キケロー著 『老年について』から

キケロー著 『老年について』から
 
この著書は老年の大カトー(マルクス・ポルキウス・カト・ケンソリウス)が、若年の小スキピオ(スキピオ・アエミリアヌス)とその友人エラリウスに対して話しかけるというようになっている。
大カトーは二人の青年に向かってこう語り始める。話題は、老年が悲惨なものであると考えられている原因になる四つの事柄である。
「さて、わしの理解するところ、老年が惨めなものと思われる理由は四つ見いだされる。第一に老年は公の活動から遠ざかるから。第二に、老年は肉体を弱くするから。第三に、老年はほとんどの快楽を奪い去るから。第四に、老年は死から遠く離れていないから。」
 第一の公の仕事から離れるということについては、大カトーはこう言っている。
「肉体は弱っていても、精神で果たされるような、老人向きの仕事はないというのか。」
そして、こう結論を出す。
「肉体の力とか速さ、機敏さではなく、思慮・権威・見識で大事業はなしとげられる。老年はそれらを奪い取られないばかりか、いっそう増進するものなのである。」
 つまり、老人には強靱な体力は欠けるし、筋力もない。しかし、老人ならではの、経験と考察に満ちた仕事というものは、必ずあるのもだということだ。
若さ故に、配慮が足りずに苦い思いをしたという経験は、どなたにもあるだろう。何者も恐れることなく、真正面からぶつかっていくというのは青年の特権である。小細工ばかりするような青年には好感はもてないものだ。
老年になれば、豊かな経験と深い思慮で成し遂げられる仕事はある。ボランティアの仕事などはまさしくそうだと思う。報酬を求めるのではなく、自分の知識と経験をフルに活用して人の役に立てるというのは、実に喜ばしいことだ。
 
 では、第二の老年は肉体を弱くするということについてはどうか。
「今、青年の体力が欲しいなどと思わないのは、ちょうど、若いときに牛や象の力が欲しいと思わなかったのと同じだ。在るものを使う、そして何をするにしても体力に応じて行うのがよいのだ。」と大カトーは言う。
「人生の行程は定まっている。自然の道は一本で、しかも折り返しがない。そして人生の各部分にはそれぞれの時にふさわしい性質が与えられている。少年のひ弱さ、若気の覇気、安定期にある者の重厚さ、老年期の円熟、いずれにもその時に取り入れなければならない自然の恵みのようなものを持っているのだ。」
まさに、「人生の各部分にはそれぞれの時にふさわしい性質が与えられている」のだ。若年にして覇気を失った若者は、若者ではない。老人なのに盛んな覇気があっても、肉体や気力の衰えによって、うまくバランスが取れない。自然の恵みは、人生の行程で少しずつ採取することしかできないのだ。
 
第三の老年は快楽を奪い去るということについては、大カトーはこのように語っている。
「自然が人間に与える病毒で肉体の快楽以上に致命的なものはない。この快楽を手に入れるために、開くことを知らぬ意馬心猿の欲望がかきたてられる。」
 確かに老年になれば、食欲も酒を飲みたいという欲望も、青年時代に比べるとかなり薄くなってくる。性欲も同様だ。老人にして性欲が盛んであると、処理に困ってしまう。貝原益軒も、そのへんのことを説いている。
いずれにしても、様々な欲望が薄れるということは、ひとつの救いになる。しかし、あまりにも淡泊になっては、枯れ果ててしまう。肉体や気力の衰えと欲望とのバランスをうまく制御することが、老年を上手に生きるコツでもある。
 
第四の老年は死から遠く離れていないという点についてはどうか。「死は老年と青年とに共通のものなのに、そのように老年かを非難するのはどうしたことだ。」
徒然草の題百五十五段にはこうある。
「四季はなほ定まれるついであり。死期はついでを待たず。 死は前よりしも来たらず、かねて後ろに迫れり。人皆死あることを知りて、待つこと、しかも急ならざるに、おぼえずして来たる。 沖の干潟はるかなれども、磯より潮の満つるがごとし。」
 青年であれば死は遠く、老年であれば死は近い。一般的にはそうに違いないが、人の運命などは全く分かりはしない。私たちは2011年3月11日の東日本大震災でそのことをしっかり学んだ。多数の未来ある子供たちや青年たちが一瞬にして亡くなった。誠に、「死は老年と青年とに共通のもの」なのだということを、理解させられたのだ。
 このように大カトーは、老年と青年には違いがあることを認め、老年には老年なりの良さというものがあるのだと、明快に言っている。老いてしまったなどと嘆く必要はない。青壮年の頃のことを懐かしんでも仕方がない。私たちは、与件の枠内で精一杯生きるしかない。
 

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