区別するのですか。恋心を道しるべになされればいいのに。
 
 惟喬(これたか)の親王(みこ)のもとにまかり通ひけるを、かしらおろして小野といふ所に侍りけりに、正月(むつき)にとぶらはむとてまかりけりたるに、比叡の山のふもとなりければ雪いと深かりけり。しかひてかの室にまかりいたりて拝みけるに、つれづれとしていと物がなしくて帰りまうで詠みておくりける。 業平朝臣
 忘れては夢かぞと思ひきや雪踏み分けて君を見むとは 
 古今集・雑下・九七○
 
 惟喬親王のもとに出入りしていたところ、親王が出家して小野という所におられましたので、正月にお訪ねしようと下向しましたが、比叡山の麓で雪がたいそうい深く積もっておりました。難儀して親王の僧坊に着いてお顔を廃しましたが、所在なげでひどく物悲しかったので、帰宅してから詠み贈りました。 業平朝臣
 ふと現実を忘れると夢ではないかと思います。思いもしませんでした。雪を踏み分けてあなた様にお逢いすることになろうとは。
 
 物事をきれいに二分割せず、境界のようなところに我が身を置いてどちらの世界にも自由に行き来するのが業平なのだとも言えよう。
 人間にとって最後の境界とは、生と死の境界である。しかし、一旦死のほうに軸足が移れば二度と再び生の世界に戻ってくることはできない。そこは境界の先には底知れぬ深さの断崖絶壁があるのみだ。
 
 病して弱くなりける時よめる 業平朝臣
 つひにゆく道とはかねて聞きしかどきのふ今日とは思はざりしを 
 古今集・哀傷・八六一
  
 昔、男ありけり。人の娘のかしづく、いかでこの男にもの言はむと思ひけり。うち出でむことか難くやありけむ、もの病みになりて死ぬべき時に、かくこそ思ひしか、といひけるを、親聞きつけて、泣く泣く告げたりければ、まどひ来りけれど、死にければ、つれづれと籠もりをりけり。時は六月のつごもり、いと暑きころほひに、宵は遊びをりて、夜ふけてやゝ涼しき風吹きけり。蛍高く飛びあがる。この男、見ふせりて、
行く蛍雲のうへまで去ぬべくは秋風吹くと雁に告げこせ伊勢物語・四十五段
 
 昔、男があった。ある人の、大事に育てていた娘が、(この男に思いを寄せ)なんとか意中を打ち明けたいと思っていた。(しかし)言い出しにくかったのだろうか、病気になって死にそうになったのだが、(その時に)こんな風に思っておりましたといったところ、親がそれを聞いて、泣く泣く(男にその旨を)告げたので、(男は)あわてて駆け付けたのだが、(娘が)死んでしまったので、さびしく(喪に服して)籠ってしまったのであった。時は六月の末で、大変暑い時期、宵のうちは管弦を奏していたが、夜が更けるとやや涼しい風が吹いてきた。すると、蛍が高く飛びあがった。この男は、寝そべりながらそれを見て、歌ったことには、空飛ぶ蛍よ、雲の上まで行けたなら、秋風が吹いていると、雁に知らせてくれ
 
 夏と秋の境目、常世からやって来る雁、その雁と男をつなぐ蛍、どれもこれもがあの世とこの世の境界を行き来する魂の表象でもあるのだろう。
 

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